「 親/家族 」 一覧
2011/08/08 親/家族

財布を管理している。これは夫婦関係におけるとても重要なことだと思います。僕の母は父の給料をすべて管理していました。父はあまり出歩くような人ではなかったので、必要なときに必要なだけ(とはいっても非常に少額)を母親からもらっていました。お小遣いと呼べるような定額ではなかったのです。
友人の話を聞くと、食費を毎月決まった額拠出し、それ以外は自由という人もいました。祖父はそのようにやっていました。食費・生活費として、決まった金額を祖母に毎月渡し、祖母はそれを基にやりくりしていたようです。(しかし祖母はそれでも貯金をしていたようですが)
この食費・生活費は変動要因=例えば僕が祖父の家に遊びにいくと、食費が多くなる。などがあると、増額して都度もらっていたようです。
妹も結婚しています。そしてかなり珍しいパターンだと思いますが、旦那が財布を管理しています。妹は浪費の癖があるので、制限の厳しいお小遣い制というのはとても気に入っているようです。使用用途については、若干口を挟まれるようですが、それも常識的な範囲のようです。(あんまり飲み歩くな!など)
浪費の妹に比べ、堅実な旦那さんが財布を管理するというのは、非常に安心です。
色々なパターンがあります。しかし僕が目にしてきた数々の夫婦は、それぞれが自分の為に勝手に相手のお金を支出していることはありませんでした。ここがとても重要ではないかと思っています。
生活費が苦しいといって働くパートの人もいました。生活はラクだけど自分の遊ぶためのお金がほしいというパートの人もいました。これらの人に共通しているのも、やっぱり勝手な支出ではないということです。旦那だけの稼ぎでは足りないということで、稼ぐ。遊ぶためのお金は自分で稼ぐなど。
色々な管理の仕方はあるにしても、上記に挙げたようなパターンはどれも幸せな気がします。
一方で、なかなか僕の考えでは理解出来ない場合もあります。それが財布を握られて毎月使う金額に制限が出ることです。もちろん生活もままならないのに、たくさんの小遣いがほしいとか、好きなだけ使うというのはおかしいと思います。しかしある程度稼いでいる場合には、小遣いの金額に制限があるのはどうなのか、と。
僕は結婚していないので、そのへんの事情がよくわかりません。生活費を出したらあとは自分のお金にはならないのでしょうか。
ただ、一般論として男性はお金を持っているとろくなことに使わないというのは、もう常識的な事として捉えてもいいような気はします。僕の会社の人たちは大抵そうで、風俗であったりキャバクラであったり。散財はひどいので、小遣い制などの制限は大抵において有効です。
僕も将来は彼にお金の管理を任せて、僕はお小遣い制にしたいと密かに考えています。だけど、それは自分に制限かけたいのではなく、あくまで管理です。今月は「ずいぶん使ってるみたいだよ」の一言があるだけで、かなりブレーキがかかるのではないかと僕は期待しています。
何にしても、貧乏でケチだけは何としても避けたいと思います。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/07/24 親/家族

僕は残念なことでもありますが、妹が2人います。うちは女性が多くいる環境でした。
小さいとき、一緒に遊べる弟が欲しいと考えていました。そして今だに弟がいればなぁと、遊ぶという言葉の意味が広がった今でもそのように考えているのです。
兄弟は性の対象になり得るのか。非常に僕は強い興味を持っています。と、書きながら本当のところはどうなのか、妹がいるので知ってもいるのです。
一人っ子の人には申し訳ない部分もあるのですが、兄弟は絶対に性の対象にはなりません。興奮もしませんし、むしろ不潔な感じさえしてしまいます。少なくとも僕は。
僕の指向は男性なので、今の環境・・・妹よりも弟や兄がいたらきっと考えも違っていたと思います。ましてや今のような10歳も離れた弟がいたら・・・。と、想像の域ではありますが。
