「 考え(自分関連) 」 一覧
2011/12/28 考え(自分関連)

「マンションを買おうと本気で思っていた」それが今年の最初の頃の話らしい。
友人はそのとき、「俺にはすごく珍しいんだけど、マンションを買おうとしたとき、占いの本を読んだんだ。そしたら今年は何もする年じゃないから。ということを信じてマンションの購入をしなかった」と。
オカルト的な、特に占いを毛嫌いしている僕に対して、ちょっと遠慮がちにそのような事を言っていたのが非常に印象的であった。
そして地震があった。さらに友人は恋人が見つかった。
行動するリスクと行動しないリスクがある。そして僕は同じリスクなら行動するリスクを負いたい。だからマンションを買わないという点においては、まったく評価する手段を持たない。さらに買わない理由がオカルトなんだから、これはもうバカげているとさえ思ってしまうというのが本音。
一方で、「もし」というのもある。例えばマンションを買っていたら、例えば地震で物件価値の、想像を大きく超える精神的な不安も生じるだろう。これは大きい事だと思う。
さらに今の恋人と、付き合っていない可能性もある。ご近所だからという理由で、恋愛が進展した可能性は十分にある。だからもしマンションを買っていたら、そもそも知り合っていないかもしれないし、恋愛に発展したのかは全く微妙である。
オカルトのことは僕は信じない。だから「何もしない年」であるべきだと言うことを信じているのであれば、恋人関係にはなるべきではない。マンションの購入はしなかったのに、恋愛はOKなんて虫がよすぎる。
しかしマンションを購入しない事が、恋人との発展につながったのだとすれば、それは評価につながる。
何かをしないとき、「何となくイヤだから」というのは、十分な理由になると思う。なぜならそれは縁につながる可能性があるから。営業手法で、「断る理由を全部つぶす」というやり方がある。僕もそうやって営業を受けることがある。で、断る理由が実際にないからそれでも断るのは辛い。このときに「何となく今はタイミングじゃないので」ということで断ってしまえばいい。根拠なんていらない。
マンションを買うのが何となくイヤだったのに、それをオカルトを理由にするから話がややこしくなる。
だからマンションを買わなかったという素晴らしい判断のおかげで、恋人と関係を持てたとするならば、行動しないリスクは十分に報われると考えている。
2011/12/01 考え(自分関連)

長期か短期か、というのが想像できる場合がある。
それはもちろん、僕の勝手な想像で、いい迷惑だと思う。しかしそれでもやっぱりそういう予想は僕にとって、とても重要なことだと考えている。
もちろん、きれい事なんかじゃなくて、みんな幸せであることがとてもすばらしい状態だと思うし、それぞれは、それぞれのやり方でそれを達成するべく努力をして欲しい。もちろん僕だってそれは他人事じゃない。特に僕の場合は、すごく脆弱な部分を併せ持っていることもあるので、他の人以上にがんばらなければならない。
と、いうことですが、やっぱり他のカップルを見て、「ああ、これは続かないな」と思う場合があって。逆に「これはお似合いだな。ぜひ長期で付き合って欲しいし、そうなればすばらしいな」と思うこともある。
ちなみに僕の感情はすごく単純で、続きそうな恋愛を見て嫉妬し、続かなさそうな恋愛を見て嫉妬する。そして他人事としても、続いて欲しいと単純に願う。その一方で、自分も負けてられないと鼓舞するのである。
付き合うことには、色々な理由がある。もちろん見た目ということもあるだろうし、性格かもしれないし、体型かもしれない。見た目はそうじゃなくても、雰囲気とかもあり得るし、金銭的なこともあり得る。どれか一つが突出している場合もあれば、複合的なことかもしれない。
付き合う理由はそれぞれである。そしてどの理由で付き合ったとしても、それが続く・続かないの判断にはほとんど影響しない。例えば身体の相性が理由で付き合い始めた場合、身体の相性の理由で別れるともし考えるとすれば、それは短期の恋愛になる可能性がある。
しかし本質はそこではない。付き合うことの理由に身体の相性を挙げるほどそれを重要視している人の場合、さらに相性がいい人を捜す可能性があって、それはもちろん浮気。だからその場合は、浮気が理由で別れることになるのである。
