過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

「 月別アーカイブ:2011年11月 」 一覧

  2011/11/15    考え(ゲイ関連)

「ねぇかおさん。ちょっと聞いてよ。」そのように始まった会話だった。
このての会話は、悲劇であることが多く、ノロケ話であったら石の一つでも投げつけてやりたいが、悲劇は僕にとって喜劇であることは多い。よほど深刻なそういうことは、まったく望まないし、もちろん気の毒にも思う。

しかし軽いそういうことは、人生を有意義にするためのちょっと苦しいけども、とても重要なことではないかと考えている。

友人の話はこうだった。
1ヶ月ぐらいの期間だけ、単身赴任のような形で仕事をしなければならなくなった。普段は東京に住んでいながら1ヶ月間大阪で働くような。

そして1ヶ月の間に出会いがあり、そして親密な関係になったというのである。当然仕事の終了とともに、地元に戻る必要がでてきた。

そのときに、今までの関係をしっかりとするのか、それとも地元に戻ることをキッカケとして終わりにするのか。相手に判断を迫ったというのである。
そして相手の人は、「遠距離はできない」という判断であった。

– – – –

僕はこの話を聞いたとき、おそらく友人が期待しているような回答はできないと考えた。そしてその考えを伝えた。

もし相手の人の年齢が、20代後半から30代前半であった場合、そのような回答というのは、むしろ責任を持った考えだと僕は考えたのである。僕自身の考えとしては、2つの問題がある。一つは、自分を考えたとき、20代後半というのはある意味で非常に残酷な時期にさしかかっている。その時にチャンスを逃してしまったら、長期的な幸せを築くことが難しいのではないかと。もしくは幸せを築くのに、もっとも適した時期なのではないかと。

そして若い人の場合、若いうちの1年は年齢が過ぎてからの1年と同じではない。もっともっと密度が濃いと考えている。そういう濃い体験ができる時期だと。

その、双方の大切な期間、、、20代後半以降は20代前半までの経験が試されるような意味を持つし、若い人はより充実した時間を過ごして魅力を磨く必要がある。
そういった大切な時間を、遠距離恋愛という形で拘束してしまうのは、非常に厳しいと思ってしまうのである。

それであれば、まだ恋愛に発展していないその状態で、早い内に結論を出すというのは、ある意味で非常に勇気のいることだと思う。
もちろん遠距離で続けるということも可能だろうし、いずれは仕事の関係などで近くに住むことも十分に可能だと思う。しかしそのような将来を語ることがどれほど難しいのかは、おそらくよくご存じのことだ。

– – – –

じゃあ。そういって友人は言う。「じゃあ、最初からこんな親しくならなければいいじゃん」と。
確かにそれは一理ある。遠距離をしない、、、恋愛に発展させないのが責任だとしたら、そもそも、(場合によっては)肉体だけの関係に留めることも責任なのではないかと。

これについて、僕は明確な意見を持たない。ただいえることは、会えるうちは好きなんだってこと。そして会えない状態だったら、心を鬼にして(もちろんそれは付き合いたいという気持ちをを我慢して) 破局させるという事なんだと思う。

もちろんどのような行動が正解だとか、より責任のある行動かなんて、誰にも分からない。そうなんだけど、僕はやっぱりそう考えてしまうという話。

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  2011/11/14    日常

日の出を見に行ったのでその記事を書く予定です。。。。

  2011/11/13    日常

すいません。本日はお休みです。
仕事が忙しいです。

  2011/11/12    日常

シャワーヘッドについて、僕自身は昔から妙なクセがある。しかもそれはゲイ業界からの相性ということもあって、なんとも変な評価をされてしまう。

シャワーヘッドについて、僕は昔からヘッド部分を取り外して使っているのである。

おそらく高校生ぐらいの頃だったと思う。シャワーの調子が悪くて、取り外して使っていたのがたぶんキッカケだと思う。もともとお風呂では、シャワーに切り替えるのが普通だと思う。レバーをひねるとかで。

ヘッドをはずすと、たしかにシャワーが使えない。シャワーコードの先から出てくるのは、シャワーのような細かい水ではない。
1本で勢いよく出てくるだけである。たんなるホースと同じ。

そしてこれがゲイの世界ではとても重要な意味を持つ。するときは、当然お腹をキレイにしなければならない。そのときにはシャワーヘッドをはずし、ホースとなったシャワーから出てくるお湯を使って浣腸をする。いわゆるシャワ浣とよばれる行為である。

