過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

別れ。死別との違い。

   

星のなかぐろ 今日はこのブログを受けて。

彼の書く記事の中に以下のような文があった。

> 僕が小学生や中学生の頃に、
> 「もう一生会えないのなら、生き別れと死に別れは何が違うんだろう」
> とふと考えたことが何度もありました。
>
> もちろん、あの頃の僕には大きな違いなんてなかった(ように思えた)んです。
> 一生会えないならどっちも一緒じゃんか、て。

僕も今まで少ないながらの、いくつかの別れと死別を経験してきた。幸いなことに、大切な人であったり、祖父・祖母以外の身内の死はまだ未体験でもある。
そして時には、彼と同様に、もう会わない・会えないという意味で、別れと死別を同一に考えていた時期もあった。

恋愛における別れというのは、僕自身の未熟さから、あまりここに書くようなことは思いつかないのが正直なところである。
そして、上記に挙げたリンク先には、僕と意見と非常に近いので、僕の意見としてのそれはリンク先をご参照いただければと思う。

死別については、とても残酷であると自身の経験から思う。僕の場合では、祖父の亡くなったときの僕の年齢は、確か26とか27歳の頃だったと思う。確か祖父がなくなったときには、すでに彼と知り合っていたと思うし、今の職場で働いてもいた。
この年令になると、祖父や祖母と同居していれば別として、疎遠になるのは普通だと思う。そして僕自身も、相対的に相当に会っていたとはいえ、それでも疎遠であった。なくなる1年位前までは、1ヶ月に1回ぐらい会っていて、亡くなる3ヶ月前ぐらいからは全然会ってなかった。

もちろん仕事が起動に乗りつつあり忙しくなったという理由もあるし、死の直前の1年程度というのは、生きていく上でのクオリティの低下も甚だしく、「遊びに会いに行く」という行為が適切なのかも正直わからなかった。会うたびに一緒にお酒を飲むのだが、その量は徐々に減り、最後のころは、コップに数滴たらして、「ほんとにただ付き合う」程度であった。※ただしそれでもトイレは自分でできたし、食事も自分でできたので特に何か介護が必要な状態ではありませんでした。

そして最初に戻るのだが、やはり死は無になる。幸せなことも・不幸なことも死から先には何も無いのだ。

恋人と別れたとき、僕が今まで関わることのできた僅かな時間が終わったにすぎない。きっとその元恋人は、僕以外の誰かと時間を共有し、場合によっては僕と過ごした時間以上に充実した時間を積むかもしれないし、そうじゃないかもしれない。しかし死別と大きく違うのは、この、充実するかもしれないししないかもしれない。だけどそこは “有” であるということである。

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ちなみに、
> もう一度会えたら、最後に言えなかった「幸せにね」を心の底からきちんと伝えたい、というお話でした。

僕はこの最後の文章に、背中に汗がタラリと流れる、妙な気持ちが芽生えたのでした。

 - 考え(自分関連)