2014/09/13 考え(ゲイ関連)
このブログを年に1回ぐらい読み返している。最初に記事を書いたのが、2010年秋のことなのでもうずいぶん前の事のように思う。
そして過去のブログを読み返して思うのが、将来に対して書くときは不安だとか見通しが立たないことを中心にかいている。そして過去にこういう体験があった。というのは、結論をかなり断定的にかいているなぁということ。
もちろんこれは僕の性格をとてもよくあらわしている。たとえ明日のことさえもよく見えてこない僕にとって、誰かとの数年後というのは、全く想像がつかず、それは怖い事でしかない。
一方で、過去の積み上げが現在の自分だと考えているため、過去に何があったか。そしてそこからどういう教訓を得られたのか。というのはとても大切なことである。そしてできれば、そこから、どのように行動するべきなのか。まで分かると一番かもしれません。
細かい将来の事というのは全くわからない。しかし今の延長からある程度想像できることがいくつかある。
一つは引っ越し。(同居の可能性も)
双方の両親?もしくは片方の親への紹介。
さすがにここまで長期の恋愛をしていれば、お互いの中では相当に完結している。もしくは完結しつつあるように思う。だからより外部に向けた行動というのはどうしても必要になってくるのではないか。
そしてそれが、親への紹介ということ。
少なくとも僕は以前の記事にも書いたとおり、母親には伝えてある。そして母を経由し父も知っている(らしい)。
妹たちも知っているので家族全員はこのことについてはみんな知っているのである。
そしてたまに母親は、紹介しないの?という発言もある。
彼も伝えた。そして彼の親には僕は何回か会ったことがある。それは友人関係として。
伝えてからはまだ会ってない。何か言われるのでしょうか・・
ということで、これからのことについて今までよりもより強く意識していかなければならないように考えています。
※記事が前後してしまっています。
この記事は、まだ親に伝えてから恋人を会わせてないときに書きました。結局親には伝えましたし、その後直接会うことになりましたし会ってからもうまくいっています。
2014/09/07 日常

相手の事なので、今日の記事は簡単に書く程度にします。
僕はかつて自分の現状を母親に伝えました。2013-11-01 親に言いました。
彼も親に言ったようです。そして特に何も無かったようです。
※ちなみに実際に言ったのは、5月ごろ?の話だったと思います。この記事を公開するのが遅くなりました。
かつて僕は、相手の親に対する葛藤を見ていました。
僕にとってそれは、正直なところあまり信じられないことでもありました。
僕自身はあまり積極的に親に言うつもりもありませんでしたし、言わない事に対して何も考えたことはありませんでした。
しかしカミングアウトに関しては様々な考え方があり、特に葛藤している人もいるという話は、そのときにおそらく初めて触れたのです。
で、彼は一大決心とともに親に言うと思うので、僕は全く決心をせずに、さっさと親に伝えてしまおうと思って先日の記事の通りサラッと言ってしまいました。
結果的に僕はなんの問題も生じませんでした。そして彼の場合でもなんの問題も生じなかったようです。
2014/08/31 考え(ゲイ関連)
かつての僕の友人の話です。
僕が20歳ごろに知り合った友人で、その友人は僕よりも少しだけ年齢が上でした。
そしてその友人は、すでに数年間付き合っている恋人がいる。そのように言っていたのです。
しかし話を聞いているうちに、その恋愛は正しい物ではないと僕は感じるようになりました。
結論としては、その友人の恋人は色々な人と恋愛をし、結局僕の友人は複数人いる恋人のうちの一人だと言うのです。
友人が言うには、堂々とそのように言われるわけではないそうです。しかし行動の端々でそう感じると言っていました。
恋愛には様々な形態があり、それを他人がどうこう言う物ではない。最近はそのように感じる部分も多くあります。しかしそのときの友人の話を聞くと、その恋愛は決してこのままの状態で続けるべきではない。そのように考えていました。
色々な事があって、その友人は結局恋人と別れてしまったようです。
この別れの原因は僕の意見を受け入れたとかそういう事ではなく、おそらく普段の行動の我慢が限界に達したのだと思います。
友人とはその別れたという話を聞いた後に疎遠になってしまいました。しかししばらくして数年ぶりに再会したとき、その憔悴した感じというのはとても強く印象に残っています。
たとえどのような相手と恋愛をしていたとしても、そこから得られるものは大なり小なり存在しているようです。そのため、僕が第三者としてその恋愛を見る限りでは、決して続けるべきでは無いと考えていました。しかし実際には、別れた後の精神的な不安定さを見る限りでは、複数の恋愛相手の一人というような状況だとしても、そのまま続ける事は精神の安定につながったようです。