僕はタチという、男性役、、、いわゆる入れる方、、、であるため、このお腹をキレイにする行為とは直接的には関係無い。

そしてゲイの友人が僕の家に遊びに来て、シャワーヘッドの取れたお風呂を見て、こういうのである。「準備万端だね」と。

もちろん誤解である。そもそもお腹をキレイにすることは、全体のシャワー利用からすれば、ごくわずかだと思う。しかしそのために、わざわざヘッドを常時取り外しておくのはおかしいと思う。

またもしそういうシチューエーションになったり、もしくはなることを期待してヘッドを取り外しておくのはいくらなんでも露骨すぎるだろう。枕元にゴムがおいてあるような感じだろうか。

もうシャワーヘッドは取り付けないのが僕の日常になっている。だから友人を招くことを理由にして、ヘッドをわざわざ取り付けたりしないし、そもそもそういう発想がない。

だからもし僕の家を訪ねてきて、その状態を見たとしても決して準備万端だとは思わないで欲しいのです。

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  2011/11/11    考え(自分関連)

いつからだろう。物覚えが悪くなった。もちろん加齢による衰えということよりも、生活習慣による強化という側面が強いように思う。

僕は仕事柄、「何かを覚える」必要というのは、意外と少ない。ほとんどの場合はその場で調べることによって解決するし、覚えたところでそれが役に立つとは限らない。たいがいにおいて、IT関係の仕事の場合「概念」を理解することの方がよっぽど重要だと僕は考えている。

だから仕事でも何かを覚えていることは少ない。せいぜい現在進行している案件やしなければ行けないことを頭の中に覚えておけばいい。まあそれでも最近はわすれがちなんですが・・。

例えば「メールの設定」について聞かれることがある。手順をすべて記憶して説明することができれば一番いいのかもしれないが、もちろんそんなことは僕にはできない。メールを設定するパソコンだって多岐にわたる。マックということもあるし、Windowsのこともある。それもバージョンの違いによって全然違うし、使うメールのソフトによっても違う。最近はそこに iphone や android も出てきた。

だから仕事上、調べて案内できればいいのであって、覚えている必要は無いということ。

さて、それが生活に影響を及ぼす場合がある。それが記憶力の悪さである。例えば僕は友人たちの年齢や名前がほとんど分からない。そして恋人の誕生日もつい先日まで覚えていなかった。
ど忘れというレベルならいいが、覚える気が無いと思われてしまうほど覚えられないのは、おそらく何か病的な問題が発生しているのではないかと思っている。

覚えることが苦手ということに関連し、いい加減という印象を持たれることがある。そしてこれは事実でもある。
しかしやっぱり仕事では、どちらかといえばきっちりしている。というのもこれもやっぱりIT関係の仕事の場合は、きっちりしていることだけが求められる。「たぶん」なんて絶対ダメだし、何となくとか、やってみてから。ということは最低の発想である。少なくとも僕はそのように教わってきたし、自身も強くそれを感じている。

仕事では絶対にいい加減ではないと思っているし、実際取引のある方からは、いい加減という印象は無いと思う。
しかしプライベートでは自分でもいい加減さを感じる。いくつかパターンがあるんだけど、恋人がいるっていう話を聞いたときに「いいなー」って言うこと。写真を見たときに「かっこいい・かわいい」っていうこと。住んでいる場所を聞くときに「いいところにすんでる」っていうこと。恋人が年下だって聞けばかわいいって姿を見る前から言うし、年上だって知ったらかっこいいって言う。背が高いと聞けばかっこいいっていうし、低いと聞けばかわいいっていう。

これはもう一連の流れみたいなもので、ほとんどといっていいほど例外は発生しない。たまに、かなりフライングしてしまい、恋人がいるっていう話を聞いただけでも、「いいなー。(恋人は)かわいいじゃん」と言ってしまうこともある。もちろん相手は「??見てないじゃん?」って感じ。

自分で言うのもアレだが、僕は仕事ではどちらかと言えば細かく、キッチリやっていると思っている。しかしプライベートでは、かなり重度ないい加減だと思っている。そしてそれは共存しづらいだろうと思っている。

このスタイルが長いので、特に問題は感じていないが、どちらがより自分らしいのか考えるときは確かにある。
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  2011/11/10    考え(自分関連)