逆に金銭的な理由だった場合は、その金銭的な部分が維持されている間は続く可能性が高い。金の切れ目が縁の切れ目とはよくいったものである。また、最近ではGPSなども使った出会いができるようなので、近所という理由で付き合い始めた場合も、それが維持されている間は、続く可能性もある。(もちろん長期・短期のファクターとしては弱いけど)
見た目や会話の印象というのは、判断するための材料の一つになる。例えばおとなしい人と、すごく活発な人が付き合った場合、性格的なことは大丈夫なのだろうか。という判断ができる。
友人が付き合った場合、友人だからこそ見えてくるところというのがある。性的なことをすごく重視していることを知っている場合、もちろん恋愛はしっかりするだろうけど、肉体的なことはちゃんと大丈夫なのだろうか。と、心配してしまうのである。
そういう姿を見て自分なりに考え、「ああこれは数ヶ月」そのように判断した恋愛が、もっともっと続くこともある。逆に「これは年いくな」と思った恋愛でも、すぐに破局してしまう場合もある。
もちろんほとんどの恋愛は1年さえも維持することが難しいので、そういう意味では圧倒的に短期が多い。確率的にそうだとしても、やっぱり長期の関係が維持されるといいなぁと僕は願っているし、自分もそうでありたい。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/11/27 考え(自分関連)

何度となく書いているが、僕はもう全くもてない。これは何重にも重なっている僕の悪い部分が、たとえ一つ一つのステップをクリアしたとしても、次から次へとおそってくるからである。
例えば、奇跡的に僕の顔がタイプだとしても。例えば僕の雰囲気と背の低さというのは、おそらく相性が悪い。
性的なポジションが一致しても。やっぱり僕の背の低さとか、雰囲気の下品さはモテからはほど遠い。
身体がタイプだったとしても。おそらく顔がタイプじゃないだろう。
そういう意味では、たとえパーツの一つ一つが不完全であっても、場合によっては平均以下であっても、トータルでの雰囲気作りがうまい人は、それなりに需要があるのではないかと、思ってしまうところもある。
もしくは、誰もがうらやむようなずば抜けた要素を一つだけでも持っているとか。
トークで好かれることはまずない。性格が好かれることもまず無い。
と、ここまでだと、自分で書いてても思ったけど、なんだかすごくネガティブな感じがする。しかし僕はそれをあまりネガティブには考えていない。
もちろん今までの経験から、僕自身の市場での立ち位置というのは、だいぶ把握してきている。そこには絶望のような感情ももちろんあるが、だからこそ、なるべく抵抗していきたい。抵抗しなければという目標でもあるし。
しかし最近はその「市場」に変化を感じるのである。
いくつかの変化は、25歳ぐらいから始まったように思う。
かつては、男性アイドルといえば20歳以下ぐらいだったように思うし、イケメンと呼ばれる人のほとんどが、未成年か20歳前後であった。そしてアイドルは使い捨てのように扱われ、世代交代も非常に激しかった。
しかし僕の年齢とともに、アイドルの賞味期限は長くなった。例えば僕が高校生ぐらいのときに活躍していた各アイドルの人たちは、未だに活躍している人も多い。年齢層としてはそろそろ40代にさしかかるのかな?そしていまだに男性アイドルもしくは、それに近いジャンルとして活躍できていることは、おそらく僕が高校生のころにはあり得ない話だった。
こうした変化は、20代後半の男性アイドルが「新規に」生まれる可能性を示していた。そしてそれを受け入れる社会というのは、年齢としての好みが多様化することにつながっていると思う。そういうことを考えると、おそらく僕の年齢で、今僕が体験していることは、モテという視点からみれば昔よりも風通しがよくなっているのかもしれない。
だから僕もがんばってこの勢いに便乗したいのです。魅力的な30代を目指します。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/11/27 考え(自分関連)

何度となく書いているが、僕はもう全くもてない。これは何重にも重なっている僕の悪い部分が、たとえ一つ一つのステップをクリアしたとしても、次から次へとおそってくるからである。