少なくとも僕の今までの人生において、妹には一切感情を持つことはありません。そればかりか、妹とのシチュエーションという、AVやマンガなどにありがちな行為も嫌悪感が先に出てしまって楽しめないのです。
しかしそれでも。と、僕はやっぱり(そしてできれば)弟が欲しかったなぁと考えています。今まで友人の中で数名、弟さんがいて、会ったこともあります。だいたい男の兄弟はサバサバとしており、また非常に雑多で僕が知っている兄弟とは大きく違います。なんだかんだで、女の子たちは態度も言葉も一定の丁寧さがあります。
そんな雑多な兄弟のコミュニケーションを見たり、聞いたり。会話をしたり。その中のすべてがうらやましいと思います。
僕は妹が2人。彼は姉が1人。そのため、擬似的にも弟がいる状態を楽しめないのは非常に残念です。しかしもし僕に弟がいたら、ひょっとしたら年上好きになっていたかもしれませんね。案外身近にない環境を恋愛には求めがちでもありますから。
2011/07/12 親/家族

お袋の味ってなんでしょうか。
僕は無い。とは言っても親はちゃんとご飯を作ってくれたし、何も問題のない幼少期を過ごした。
しかし親は徹底的に料理がヘタであった。
だから、おふくろの味っていうのは、まずい料理だったりレトルトだったりするのです。そして懐かしいなどという感情は全く出てこなくて、むしろ避けたいと忌避さえしているのです。
今でも、自分で料理を作っていて大きく失敗してしまったとき、、、それはもはや食べることも相当に苦労しなければならないような。そういうときに、僕は親の料理を懐かしんでいます。おぉ。そういえばこんな失敗の(ような)料理がよく食卓に出ていた。。。と。
すごく多かったのは、味噌汁。親は何故と思うほど味噌汁がまずかった。僕の口癖はちゃんと出汁を入れて!だった。出汁を取る必要はないから、だしの素を入れてくれと。もしくはだし入り味噌を使ってくれと。お湯に味噌をといただけのような味であった。
自分で料理をするようになって気づいたのだが、親は出汁をろくに使っていなかったようであった。
カレーもそう。なんかいつも変な味がしているのである。最近実家に帰ったときに、親はカレーを作っていた。親の作るカレーは、決して油断してはいけない。カレーならなどと思えば必ず裏切られてしまうのでる。
このときも、まずいと思いつつ、少しだけ味見したらやっぱりまずかった。実はこの日、親が珍しく「今日はカレーだから食べていったら?」という誘いを受けていたのであった。「うーん。どうせまずいでしょ?自分で材料買ってなんか作るからいいや。ご飯だけ炊いといて」と、カレーを食べることを断って良かったと思った。話を聞くと、市販ルーにカレー粉を足しているようで、それがまた絶妙にまずいのであった。
※あんまり直接的な感じなんで、ひょっとしたら「俺は辛口のカレーがいいから、お母さんたちは中辛だから食べたくない」って感じで断ったかもしれません。
スパゲティ類もひどい。すべてレトルトである。
あ!でも浅漬だけはうまかったかも。書いてて思い出しました。
メリット、、、といっていいのか分からないが、外食がすべておいしいと思えるのはいいところだと思っている。親の料理がおいしい場合、、、外食しても自分で作った方が安いしおいしいってなる場合がある。そうならないのは、いいところではないだろうか。
2011/06/27 親/家族

実家を離れている人はどれぐらいいるのだろう。特に東京でゲイであれば、一人暮らしは切実だしあこがれる。隠すというネガティブな理由では無く、プライバシーというか、色々なことを確保しなければならない。
僕も職場も実家もそうそう離れていないが、一人暮らしをした。ちなみに職場と実家は1時間ぐらいのところ。どちらも都内です。一人暮らしの場所は職場の近く。
一人暮らしというのはとても不思議なものだと考えている。例えば一人暮らしをする前に考えていた、料理や掃除や洗濯、、、、それらの不便を通じて家族のことを見直すのかもしれないし、不便さと家族は関係無いことを知るのかもしれない。