僕は背が低い。
確かに色々なことを色々に加味したら、もっと伸びて欲しかった。でもあまり気にしてはいないけど。

普段の生活の中で、自分の背の低さを感じることは少ない。少ないどころか、無いかもしれない。天井の低い施設で、彼や友人が身をかがめているときに、僕は全然問題無いというシチュエーションぐらいじゃないだろうか。

しかしそんな中でも、たまに気になることがある。そしてそれは僕自身のなかでは、恐怖という感情とともにわき上がってくるのである。

隣同士で歩いている時はほとんど気にならない。しかし相手が少し後ろに下がって、僕の後ろをついてくるような並びになると、僕はすごく怖いのである。
かつて抱きしめられると、拘束されている感じがして怖いっていう話を書いたが、それに近く、まるで後ろからガバッと覆い被されるような感覚がして、すごく怖いのである。

ちなみに彼の身長は173cmだったと思う。彼が後ろを歩いてもほとんどそんなことは無いので、おそらくそれ以上の背の高さから、そのような感情が出てくるのだと思う。
拘束されるような感覚や、閉塞した感覚がなぜ恐怖なのかは僕には分からない。少なくとも閉所恐怖症のようなことは無いし、何か閉じ込められたようなトラウマがあるわけでもない。
ただ、人よりもちょっとだけ狭さには抵抗があるのもまた事実だと思う。僕は一人暮らしする家を決めるときには、何よりもまず広さが重要だったし。

だから背の高い人はなるべく僕のすぐうしろを歩くことをお控えください。
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  2011/11/09    考え(ゲイ関連)

遠距離恋愛について、個人的にはあまりポジティブな感情を持っていない。と、そんなことを書くと、また「うまくいっている例もあるのに、なにまた一方的なことを。」なんて言われてしまいそうだけど。

彼もそこについては、同じように考えているみたい。「遠距離なんて絶対無理」そのように言っていた。(もちろん彼が会話の中で適当に言っていることなので、それがどの程度無理なのかは推し量るしかないのですが)
ちなみに、この発言があると、彼は就職で都内にとどまることが、確率として非常に低く、県外に出ることも十分以上にあり得るので、実際に遠距離になる可能性を考慮するととても心配なのです。

遠距離がうまくいかない可能性をはらむのは、どういうことなのだろうか。僕はネガティブな感情を持ちつつも、何かこれ!といった理由で厳しいという意見を持てていない。

例えば、何をしているか分からない・わかりにくいというのは、一つの考え方としてはあり得る。出会いをしていたり、飲み屋などでの交流を通じてきわどい行動があっても、それには気づきにくい。
活動している場所が近ければ、例えば東京なら新宿とか。そういうことで必ず誰かの目に触れ、それは気づかれることにつながるし、それが抑止になる可能性はある。

誰かと交流したいと思うことも、そもそも近くに恋人がいないからかもしれない。

会いたいと思う時に、会えないということもあると思う。片道で1万かかるような場所だったとき。会いに行くのに数時間かかるとき。会いたい・会わなければというときに、つらいのではないか。

会わない状態の継続というのは、恋愛に対する感情を変えてしまう可能性がある。やっぱり定期的に会うことによって、愛のメーターは変化するのではないか。会わなければ枯渇の危険がある。

そしてなによりも、つらい。会えないのはやっぱりつらいように思う。
その考えが、「じゃあ恋愛を終わりにすれば、この会えないつらさからは解放される」という流れになる可能性は否定できない。

もちろん遠距離が成立している数多くの例もある。だから必ずしも厳しい結果になるとは限らない。限らないんだけど、やっぱり乗り越えるべき壁も多いのではないかと僕は考えてしまうのである。
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  2011/11/08    考え(自分関連)

31歳です。十分にオジサンになってきました。見た目もそうですし、肉体的にも。そして年齢も。

僕はオジサンと言われることについて覚悟しなければならない年齢というのは、おそらくそれは30歳は一つの節目だと思う。実際には28歳ぐらいから徐々にオジサン化しているようにも思うけど。

