辛辣な言葉とコミュニケーションの話。

先日の「ちょっと険悪になった時のこと」という記事があります。そのなかで、ずいぶん険悪に見えるというコメントをもらいました。
そしてそのことについて、あぁそういえば、と考えるところがあったので、少し記事にしたいと思います。
確かに記事で書いている表現は、文章なのでかなり強い印象を持たれる可能性があると思います。しかし半分の印象で考えたとしても、かなり辛辣な感じであることは事実です。
ウソだと思うか、ほんとだと考えるかの判断は読者の方にゆだねたいと思います。もちろん誇張はしてるかもしれませんね。
さて彼には友人がいない・少ないという話を書きました。そして彼に会ったことのある一部の方は「そんな感じがしない」という印象を持った人もいるかもしれません。僕自身も、彼と日常を過ごしている中では、そのような印象はあまり持ちません。なんだ普通じゃん、て。
しかし一部において、非常識なまでにあり得ないようなことがあって、それを見ると、確かに友人として我慢ならない状態に陥るのは非常によく分かるのです。
そしてそれが、お互いの意見をすりあわせるときと、感情が高ぶったときのことなのです。
彼は意見をすりあわせる、、、妥協点を見つける、、、のが非常にヘタです。たとえば、冷たい水がいいと言っている僕。熱いお湯がいいと言っている彼。
彼の提案は “じゃあ” といって、中間のぬるい水 という感じ。例なのでぱっとしないかもしれませんが、妥協点としてどちらも望まない、非常に中途半端な結果が待っているのです。
それが前回の話にもつながりますが、このときに僕が「相手の提案する妥協点を受け入れた」という感情では絶対にダメなのです。こんな中途半端なぬるい状態なんて、誰が望むんだよ!なんて思うなら、それでいいって言ったじゃんと、返されてしまうのです。
だからぬるい水の妥協点は僕自身が望んだと。そのように考えるか、もしくは一切妥協せずに、今日は冷たい水!彼は今回は我慢して!とするしかないのです。(もしくは熱いお湯にして、彼にあわせるか)
という妥協点の話。
また言葉の問題もあります。彼は感情が高ぶるとき、、、しかし高ぶることは最近はほとんどありませんが、、、非常に攻撃的になります。
その攻撃性は普段の状態を知っている僕からは驚くほどです。もちろんその大半は自分に向くので、特に大きな問題とはなりません。しかしごくまれに、先日のようにターゲットが明確であれば、それを受け止める必要があります。
強い言葉に単純に反応するのは愚かなことです。強い言葉に惑わされること無く、事実や主張をしっかりとくみ取り、その中から反論をするように気をつけています。だからありがちな、強い言葉の応酬になることはありません。
そしてそのような、滅多にないとはいえ非常に強い表現での主張を聞くと、友達とうまくやっていけるのか。と心配になってしまうのです。
かつて、彼の魅力で非常に重要な一つとして、友人がいないという話を書きました。そして普段ののほほんとした彼をみているときは普通ですし、そのおっとりした性格というのは、攻撃的な僕の性格を中和してくれる清涼剤でもあります。しかしこういう一部の部分をみると、友人とグループになるのではなく、一人を選択したときにそれが成り立つというのは、なんとなく分かる気がします。
パーフェクトなことなどあり得ないのは十分に理解しています。僕は彼に対してほとんどが理想であると評価する一方で、受け入れなければならないいくつかのこと、、、それはこのような辛辣な表現を受け入れることと、選択の責任を自分に持つ部分だと考えているのです。