最初は寂しさとうれしさが入り交じった毎日であったが、最近はもう家族と住むことは考えられない。それぐらい一人暮らしは自由でいいと思っている。もちろん僕の場合は、ちゃんと仕事もしているし、恋人もいるので、無茶をするようなこともないし。
しかしそうなると親に合う回数が激減してしまう。当たり前だが実家ぐらしの頃は365日、365回会っていた。しかし一人暮らしになると、節目ごとに帰ったとしても年に数回、10日10回ぐらいだろう。
残りの人生の中で親と過ごす時間というのは、1年間一緒に住むことと同じ程度になる可能性がある。これは非常に怖いことではないだろうか。
もちろん距離的にすぐに帰ることは難しい場合もある。だけどそれを意識したら、一緒に過ごす時間もだいぶ違ってくると思う。
僕はだいたい2週間に1回帰っている。帰ると(実家でも)自分でご飯をつくって、ビールを飲みながら、親と雑談をするか、親が寝ているところで一人でくつろぐのである。正直なところ、僕が実家に戻ってもおちつく感覚が全くない。なんだけど、そこそこ高齢の親と過ごす時間は残り少ないのだから、今のうちから後悔しないようにしたい。
ちなみに実家に帰る理由は、実家のそばにお客さんが何人かいて、朝のアポにすると、実家からのほうが行きやすいというのがあるんです。
そして月曜日に結果的にそうなることが多く、日曜になるとよく実家に帰っているという彼からの指摘もあった。過ごす時間を大切にするという重要な理由もあるけど、お客の所に近いというのも、とても重要なことなんです。
2011/04/25 親/家族

親の料理がまずいことに気づきながらも自分ではどうにも出来ない頃、中学生~高校生の時は相当に辛い時期でした。そんなにまずいと言うなら食べなくていい!とか、つくってもらえるだけありがたいと思いなさい!などとよく言われたものです。
幼少期は、素晴らしいことでもあり残念なことでもありますが、親のつくってくれる(たとえまずい料理だとしても)とてもおいしく食べることができました。しかし徐々にそれらの味について疑問をもつようになり、高校生の頃になると、それが確信へと変わったのでした。
僕は今だからハッキリ言えるし、言いたいのです。まずい料理を出すことのほうが問題だと。確かに普通のレベルの食事にケチを付けるようなことは問題外です。僕としては、レシピの通りに作ってくれるだけで文句はありません。なのに何故それが出来ないのでしょうか。という僕の親への思いでした。
「レシピの通り作ればいいのに」と、それを指摘しただけで、さも文句を言っているような、ケチを付けているような言われ方をするのはちょっと問題があると考えています。
レシピを守るという、そんな当たり前のことを指摘しているだけで、「それなら食べなくてもいい」というのは、あまりにも横暴だと思います。それは例えばトイレはちゃんと便器の中にして!とかそういうレベルのお願いであって、もはや文句でもなんでもないと考えています。作ってくれるのであれば、どんなマズイ料理であっても感謝しなければならないというのは、筋が違うと僕は考えています。
家族の中で料理がヘタというのは、母親と妹です。父親はあまりキッチンに立つ姿を見ませんが、一人暮らしが長かったと言っていますし、そもそも食に興味がほとんど無いようなのでうまい、ヘタというのは正直わかりません。
そして家族における料理がヘタというのはだいたいパターンが一緒です。まず完全にレシピ通りに作らないということに尽きます。というよりこれしかありません。そもそもレシピ通りに作れば失敗などしないはずなんです(和食や包丁をたくさんつかうなど、技術を必要とするものは除きます)。普通の料理でミスがあるとしたら火加減の調節によるコゲとか、加熱不足による生ぐらいじゃないでしょうか。