今でも思い出す事があります。
このような恋愛について、終わらせるべきなのか、それともそのまま続けるべきなのか。もしくはそれ以外の何かがあるのか。
2014/08/18 考え(自分関連)

これは過去に書いたかも知れません。(と思って検索してみたけど、それらしいのは見つかりませんでした・・)
かつての友人で、非常にネガティブな人がいました。今はもう連絡を取っていないのでどうなっているのかは分かりません。
会話をしたときには、必ず悪い方向で物事を考えていました。
遊ぶ遊ばないという単純な事もそうですし、ご飯では誰が何を注文するのか。そういうことも気にしていたように思います。
その人と知り合ってから1年後ぐらいに、確か僕は今の恋人とつきあったと思います。
しかしその友人には、僕に恋人ができたことを伝える事ができませんでした。(そのため、その友人は僕の恋人の有無については知らないまま疎遠になりました。)
その友人に僕が恋人ができたという話ができなかった理由というのは、非常に単純ではあるのですが、どのように僕のことを感じるのか、怖い想像しかできないというものです。
友人と知り合って、1年近く遊んでいるのに、その友人とは恋人関係などになる事はありませんでした。しかし別なところで恋人を見つけたとなると、、、その友人はきっと、「なんで僕と友達を続けてるのか。恋人探してるなら、そして僕が恋人の対象にならないのなら、さっさと僕のことを切って、他の人に行って欲しい」そういった理屈になるのです。
僕は恋人関係に発展するのかに関係無く、友人関係として、細々と続けることも当然あると思いますし、ひょっとしたら恋人ととは友人関係のようなことはうまくできないかも知れません。もちろんそれらが重なる場合もあると思いますし、全く重ならない場合もあると思っています。
という、ある意味では単純な理由で、ある意味では当然のことだと考えていました。しかしネガティブな友人にとっては、そうはならないのです。まるで裏切られたかのような、そういった感情が出てきてしまうようです。
もちろん僕は友人に恋人を探しているという話をする場合もありますし、しない場合もあります。それは不誠実をどうのこうの。。。というワケでも無く、誰とどのような話をするのか、それは友人によって偏るのは普通にある事です。
その友人僕と同じぐらいの年齢でした。今はもう30歳は過ぎていると思います。
その後の話というのは全然知りませんが、そのネガティブな発想が変わらなかったとしても、幸せな状態であればいいなーと僕は思っています。
2014/05/23 考え(ゲイ関連)
恋人と長らく楽しくやっている。
かつて一人身だったとき、恋人ができることは辛いことやつまらないことは半分になる。そして楽しいことは2倍になるという話をきいた。
そしてそれはそれは、夢のような状態で、そうなったらもう楽しいことしかないじゃんか!そのように思ったものである。
さて、いざ自分の事を考えたときに、それはどうだったのか。
結局のところ、自分の考えとしては、楽しいことは2倍。それは間違いがないと思う。しかしつまらないこと・辛いことも2倍であると考えている。
楽しいことは言うまでも無く、一人の楽しさというのももちろんある。しかし相手と一緒だと、単純に楽しいだけではなく、その楽しい状態を共有できてたことがさらに楽しいという感情が出てくる。だからこそ2倍になるというのはうなずける。
しかし辛いことだって2倍だ。一人だけで解決できるようなことだって、2人の利害が絡んでいれば、その影響は大きい。引っ越しだって、好き勝手決められたのに、相手がいればそれを好き勝手に決める事はできない。制約にもなるし、その後の関係にも影響が出てくる。
ごはんだって、食べたいものを食べたいときに。。。。だったのが、相手がいればそれもまた尊重する必要がある。
細かいことだけど大切な事だと思う。
また別の考えとして、楽しいことが2倍になっているから、それが標準の楽しさに感じるよう、マヒしてくる。だから2倍の楽しさを得られなかったときのつらさは、4分の1だということになる。相対的なこうしたものは、結構大きい。
例えば1人で “1” の楽しさの場合、恋人と一緒ならば “2” になる。そして2を期待していながら、思ったほどの楽しさじゃ無かった場合、それは “0.5” だとする。その場合、期待していた2と比べると、4倍の開きがある。
つまり自分一人で楽しもうと思って、ちょっとガッカリしたぐらいであれば、それは 0.5 だけ楽しめたんだからヨシとする場面だったのに、2を期待していたのに、まったく足りない。そういう状態にもなりかねない。
結局恋人というのは、自分の楽しいとかつらいという感情を良い方・悪い方に高めてくれる存在のような気がする。もちろんうまくいっている時、順調の時にはそれが増幅されるのだからとても素晴らしい存在である。