例えば、奇跡的に僕の顔がタイプだとしても。例えば僕の雰囲気と背の低さというのは、おそらく相性が悪い。
性的なポジションが一致しても。やっぱり僕の背の低さとか、雰囲気の下品さはモテからはほど遠い。
身体がタイプだったとしても。おそらく顔がタイプじゃないだろう。
そういう意味では、たとえパーツの一つ一つが不完全であっても、場合によっては平均以下であっても、トータルでの雰囲気作りがうまい人は、それなりに需要があるのではないかと、思ってしまうところもある。
もしくは、誰もがうらやむようなずば抜けた要素を一つだけでも持っているとか。
トークで好かれることはまずない。性格が好かれることもまず無い。
と、ここまでだと、自分で書いてても思ったけど、なんだかすごくネガティブな感じがする。しかし僕はそれをあまりネガティブには考えていない。
もちろん今までの経験から、僕自身の市場での立ち位置というのは、だいぶ把握してきている。そこには絶望のような感情ももちろんあるが、だからこそ、なるべく抵抗していきたい。抵抗しなければという目標でもあるし。
しかし最近はその「市場」に変化を感じるのである。
いくつかの変化は、25歳ぐらいから始まったように思う。
かつては、男性アイドルといえば20歳以下ぐらいだったように思うし、イケメンと呼ばれる人のほとんどが、未成年か20歳前後であった。そしてアイドルは使い捨てのように扱われ、世代交代も非常に激しかった。
しかし僕の年齢とともに、アイドルの賞味期限は長くなった。例えば僕が高校生ぐらいのときに活躍していた各アイドルの人たちは、未だに活躍している人も多い。年齢層としてはそろそろ40代にさしかかるのかな?そしていまだに男性アイドルもしくは、それに近いジャンルとして活躍できていることは、おそらく僕が高校生のころにはあり得ない話だった。
こうした変化は、20代後半の男性アイドルが「新規に」生まれる可能性を示していた。そしてそれを受け入れる社会というのは、年齢としての好みが多様化することにつながっていると思う。そういうことを考えると、おそらく僕の年齢で、今僕が体験していることは、モテという視点からみれば昔よりも風通しがよくなっているのかもしれない。
だから僕もがんばってこの勢いに便乗したいのです。魅力的な30代を目指します。
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2011/11/17 考え(自分関連)

むだ毛というのがある。僕にとっては毛髪以外は、すべてむだ毛ではないかと考えてしまう。主立った部位としては、ヒゲ、胸、腹、腕、股間、お尻、もも、すね。と、様々なところに、一見必要無いと思える毛は存在している。
ワキなどは今まであまり気になったことが無いけど。。
僕も当然ももとすねには毛が生えている。そしてそれは、やや濃いぐらい。毛をくるくるとやって、アリが作れないぐらいの濃さ、だけどそれをチャレンジしてみようと思うぐらいの濃さ。
僕は足の毛は、相手は無毛であれば当然うれしいが、自分自身は無毛はイヤで、ほんのり生えているぐらいが、ちょうどいいと思っている。決してうすい量ではないけど、濃くもない量。
理想の状態と比べて、今の僕はちょっと濃すぎる。だから理想に近づくためには何らかの処理をしなければならない。
さすがに脱毛をするほどではないけど、切るのか剃るのかして、自分が理想とする毛の状態を維持したいと考えるのである。
僕自身の手入れの方法として、かつてははさみで切っていた。手間がかかるのがかなりの難点だけど、うまく手入れをすれば、僕が理想とする状態を作り出すことができた。
ちなみに、剃ってツルツルにするのは、理想の状態ではない。適度に無いとだめだ。
そして今はバリカンで切っている。最近のバリカンは長さを調整するアタッチメントがついており、5mmだか3mmだかで切るとちょうどいい。ツルツルでもないし、長すぎもしない。一度それをすれば、数ヶ月はもつ。
そのためだけにバリカンを買うのは確かにちょっとためらわれることではある。しかし僕にとってはそれは十分払う価値があるものだと考えている。そして今は彼と一緒に定期的に(そして結果的に彼の方が圧倒的に多く)使っているのである。
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2011/11/11 考え(自分関連)