そしてオジサンというのは昔の僕にとても重要なキーワードであった。

確か僕が17歳ぐらいだったときの話。僕が今となっては尊敬している友人と知り合ったのもこのときであった。この友人からは、深爪の影響も受けた。あまり長い期間のつきあいではないが、1-2年ぐらいだったと思う。そんな短い時間を一緒に過ごしただけだけど、僕としては爪に代表されるように、とても偉大な人で、僕の人生を大きく変えてくれた人だと思っている。(ちなみに後にも先にも「かお。君って男性がすきでしょ?」って聞かれたのは唯一この人だけだった。なおこのときは比率が男性30%-40%ぐらいだったと思う)

この友人は確か僕より少し年上で、僕が17歳ぐらいの時に、23歳ぐらいだったと思う。そして当時の僕や僕の同年代の友人からすれば、その人は十分にオジサンだった。だからよく話しかけたりするときにはオッサンとかオッチャンと声をかけたり、相手もまたそれに反応してくれたのである。

この人は僕が今まで知り合った人の中でも、桁違いの人でもあった。人に好かれることについて、天才的なのである。そしておもしろそうな本を見つけるのも天才的であった。彼の何が魅力的なのかは分からない。だけど凡庸な言葉で表現するなら、会話が天才的におもしろかったし、行動がおもしろかった。会話の押すところと引くところが絶妙であった。感情を上手に表面に出し、喜怒哀楽を共有できる人だった。

顔はごく普通で、特にかっこよくも無い。だけどすごくモテていた。(ノーマルの人です)。前にも書いたかもしれないけど、この人は必ず恋人を見つける時職業やステータスから探していた。23歳という年齢を考えるとそのような出会いも別に悪くはないのだと思うが、とにかくそんなことは普通は相当難しい。当時は「スッチーとはつきあったから次は女医さんかなー。」みたいな感じ。「女子高生がいいから紹介してって友達に言ったら、おまえの歳だったらお金払わなきゃ無理だ」って言われたらしい。

そして当時オッサンと言われても、あまり気にしていなかったようであった。確かに時々「お前らも俺の歳になったらオッサンて言われるようになるぞ」なんて言ってたけど、そうやって親しげに仲間に加われるのはその人の才能だったように思う。
むしろそういう周りとの年齢のギャップや精神的な距離感を、あえてそういうことを受け入れることで近づいていたのかもしれない。し、そういうことができる人っていうことで、魅力的に感じたのかもしれない。

だから僕は、肉体的にオッサンになることには相当抵抗があるしなんとか反抗しようと思っている。しかし他の人から、肉体的以外の部分でオッサン・オジサンと呼ばれることがあれば、それはむしろうれしさを感じる。当時僕が友人に対して使っていたその言葉は、僕は親しみや近しい距離感の表れであった。
もちろん僕に対して使われる言葉は事実の表明か侮蔑の可能性もある。だけど気にせずオッサンと呼んでもらえることは、僕はうれしいことだと思っている。

僕の人生において、数少ない尊敬できる人が言っていた言葉。「オッサンって言われるようになるぞ」という年齢になりました。
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  2011/11/07    ブログ

本当はコンテンツとはどういうことか。という定義をはっきりさせたいのだが、とりあえずここでは、コンテンツ=興味の対象として考える。

ブログを書き始めて1年ちょっとが経過した。そして僕の書いているゲイブログというのは、比較的ブログを書いている人物に焦点が当てられることが多いように思う。僕はそれが非常に怖い事だと考えている。

僕は別に自分のキャラを作るまでもなく、おそらくこの文章から読み取れるとおりだと思ってもらえればおおむね誤解が生じない。ちょっと誤解があるとすれば、普段の僕は文章から得られる印象なほど高圧的じゃないし、偉そうでもない(と思う)。

しかしほとんどのブログには、人間性がにじみ出ており、それがまたそのブログの色を作っているように思う。
人気のあるブログというのは、文章の質も当然のことながら、本人の人間としての魅力にもある程度関係してくるように思うのである。

しかしこのときに僕は問題、、というよりも読者と書き手の意識の乖離(距離感)がおこるように思う。ほんわかした雰囲気のブログを読んでいると、その書き手はさも聖人君子のような印象を持ってしまう。だから浮気だったりとか、ケンカだったりとか。そういったトラブルを読者が望まないし、書き手は読者が望んでいないことを察知する。

しかし書き手としては、意図的にそういったことを記事にすることによって、読者との距離を縮めようとするかもしれない。僕は感情が変化したときには記事を書くネタができやすいので、怒りとか喜び理不尽なことは比較的多く記事になる。