しかし不思議なのは「レシピ通りに作っている」と本人たちは言うのです。しかしそれは、重要なのか不必要なのかわからないバジルだとかの食材を「買い揃える」ことを意味していました。それよりも重要だと思える、加熱の加減や時間、適量という言葉に必ず惑わされ、それらの積み重ねが味に反映してしまいます。本人たちに撮ってレシピに書いてある「食材をすべて使うこと」が重要であると考えているようです。それと同じかそれ以上に、加熱の加減や適量を守ることについも重要なのですが、それについては考えていないようです。
野菜の切り方もそうでした。できない・面倒という理由で、レシピにない方法を行うのです。そうすると火のとおりが不均一になり、美味しく無くなります。硬くなるとか崩れるぐらいなら気にしませんが、味の染み込み具合に影響があるのは問題です。
味付けもそう。あきらかにマズイ料理を、「薄味が好き」といってごまかすのです。まずいことと、味がうすいことは別です。とくに塩加減は健康の敵であるという認識が大きいので、味付けがめちゃくちゃ=薄味が好きということでごまかしているパターンを良く見かけます。ちなみにまずい料理と薄味が決定的に違うのは、出来上がった料理に塩や醤油をかけて美味しくなればその料理は薄味。全然変化がないか、結局マズイ場合にはまずい料理ではないでしょうか。
味付けはとくに初心者の頃は、若干濃い目に作ったほうが失敗がありません。ごまかせますから。
面倒臭がりというのも料理が下手な理由として大きいと思います。しかし唯一料理を作る中での面倒はある程度は我慢しなければならないのは事実です。ただし手順に基づいてテキパキやればそこまで問題にならないと信じています。
よく「創作」などといってオリジナルをやりたがる人がいますが、料理は日々のことです。そんなオリジナルを開発する必要は全くありません。まずはレシピを忠実に守るように心がけるだけです。1-2年もすれば見違えるほどに美味しくなってくるはずです。特に好きな料理を中心に作り続ければ、3ヶ月ぐらいで、もうベースは出来上がると思います。彼がそうでしたし。
※ちなみに、レシピ通りならほとんど味見はしなくても大丈夫だと思います。僕もほとんど味見しないんで。(そのせいで、最近はずいぶん濃い味の癖がついてしまったので、修正したいと考えています。)
ということで、親の料理が美味しくなかったといいう話からだいぶ脱線してしまいましたが、親の料理が美味しくなかったらぜひ自分で作ってみてください!
2011/01/11 親/家族

僕が10年近くこうやってブログに記事を残すようになって、大きな死別が2回ありました。祖母と祖父です。おじいちゃんの家と僕の住んでいた実家はとても近くにありました。30分ぐらいの距離です。
そのため昔から僕は祖父の家に遊びに行くことがよくありました。大学生ぐらいまでは週1回ぐらい行くことを目標としていました。それぐらい僕は祖父・祖母と仲良く過ごしていました。
しかし当然のように死というのは、まずは祖母に。そして数年を経て祖父に訪れました。
僕はかねてから、「今の気持ち」を書き表すことはとても重要だと考えていました。そのため死別という大きな出来事は、絶対に書き残さなければならない事柄でしたし、そうしたいと考えていました。
しかし祖母・祖父の死についてだけ、今までブログを書いていて唯一記事にできない出来事でした。今まで書いているように一つのことをいろいろな方面から光を当てて、その中で自分の考えや主張に近い角度を決め言葉で表す。そういう慣れた、今まで何度もやってきたあたり前の作業がなぜか祖母・祖父の死についてだけはできませんでした。
そのため死については、常におぼろげながら考えているだけで、結論というか考えをまとめることができていません。
一つ言えることは、悲しいという感情が出てきても、悲しいだけじゃないとか、本人にとっての死と周りにとっての死とか。若くして死んでないことなど、Aという結論を出そうにも、それをひっくり返すBという別の感情が出てくることがそれを複雑にしています。