しかし辛いときには、その方向に増幅される場合も多い。(もちろん緩衝材としての存在になるときもありますが。)
だからこそ、そういう意味ではあまり期待せずに気軽に接することが重要なのでは無いかと考えているのです。
2014/05/03 カップル(彼関連)

僕の恋人が、僕の友人に会うことは滅多に無い。本人が望んでいないこともあるし、何人かの親しい友人たちにはほとんど会ってもらったので、とくにいいかなぁという僕の考えでもある。
僕の友人たちが、僕の恋人に対して概ね口をそろえて言うような評価がある。そしてそれは肯定的な意見なので、僕はうれしい。
しかし大変に困ったこともある。
それが、「僕の恋人がなぜ僕を選択したのか分からない」というものである。
しかしこの質問の対になりそうな
「なぜ僕があの人を恋人にしたのか分からない」という質問は受けた事が無い。
僕は他者の意見や評価というのは、とても重要視している。今までの友人の意見を総合的に考えても、いくつかの飛躍した意見はある。しかしだいたいの場合は、案外正しいと思えることがほとんどである。もしくは、個人的な思惑の中で若干の修正を行えば十分正しいと思えるところに集約してくる。
この質問のことをまとめると、非常に単純で一つの明確な結論になるのである。
僕は良い恋人を見つけた。と。(そしてそれは、運がよすぎるんじゃないかという部分もかなりの比重で含まれている)
そして恋人は、なぜかお。さんにしたのか。と。(そしてそれは、恋人の総合力からすれば、僕が恋人なのは貧乏くじを引いているのでは無いか。という意見が大きな比重で含まれている)
これは客観的に考えると、大変正しい第三者の評価では無いかと僕は強く感じているのである。
もちろんこれらの意見を総合すると、僕にしてみれば、とても良い相手をみつけたというものだから、こんなに素晴らしい意見はない。そしてそれは多いに僕にぶつけてくれれば良い。僕はそれを時には優越感に浸りながら。時には恥ずかしがってそれらの意見に回答を寄せる。
しかし僕の友人たちは時に非常に残酷なのである。
それらの質問を恋人にぶつけるのである。もちろん「(もっといい人と知り合えるんだから)かお。さんが恋人じゃもったいないよ」などという、直接的すぎるような愚かな質問を投げるような友人は一人もいない。しかしそれを、遠くに臭わせながら、適切に伝わるであろう質問が、「かお。さんのどこが好きなの?」というものである。
僕はこの質問についてだけは、禁止しようと思っている。
だってそれについて改めて考えさせるのは僕にはとても怖い事だ。
恋人が「あれ、聞かれてみたから考えてみたけど、よく考えたら(よく考えなくても)好きなところないや」そうなるのは目に見えている。
そしてさらに発展的に「自分のタイプは○○ってところだから、○○さんの方が好きかも」そんな事になりかねない。
この質問の場合、少なくとも僕がこの手の質問を友人たちのカップルにするときの意図というのがある。
僕が好きだと思っている部分、もしくは客観的に魅力的だと考える部分を恋人さんも好きと感じているのかな。と。
例えば話がおもしろい人と恋人関係になっていたら、恋人さんに「相手のどこが好きなの?」と聞けば、もちろん僕の知らない側面を好きと答える場合もあると思う。しかし「話をしていておもしろい」そう答える場合も多い。もちろん僕がいいと感じていた部分を苦手な部分として挙げる場合もあって、それはそれでおもしろい。
ということが意図されているのであれば、この質問は問題無いと思う。しかし、上記に挙げたとおり、僕の友人たちが僕の恋人にこの質問をする場合は、意図が異なっているように思えて仕方が無い。
2014/04/29 ブログ

読者の方に向けた記事はたまーに書いています。
もう、ほとんどブログを更新していません。ブログを書くようになってから最初の1年はほとんど毎日記事を書いていました。
そしてそれらは、30代になることの戸惑いから、恋人との生活が安定したと思えるようになったから、書きたいことが結構あったから。それらの理由によるものです。
そして書きたいと思っていた事はほとんど書くことができました。
今でも、友人との会話の中や、新しい記事を書こうと思ったとき、だいたいは過去に書いた記事が思い出されるのです。
しかも、たまに自分でもブログを読み返していますが、当時の方が色々な事に考えを持っていました。最近は受け入れる事が多くなったように思います。
だからブログを読んでいますとか、読んでいました。といわれると、とてもうれしいですが、すこし申し訳ない気持ちも出てきます。
しかし書きたいことは無いし、日常を書こうなんて気にはなりません。ナンを焼きました!とか一緒に餃子を包みました!っていう事を書くためにPCになんて向かえないよ!