いつからだろう。物覚えが悪くなった。もちろん加齢による衰えということよりも、生活習慣による強化という側面が強いように思う。
僕は仕事柄、「何かを覚える」必要というのは、意外と少ない。ほとんどの場合はその場で調べることによって解決するし、覚えたところでそれが役に立つとは限らない。たいがいにおいて、IT関係の仕事の場合「概念」を理解することの方がよっぽど重要だと僕は考えている。
だから仕事でも何かを覚えていることは少ない。せいぜい現在進行している案件やしなければ行けないことを頭の中に覚えておけばいい。まあそれでも最近はわすれがちなんですが・・。
例えば「メールの設定」について聞かれることがある。手順をすべて記憶して説明することができれば一番いいのかもしれないが、もちろんそんなことは僕にはできない。メールを設定するパソコンだって多岐にわたる。マックということもあるし、Windowsのこともある。それもバージョンの違いによって全然違うし、使うメールのソフトによっても違う。最近はそこに iphone や android も出てきた。
だから仕事上、調べて案内できればいいのであって、覚えている必要は無いということ。
さて、それが生活に影響を及ぼす場合がある。それが記憶力の悪さである。例えば僕は友人たちの年齢や名前がほとんど分からない。そして恋人の誕生日もつい先日まで覚えていなかった。
ど忘れというレベルならいいが、覚える気が無いと思われてしまうほど覚えられないのは、おそらく何か病的な問題が発生しているのではないかと思っている。
覚えることが苦手ということに関連し、いい加減という印象を持たれることがある。そしてこれは事実でもある。
しかしやっぱり仕事では、どちらかといえばきっちりしている。というのもこれもやっぱりIT関係の仕事の場合は、きっちりしていることだけが求められる。「たぶん」なんて絶対ダメだし、何となくとか、やってみてから。ということは最低の発想である。少なくとも僕はそのように教わってきたし、自身も強くそれを感じている。
仕事では絶対にいい加減ではないと思っているし、実際取引のある方からは、いい加減という印象は無いと思う。
しかしプライベートでは自分でもいい加減さを感じる。いくつかパターンがあるんだけど、恋人がいるっていう話を聞いたときに「いいなー」って言うこと。写真を見たときに「かっこいい・かわいい」っていうこと。住んでいる場所を聞くときに「いいところにすんでる」っていうこと。恋人が年下だって聞けばかわいいって姿を見る前から言うし、年上だって知ったらかっこいいって言う。背が高いと聞けばかっこいいっていうし、低いと聞けばかわいいっていう。
これはもう一連の流れみたいなもので、ほとんどといっていいほど例外は発生しない。たまに、かなりフライングしてしまい、恋人がいるっていう話を聞いただけでも、「いいなー。(恋人は)かわいいじゃん」と言ってしまうこともある。もちろん相手は「??見てないじゃん?」って感じ。
自分で言うのもアレだが、僕は仕事ではどちらかと言えば細かく、キッチリやっていると思っている。しかしプライベートでは、かなり重度ないい加減だと思っている。そしてそれは共存しづらいだろうと思っている。
このスタイルが長いので、特に問題は感じていないが、どちらがより自分らしいのか考えるときは確かにある。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/11/10 考え(自分関連)

僕は背が低い。
確かに色々なことを色々に加味したら、もっと伸びて欲しかった。でもあまり気にしてはいないけど。
普段の生活の中で、自分の背の低さを感じることは少ない。少ないどころか、無いかもしれない。天井の低い施設で、彼や友人が身をかがめているときに、僕は全然問題無いというシチュエーションぐらいじゃないだろうか。
しかしそんな中でも、たまに気になることがある。そしてそれは僕自身のなかでは、恐怖という感情とともにわき上がってくるのである。
隣同士で歩いている時はほとんど気にならない。しかし相手が少し後ろに下がって、僕の後ろをついてくるような並びになると、僕はすごく怖いのである。