僕としては、例えば極端ですが「老衰による死は幸せだ」というように結論を出したいのです。しかしそのように論を展開しても、残された周りの人間や、夫婦であれば残された方の残りの人生などはまた別です。自分を主体として考えた場合には、ひょっとしたら幸せな死かもしれませんが、残されたものにとっては、必ずしもそうではありません。そういう色々な事が僕の頭を巡っています。
未だに死については、あまり突っ込んだことが書けそうもありません。ただ、こうやってこの記事をここまで書けたのは、めちゃくちゃすごいことだと自分でもびっくりしています。
しかしもし祖父・祖母が僕に教えてくれる身体を使った最後の教育だとしたら、間違いなく僕にとって相当に大きな血や肉になっていると考えています。
2011/01/08 親/家族

親の「老い」について話をするとき、やや遠回りになりますが、まずは祖父・祖母の話から。
記憶にある、身近な年輩者というのは、おそらく祖父/祖母だと思う。当然のことであるが、祖父 > 父 > 兄 > 自分 という年齢の順番である。もちろん死別や、一人っ子の場合など若干違うかもしれないが、これを一応の標準とさせて欲しい。
ちなみにオレは、祖父、父、自分の順番です。祖父はハッキリとは覚えていませんが、オレが20歳のころ、祖父は85歳、父は60歳という感じでしょうか。ちなみに父は結構年を取っていて、オレは父が40歳の時の子供です。
で、オレの記憶にあるもっとも若い頃のおじいちゃんは、オレが10歳頃。つまり祖父が70歳ごろとなります。つまりオレの感覚にとって、身近なおじいちゃんというのは70歳ぐらいからを指しているように思います。
親の話。同じようにオレが10歳の時の記憶の父は、50歳です。つまり親というのはこのぐらいの年齢をオレにとっては指しています。
そして今。祖父は亡くなりました。父は70歳になりました。つまり記憶のある祖父と同じ年齢に父親はなったのです。
オレは70歳になった父を見て、一つの葛藤が心に生まれました。目の前にいる父は父なのか、祖父なのか、と。
何歳であっても、父は父です。しかし当時のような力強く、非常に存在感のあった父はそこにはいません。目の前にいるのは、記憶に残っている祖父とむしろ重なるのです。男性というよりは老人というか、そんな感情。
残酷な話かもしれませんが、いずれ死別という大変大きな出来事を体験しなければなりません。そして目の前にいる父が感情の中で祖父に変わるとき、これはひょっとしたら死を受け入れる準備の一番最初のように思えてならないのです。
母もきっと同じでしょう。なぜなら母は今は60歳です。だからオレの中ではまだおばあちゃんという感情が芽生えていません。でもきっと、あと5年もすればこの感覚は変わってくるのではないかと考えています。
死生観というのはまた記事で書かねばならない大きな事ではありますが、年齢とともに受け入れなければならない残酷な、大きな試練の一つです。ただ一つオレが思っているのは、突然来る死ではなく、それを受け入れるための準備が「年齢」とともにできるというのは、ある意味で幸せなのではないかと。
2011/01/07 親/家族

オレは家族円満だった。もちろん今も円満。とはいってもすべてが順調ではなく、家族は5人もいるし、大なり小なりのトラブルは経験をしてきた。これはどの家族にもあるだろう。そのトラブルの中では、今の自分の性格を形成するのにすごく重要だと思うような出来事もあったし、またそういったトラブルは家族と共に、そして自分の意識の中で乗り越えてくることができた。もちろんこれは他者の関わりなくては乗り越えることができなかっただろうし、第三者からはたいしたことが無いように見えても、オレや家族にはとても大きな試練でもあった。
とはいっても、振り返ってみると結果的には円満だったと言えるような環境だと思う。なぜならそれは、社会人になってから家庭や家族のあり方次第ですごく影響を受け、また受けすぎているように見える人が相当数いると知ったからである。