変化が無いのかと言われると、それは少し違います。
例えば相手は就職しました。これは少なくとも恋人にとっては大きな変化だと思います。
今後は、一緒に住むかも知れません。そしてコレについては、ちゃんと記事を書かなければと考えています。
ブログを書いたおかげで、精神的な迷いはだいぶ払拭されてきました。
というよりも、当時のような戸惑いはほぼ無くなりました。20代後半の時のような、自分らしさを改めて確立することができたように思います。
ブログを書くようになってから、意図していませんでしたが、たくさんの交流がありました。それはTwitterなどで完結している場合もあれば、直接会ったりもあります。
そしてそれは30代の戸惑いの時期には大きな刺激になりました。
色々な人の話を聞くということは、大変参考になります。この部分についてはブログを書いていて良かったなぁと強く感じるのです。
2014/04/05 日常

短期の恋愛しかしたことがなかった時、僕は来年の予定が立てられないことをとても不幸に感じていた。
毎年花見をする時期になると思う。
※お花見についての記事も過去に書いています。2011-04-29 遅くなりましたが、お花見で思うこと。
花見はもちろん一人でするのも楽しい。僕は好きだ。
しかし誰かと一緒なのも楽しい。だからこの時期に誰かと会うような事があれば、短時間であっても花見に付き合ってもらう。
ちなみに年末年始だと、神社仏閣へのお参りを一緒にすることが多いです。
桜に何か意味があるとか、そういった雰囲気がどうだとか、そういう考えはあまり持っていない。
しかし、見頃が一瞬で終わる桜は、他の花にはない特別な意味があるように思えて仕方が無い。もちろん春が過ぎ、夏になるとゲジゲジがたくさん付いてしまうのもまたおもしろい。
そして秋に紅葉。冬には落葉。四季折々の姿をわかりやすく表現してくれるのが桜だ。
おそらくこのブログにも書いたと思うが、長期の予定が立てられるというのは、僕はとても幸せだと考えている。
花見にしても、今年は○○に行ったから来年は○○に行こう。そういう1年を通じた予定が立てられる。また、例えば夏に遊びに行った場所で、桜の木があれば、じゃあ桜の時期にはここに来よう。そういう事ができるのである。
旅行にしても、今年は○○。来年は○○。そういうことができる。
まだ、長期的な恋愛を知らなかったとき、その場その場を最大限に過ごさなければ、すぐに終わりが来ていた。
今年は○○に。そして来年は・・・・。きっとこの人と来られない。もしくはそもそも恋人がいなくて誰とも来ることができない。そういう想像を巡らせていたのである。
そしてそれは、とても残念なことに、ほぼ100%その通りになっていたのだから恐ろしい。
そういう苦痛から解放され、ここ数年間はずっと長期的な予定の元に行動ができていた。
僕は同じところに例年の通り通う事が好きなので、毎年同じ場所に行きながら、新しい場所にも足を伸ばすというのがここ数年ずっとやっていたことだ。
しかしここまで長期の恋愛になると、さすがにそういう行動に飽きが来たような気がする。
花見などのわかりやすいイベントは、例年ずーーーっと同じ事の繰り返し。そこには違いはあっても変化はない。
もちろんそういうことを安定というのかもしれない。そしてそれは僕が望んでいたことでもある。
しかしここまでの継続はさすがに変化が欲しいなぁと思ってしまうのである。
今後も、今までと同じように、そしてそれはひょっとしたら10年以上もこのまま継続していくのかもしれない。
そいう、同じ体験を今後もずっとしていくことは、覚悟が必要なのかも知れない。そのように最近は考えている。
2014/03/20 考え(ゲイ関連)

性的な欲求を解消する手段として、ビデオというのは非常に重要な存在である。
(現実的にはDVDだろうけど、ビデオって書きます)
男女のそれの場合、ジャンルは詳細にわかれているけども、見る立場というのは一環していると考えている。結局は男性の視点に立っているということ。