だからブログの書き手は、完全に幸せな状態よりも幸せをつかもうとしている方がいいように思う。恋人がいるよりもいなくて探している状態とか。
恋人がいる状態なら、なるべく日々は安定しており、二人の中で生じた些細なことを書く方が望まれるように思う。

僕はこのような状態には不満は全く無いし、読者の意識と書き手の意識がバランスするのであれば、それはとてもすばらしいことである。バランスすれば、ランキングやアクセス数が上がるだろうし、それはモチベーションにつながる。
しかし常に自分自身がコンテンツ=興味の対象になっていることを忘れてはならない。往々にして読者のかたは文章に魅力を感じるよりも、書き手に魅力を感じているパターンが多い。

僕は自分自身がコンテンツにはおそらくなり得ない。なったとしても、ごく少数の(悪い言い方をすれば趣味の悪い?)人にだと思う。
もし僕に興味を持っていただいて、何かの機会で会うようなことになったとき。僕の性格については、十分すぎるほど覚悟をしておいてもらいたいと切に願う。
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  2011/11/06    考え(ゲイ関連)

僕がこうしてブログに書いていることというのは、主に20代前半から中盤に書けて考えたことをまとめて書いている。ここのブログに書いてあることは、少なくとも僕がその時代・年齢の時を生きたときに、大多数の人が同じように経験していることであったと考えている。

しかしそれは今になって振り返ると、必ずしも今の事実とは重ならない部分も多い。それは出会いの方法だったり2丁目と聞いて連想するイメージかもしれない。昔とだいたい同じ、ということがある一方で、昔とはだいぶ違うと思うことも多くなった。

特に僕は、同年代から年下との交流が多く、どうしてもそれを感じる場面は多いのかもしれない。

その中でも、いい方向に進んでいるだろうと思っていることが少なくとも一つある。恋愛の方法である。かつてを語れるほど何も詳しくは無いが、男女の恋愛のように男性同士の恋愛が成立しつつあるように思う。

例えば僕の友人で、先日1年ぐらいの片思いが実って、付き合うようになった人がいる。ちなみに同い年同士の男女の恋愛。
男性と僕は友人で、その男性がおとなしい性格だということを知っている僕としては、その恋愛は、派手なことは無いかもしれないが、無難な恋愛というか、彼ららしい恋愛というのをしていくのだろうと思っていた。それは細く長くというようなイメージ。

普通の恋愛のプロセスをいちいち確認しながら進むような恋愛。例えば初めて手をつなぐとか、初めてキスをするとか。泊まりに来るとか、車で迎えにいったほうがいいのか、とか。もちろんそこには性的な行為も含まれる。

たまにしか話は聞かないが、それでも順調にステップを踏み進んでいる話をしてくれた。

そして。性的なことが終わったとたんに、悪く言えば飽きがきたような。今までの我慢が一つの大きな目標を達成することで虚無になったのかもしれない。とにかくそういう経緯があって、結局その恋愛は終わってしまった。

これがもしゲイの世界でおきたとすれば。(というよりもこれは日常的な光景でもある)、必ずどちらかに味方がつき、あーでもないこーでもない。見る目が無かった。やっぱり身体が目的だ。こっちの世界は尻が軽すぎる。などなどの非難が噴出し、そして僕のような卑屈な意見を持つに至るのである。

もちろんそういう、身体を中心としたつきあいでは無かったと思う。結果的には性的な関係を結ぶことによって、その後が続かなかった事実を見ると、身体が目的だったということも十分に考えられる。しかし友人の話では少なくとも誠意を持って終始付き合っていたのは、他人から見た事実でもある。

ゲイの世界でも、以前に比べるとまだまだ性的な関係が中心になりがちだとは思う。しかしそれは、ひょっとしたら昔に比べると性的なことがオープンになっており、僕の考える身体が中心の世界と若い人が考える身体が中心の世界というのは、異なっている可能性もある。
男女の恋愛において、今の若い人が昔よりもずっと簡単に付き合ったりだとか、別れたりだとかを繰り返している。(ちょっと前からだと幼稚園から彼氏とか彼女って言う存在がいたりするらしいですしね)
すると、当然性に対する考え方は違ってくる。そして僕は若い人からの色々な意見や話を聞くと、少なくとも恋愛に対する考え方や行動の仕方というのは、今までのゲイの世界とはだいぶ異なってきていると、そしてそれは男女の恋愛方法に非常に似てきているのではないかと考えている。
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