当然のことながら、不仲で育った家庭の壮絶な出来事をオレは知らない。話を聞く限りの中から想像することはできるが、こういう場合においてありがちな、想像の範囲を脱することはできないし、また深刻さも理解はできない、もしくは限界があると思う。
どうにもよく分からないのだが、そうして影響を受けすぎることについて、前向きな状態になることはできるのだろうか。これが思春期や養われる年齢の範囲であればまだ理解できる。お金を稼いでない立場というのはどうしても弱く、稼いでいる親にたとえ精神的な問題点が大きかったとしてもそれに頼らざるを得ない。生きていくためには、精神よりも金銭の方が優先されるのは仕方が無い。
もちろん頼らない方法もあるが、人それぞれで頼るのも頼らないのも(苦渋だと思うが)選択だと思う。
しかしいい年齢になって。自立することも可能な環境になったときにも、相当な影響を暗に受けているのである。ある種のトラウマとして。
そしてその人が抱えている精神的な部分は他人に伝わりやすいという問題がある。
いろいろなトラブルを乗り越えて自立した人は、もちろんそれですごいことだと思う。しかしその方法論が世間の中で本当に受け入れられているとは限らない。そして親の不仲の場合に、そのことでとても強く出るのが、「甘え」に関する部分だと考えている。
甘えてはいけない。誰がそんなことを言うのだろうか。むしろ社会に出てからは、甘えることによって世の中をうまく渡っていけることは多いし、甘えはむしろ活用するべき部分であるように思う。オレの場合だと「優しさに頼る」とか「優しさに甘える」もしくは「優しさにつけ込む」っていうのもあるかもしれない。
みんな優しい。だから甘えても大丈夫だと思う。逆にオレに甘えてもらってもいいし、もちろん協力できる事とできないことはあるから、無条件というわけには行かない。でも自立や対等という立場の他に、甘えながら、へりくだりながら下からというつきあい方もあるのではないか。
結局のところ、親の不仲が与える影響は問題が多い。それは直接的なそのとき(幼少期)だけではなく、むしろ成長してからの方がより強い影響を気づかないうちに受けることになる。
そしてそれは不信という、とても大切な部分に闇を落とすのである。
2011/01/04 親/家族

書いておかなければならないでしょう。今の自分があるのは親の影響も大きいのですから。
よくありがちなトラウマだったり自己の確立を親に求めることはオレの場合はいまいち当てはまらない。なぜなら少なくとも一般的な家庭で育ったという思いがあるし、おそらくごく平凡という表現が非常に似合うような家庭だったであろう。今振り返ってみてもそう思う。
もし問題点や、今のオレにも影響を及ぼしている部分というのは、唯一金銭に関する部分だけである。ウチは貧乏だった。(とはいってもゲームも買えたし、借金取りがきたこともありませんが・・)制約が多いとか我慢が必要という意味での貧乏の程度です。
そんなオレだけど、親に対する思いというのは屈折に近いものがある。特に恨んでもいないし、むしろ親は好きだし尊敬もしている。感謝もしているし。だけど今までしゃべったり書いたりした親への思いは屈折していると受け取られても仕方が無いと思うような感情を持っている。。
オレは親がとても好きだ。改めて感謝もしている。しかし親の行動のほとんどすべてを否定している。
オレは社会人としてそこそこの時間を過ごした。それなりに社会的に評価されていると思うし生活の安定度合いもそう。常識というのがどういったものかはわからないが、少なくとも「社会を生きる」ということを基準とするならば、オレは親よりもよっぽどうまくやっていると思う。
オレがそのように社会で生きていけるのは、親が途方もなくダメであることを知ったからである。親を反面教師とし、その逆の行動をとることによって、少なくとも社会においては常識人となることができたし、ストレス無く過ごすこともできた。家族からはオレは異端としてやや距離を置かれている部分があったり、オレを阻害するという部分での家族の団結力には目を見張るモノがあったり。こういうのを体験すると、オレはやっぱり家族とは別の考え、生き方をしているんだなぁと感じるのです。