かつて抱きしめられると、拘束されている感じがして怖いっていう話を書いたが、それに近く、まるで後ろからガバッと覆い被されるような感覚がして、すごく怖いのである。
ちなみに彼の身長は173cmだったと思う。彼が後ろを歩いてもほとんどそんなことは無いので、おそらくそれ以上の背の高さから、そのような感情が出てくるのだと思う。
拘束されるような感覚や、閉塞した感覚がなぜ恐怖なのかは僕には分からない。少なくとも閉所恐怖症のようなことは無いし、何か閉じ込められたようなトラウマがあるわけでもない。
ただ、人よりもちょっとだけ狭さには抵抗があるのもまた事実だと思う。僕は一人暮らしする家を決めるときには、何よりもまず広さが重要だったし。
だから背の高い人はなるべく僕のすぐうしろを歩くことをお控えください。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/11/08 考え(自分関連)

31歳です。十分にオジサンになってきました。見た目もそうですし、肉体的にも。そして年齢も。
僕はオジサンと言われることについて覚悟しなければならない年齢というのは、おそらくそれは30歳は一つの節目だと思う。実際には28歳ぐらいから徐々にオジサン化しているようにも思うけど。
そしてオジサンというのは昔の僕にとても重要なキーワードであった。
確か僕が17歳ぐらいだったときの話。僕が今となっては尊敬している友人と知り合ったのもこのときであった。この友人からは、深爪の影響も受けた。あまり長い期間のつきあいではないが、1-2年ぐらいだったと思う。そんな短い時間を一緒に過ごしただけだけど、僕としては爪に代表されるように、とても偉大な人で、僕の人生を大きく変えてくれた人だと思っている。(ちなみに後にも先にも「かお。君って男性がすきでしょ?」って聞かれたのは唯一この人だけだった。なおこのときは比率が男性30%-40%ぐらいだったと思う)
この友人は確か僕より少し年上で、僕が17歳ぐらいの時に、23歳ぐらいだったと思う。そして当時の僕や僕の同年代の友人からすれば、その人は十分にオジサンだった。だからよく話しかけたりするときにはオッサンとかオッチャンと声をかけたり、相手もまたそれに反応してくれたのである。
この人は僕が今まで知り合った人の中でも、桁違いの人でもあった。人に好かれることについて、天才的なのである。そしておもしろそうな本を見つけるのも天才的であった。彼の何が魅力的なのかは分からない。だけど凡庸な言葉で表現するなら、会話が天才的におもしろかったし、行動がおもしろかった。会話の押すところと引くところが絶妙であった。感情を上手に表面に出し、喜怒哀楽を共有できる人だった。
顔はごく普通で、特にかっこよくも無い。だけどすごくモテていた。(ノーマルの人です)。前にも書いたかもしれないけど、この人は必ず恋人を見つける時職業やステータスから探していた。23歳という年齢を考えるとそのような出会いも別に悪くはないのだと思うが、とにかくそんなことは普通は相当難しい。当時は「スッチーとはつきあったから次は女医さんかなー。」みたいな感じ。「女子高生がいいから紹介してって友達に言ったら、おまえの歳だったらお金払わなきゃ無理だ」って言われたらしい。
そして当時オッサンと言われても、あまり気にしていなかったようであった。確かに時々「お前らも俺の歳になったらオッサンて言われるようになるぞ」なんて言ってたけど、そうやって親しげに仲間に加われるのはその人の才能だったように思う。
むしろそういう周りとの年齢のギャップや精神的な距離感を、あえてそういうことを受け入れることで近づいていたのかもしれない。し、そういうことができる人っていうことで、魅力的に感じたのかもしれない。
だから僕は、肉体的にオッサンになることには相当抵抗があるしなんとか反抗しようと思っている。しかし他の人から、肉体的以外の部分でオッサン・オジサンと呼ばれることがあれば、それはむしろうれしさを感じる。当時僕が友人に対して使っていたその言葉は、僕は親しみや近しい距離感の表れであった。
もちろん僕に対して使われる言葉は事実の表明か侮蔑の可能性もある。だけど気にせずオッサンと呼んでもらえることは、僕はうれしいことだと思っている。