さすがに今まで色々な人と、色々なビデオの内容について話をしたことがあるけど、好きなジャンルや興奮する、ちょっと変わった意見というのは散在している。しかし男性の友人が「俺は女性になったつもりで、男性に責められていることを想像して見ているよ」などというのは、非常にマレであろうし、僕自身はそのような事を聞いたことは無い。
だから男女のAVに関しては、非常に画一的ではあるけども一定の同意がある。
S/Mのプレイだって、男性が女性を責めるのであれば、視点は男性に。男性が女性を責めるのであれば、視点はやっぱり男性にあるのである。スカトロなどの一部のジャンルは、きっと「やられたい」という視点はあると思うが、さすがにAVでそういうのはあるのだろうか??M男性を責めるS女性っていうのはあるだろうけど。
しかし一方で、ゲイのそれは異なる。視点がどちらにもある。
タチ・ネコという役割を分けたところでも、視点がタチ役になる場合もあればネコ役になる場合もある。多いのは、男女のAVを見るときがそうであるように、自分の立場と視点を同一視することだろうか。
僕がDVDを見るときに、僕自身の役割はタチなので、映像の中のタチ役の人に視点を合わせることが多い。それは紛れもない事実である。しかし一方で、時々はネコ役の方に視点を合わせて、まるで自分が責められているかのような想像を巡らすときがあるのも事実である。
そしてこのような役割の置き換えは、男女のAVではなかった。
だから、男女AVと違ってゲイAVは色々な視点で楽しむことができる。男女AVでは抜きどころを押さえるのが難しい。今回の抜きどころは前回と違うし、一通りのポイントを押さえてしまったら、そのDVDは引退である。次の作品を探さなければならない。
ゲイだったらそれが2倍楽しめる。タチとしての抜きどころを探す。視点をかえてネコとしての抜きどころを探す。リバという視点だってあるかもしれない。
画一的では無い楽しみ方がゲイにはできるのではないかと思う。
そして僕の場合。リバってワケでは無いけど、SとMの要素を少しずつ持ち合わせているので、その両方を堪能できていると思っている。とても幸せだ。
2014/02/27 考え(ゲイ関連)

僕は今までの恋愛について、もちろん後悔もありますし思い返して色々考える事もあります。
しかしそれらについては、すべて客観的な事実であり、必要以上に美化していることもなければ、卑下していることもないと考えています。
事実として受け入れるべきは受け入れ、反省するべきは反省する。それだけの事です。
反省をしてもしなくても、過去の恋愛について何か変化がおこるようなことは絶対にありません。
良くも悪くも刹那的なこの業界ですから、過去の恋愛を引きずっている人を見かけるのは非常に珍しいことだと思います。
しかし、ごく一部の特定の条件では、「引きずっているなぁ」と考えられるような場面に出くわすのです。
一つはすごくタイプだった場合。もう一つは長期の恋愛だった場合。
長期はまあ仕方ないでしょう。たしかに長い期間付き合ってれば、それが引きずっているワケでは無くても、生活のかなりの場面で、昔の恋人を感じる事は多々あると思います。
しかし「タイプだった」という理由だけで、引きずるというのは、僕にはどうにも理解ができません。
タイプだった人との恋愛で、引きずるのは性的な要素だけではないのでしょうか?
タイプの人と付き合うことの怖さのようなものをその時に感じました。
つまり短期間の恋愛であったとしても、相手に合わせる恋愛は、自身の行動の過半を変化させます。
通常の恋愛であれば、長い時間をかけて少しずつ相手に浸食されてくるのですが、好みの相手の場合は、その浸食のペースが速いのではないかと考えるのです。
生活の相当を変化させてから相手と別れた場合、確かに生活様式の変化というのは、相手を思い出すには十分な理由ですし、それを引きずっていると感じる場面に出くわすことも多くなりそうです。
あまり聞かない、引きずっている恋愛の話を聞いたとき、あまりにもタイプの人と付き合うのは、とても怖い事だと改めて思いました。