親はオレに何かをいうことは無いが、妹はオレに意見を言う。やれその考え方の何が間違っているとか、そんなんじゃ誰もついてこないとか。オレにすれば青臭い理想に聞こえるのだが、本人は大まじめ。妹が持っている崇高な考え方とは裏腹に、妹自身が評価されているとは思えない今の状態にもどかしさを感じるんじゃないかなぁと心配になってしまう。
結局のところオレは親を反面教師として見ている。しかし親は常識人の自覚があり、オレにもそれを守らせたいとしている。だから結果を見て理想を判断することしかできない。常識のぶつかり合いは正解が無いから難しい。少なくとも今の状態を結果とするならば、何とか親の示している道よりはいい道を歩けているんじゃないかなぁと、自分勝手にやりながらもほっとしているのでした。
2010/12/06 親/家族
オレは父も母もいて、また夫婦仲良くすごしている。父はやや古い考え方で、大黒柱という考えを持っている。今となってはもうなんとも思わないが、学生の頃は苦労することもあった。
ゲイの友人たちは比較的片親であることが多いような感じがしている。もちろん病気などによる死別の場合もあれば、単純に離婚の場合もある。少ない例ではあるが、父のアルコール癖や女性にだらしないなど、壮絶な家庭環境の場合もある。
例えば職場だったりとか、ノンケ友人の事を考えると、片親である場合というのはそんなに無い。20人いて1人とか2人とかそのぐらいだと思う。しかしゲイの場合、なんとなくではあるが、10人に1人とか2人ぐらいいそうだ。少なくともパッと思いつくゲイの友人の場合、友人は10人も思いつかないものの、片親の人が少なくとも3人はいる。過去付き合った数人も思い出してみると、やはり片親が半分ぐらいだったように思う。
先天的なこととか後天的なこととか、父性がどうだとか。ゲイになった理由はそこにも一端があるのかもしれないが、それは正直なところよくわからない。ただ母親に育てられた場合、たしかに男っぽい人を求めるのは、なんとなくあるような気がする。
しかし片親の場合、あきらかに違うことがある。それは愛情に飢えていること、愛情を信用できないことである。これはかなり強く感じる。
例えば愛情というのは、形で表現することも多いが、そうじゃないことも同様に多い。オレの両親は愛し合っていることを知っているし、長年連れ添っているわけだから愛情以上の何かが存在しているだろうことも想像できる。祖父についても、同様であった。長年の夫婦生活というのは、自分が親や家族と一緒に過ごした時間以上を結婚相手と連れ添うというのは、オレには想像もつかない。
親や祖父たちは、日々「愛してる」などと、ささやくこともないし、勝手に外出しても「どっか行ったみたいよ」などと関心が無いようにさえ見える。これをもって愛情が薄れているわけでは無いだろう。そんなことは当たり前だ。
愛情の表現方法というのは、初期・中期・後期で変化するのかもしれない。
愛情を信じられない人の場合、ちょっと連絡が無いだけで不安になったり、浮気を疑ったり。「大切にしてくれない」と不平不満が始まってしまう。連絡をしないだけで嫌いを疑わうという感覚はちょっとオレには理解ができないところである。たとえ連絡をしなくても好いているという信頼を彼に持つというのは、愛を信じることなのかもしれない。
もちろんゲイの世界は誘惑が多いので、不安になったり疑うこと事の気持ちはわかる。だけど愛情は疑っている間はそれ以上深まることはなのではないか。
ひょっとしたら、愛を疑う人同士だったらうまくいくのかもしれない。しかし少なくともオレは、連絡を取らない愛情表現も度を超えない範囲であると思っている。それを疑う理由にされたら正直キツイ。
この愛情の感覚の近さっていうのは、意外と恋愛で重要な気がする。愛情は注がれていないと見える時でも、常に相手から注がれているものです。見えるものばかりでなく、感じること・信じることを意識するようにしていきたいと思う。