僕の人生において、数少ない尊敬できる人が言っていた言葉。「オッサンって言われるようになるぞ」という年齢になりました。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/10/17 考え(自分関連)

ゲイはあるときには、ばからしいほど優しい。そしてあるときには、ひどいほどに残酷である。特にそれは、もういままでさんざん書いていることだけど、性的なことになれば、それがとたんに中心になって、誰もを裏切るようなことになるのである。
一方で恋愛には臆病な人も多く、なかなか勇気を出せないという人が多い。勇気がでないのは優しさが邪魔になっていることも多い。
最近特にたくさん聞くようになったので、ここで僕の考えを書いておこうと思う。
まず最近、「○○さんが幸せになるなら自分は身を引く覚悟がある。それが自分の彼に対する想いの大きさ」という趣旨のことを耳にする機会が多い。他の表現方法の場合もあるし、言葉では言わずとも態度がそれを示している場合がある。
そして僕はその考え方については、いまいち理解に苦しむところがある。
他人の幸せを願うというのは、ある意味でエゴではないのかとさえ考えてしまう。自分が安定した立場にいながら、誰かを応援するのであれば、別になんの問題も無い。もちろん、自分が安定していない立場からであっても、他人を純粋に応援するようなこともあると思う。
だけどそれは、自分とは関わらない範囲であるべきだと思う。例えば「勉強がんばってね」というイメージ。自分が勉強ができようができまいが、応援することには、いい成績を期待すること、願うことには何ら問題がない。
しかし恋愛に関しては全く別である。自分の好きな人がいて、その人が幸せになるために、自分が関わらずに応援するなんていうのは、誰のための考えなのか。
好きな人は、タイプじゃない人からいいよられても、別にそれ以上の進展は無い。逆にもし進展があり得るなら、それはそのまま突き進むしかない。この2択以外の何があるというのか。進展がありながら、相手の本当の幸せ(笑) を望むために自分が身を引くなどと言う考えはどうやって正当化できるのだろうか。
2つのことが実現できない場合(ここで2つのことを実現するというのは、二股になってしまう)、必ずハッピーな人と、アンハッピーな人が生まれる。これはもう避けようの無いことである。だからせめて、自分と付き合うことになって、相手がなにか大きなものを失う必要があるとき、それも含めて相手のことを受け止める覚悟が必要だし、本当に表現するべきはそこだと思う。
例えば僕であれば、彼が「かお。が結婚するなら、僕は身を引くからね」といったら、無責任な発言だと思う。ここはやはり「結婚はもう実現できないけど、それ以上の幸せを二人で築こう」でしょう。
僕にしてもそう。彼が僕と付き合うことによって、彼はたくさんのことを失っている可能性はある。だけどそうやって失わせてしまったものと、僕が与えられることを天秤にかけて、それは必ず幸せの方が大きいと信じることが、僕が果たせる責任だと思っている。
結局恋愛では、相手のために何かを考えて行動するのではなく、自分のために行動し、その結果のすべてを引き受ける覚悟が必要。
仕事でもそういうジレンマはよくある。既存の取引のある業者を自分の会社に乗り換えさせる場合、自分たちは競争に勝たなければならない。既存の業者がかわいそうだから、という理由で、積極的な行動を控える必要はどこにもない。ましてや、既存の業者と取引を続けた方がお客さんにとっても幸せだから。なんていうのはバカげている。
自分ができることは、自分の会社に乗り換えてもらった方が絶対にお客さんは今よりも幸せになれるという自信と覚悟だけである。そして結果的に取引が終了してしまった既存の業者は、これを糧に次の勝負に望んで欲しい。それぐらいしか考えられないし、考えるべきでもない。
恋愛においては自分と恋人が幸せになることをまずは第一に考える必要がある。それ以外の第三者が登場してきた時点で、それは本当に重要なことか、慎重に考える必要があると思う。
人の幸せを願うことをエゴと思い、自分の幸せを第一に考えることをエゴだと思う。同じエゴならば、自分の幸せを優先すればいいのではないか。
と、この記事はしばらく前に書いていました。昨日ある日、ケーキ屋の娘に恋をした。 を読んでやっぱり難しいなぁと思いました。出てくるゲイの方は一回身をひいてるんですよね・・。
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2011/10/16 考え(自分関連)

僕がこの年齢になるまでの、いくつかの恋愛に対する経験で、それは僕自身が経験したこともあれば、友人などから伝え聞いた話も含めて。恋愛に対する新しい考え方などは、そうそう無いと思っていた。
それはもう20代の半ばぐらいの頃から、恋愛に関するほとんどのことというのは、体験しているだろうし、またそういう下世話な話はみんな大好き。だから絶対ほとんどのことは聞いている、知っているのである。
恋愛の真理というのがあるのかは分からない。だけど、例えばブサイクでもモテる人がいたり、かっこよくてもモテない人がいたり。そういうパターンというのは存在する。
そしてそのパターンというのは、恋愛においてはおそらく、他の色々なことを比べたとしても、単純なことに分類されるように思う。例えば料理は千差万別であるように、国によって明らかに特徴があるような。しかし恋愛は、動物も人間も国籍も男女も関係無く、統一的な概念が存在している。
それはおそらく欲に直結していて、ゴールというのが、大小の違いなどがあるにしても、存在しているからではないか。
暴力だったり、ケンカだったり浮気だったり。はたまた借金だったり。仕事だったり性的なことだったり。趣味のことだったり。そういうありがちな話を、恋愛のことでは対象を変えて、ぐるぐると回っている。しかしそれでも常に他人のそういう話はおもしろい。
そのように考えていたので、恋愛に関する話というのは、ほとんど新しい発見は無いと思っていた。
しかし最近になって、新しい話を聞き、それがまたとても驚くような内容であった。
それが、合う部分と合わない部分の話である。
趣味や嗜好の好きな部分がたくさんあるから好き。という場合もある。しかし場合によっては、嫌いな部分が一緒だから惹かれる場合もある。
人を好きになるとき、趣味や考え方の好きな部分での共通点をまずは見ることが多い。(容姿はとりあえず置いておく)
共通点においては、別にそれでいいと思うが、そこから発展する恋愛は長期的に見て厳しいことが多いという話である。
一方で、好きな部分での共通項が少なくても嫌いな部分での共通項が多い場合もある。ファッションにお金を使いたくないとか、ゲームは嫌いとか、料理はしたくない、とか。
そして長期的な関係を築こうとした場合に、この部分の共通項は非常に重要である。ということだと思う。
僕自身は聞いただけなので、本当にそのことを言っているのか分からない。だけどそのように解釈した。
なぜこれが僕にとって非常に納得できたのかといえば、それは僕と彼の関係がまさにそれだからである。僕と彼の共通の趣味などはホントにゼロに近い。唯一彼が最近になってバイクの免許を取得したので、一緒にどこかに出かけるぐらいだと思う。あとは旅行なども、僕は “後から” 好きになったので、これも今となっては結果的に共通項かもしれない。
しかし知り合ったときのことは、すでにブログに書いたが、話はかみ合わないし、これと言った何か魅力的なものも感じられなかった。
そして最初は、好きだと思う部分も、嫌いだと思う部分の共通項もほとんど存在しなかった。むしろ僕の好きな部分は彼が嫌いだったり、彼の好きなことは僕が嫌いだったりしたのである。
知り合ってすぐに、彼は僕が嫌いだと思う部分を修正してくれたので、結果的に嫌いだと思う部分が共通項として、初期の段階で確立された。それはさんざん書いているが、掃除・料理・歯のこと。”掃除が好き” ではなく、”汚いのが嫌い”というイメージ。
僕が彼のどこを好きかと言われると、例えば話が合うとか、一緒にいて楽しいとか、そういう表現はいまいちしっくりこない。どちらかと言えば、長時間いることが苦痛にならないとか、そういうゆるい感じ。
その実感は、友人に言われたように、好きな部分よりも嫌いな部分が共通していた方がいいという話に近い気がする。
だから付き合って初期の段階で、そして長期的な恋愛を考えるのであれば、なるべく嫌いな部分についてお互いの共通認識を持ち、それが一致していることを確かめることができた方がいいのではないかと考えている。
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