死について。

僕が10年近くこうやってブログに記事を残すようになって、大きな死別が2回ありました。祖母と祖父です。おじいちゃんの家と僕の住んでいた実家はとても近くにありました。30分ぐらいの距離です。
そのため昔から僕は祖父の家に遊びに行くことがよくありました。大学生ぐらいまでは週1回ぐらい行くことを目標としていました。それぐらい僕は祖父・祖母と仲良く過ごしていました。
しかし当然のように死というのは、まずは祖母に。そして数年を経て祖父に訪れました。
僕はかねてから、「今の気持ち」を書き表すことはとても重要だと考えていました。そのため死別という大きな出来事は、絶対に書き残さなければならない事柄でしたし、そうしたいと考えていました。
しかし祖母・祖父の死についてだけ、今までブログを書いていて唯一記事にできない出来事でした。今まで書いているように一つのことをいろいろな方面から光を当てて、その中で自分の考えや主張に近い角度を決め言葉で表す。そういう慣れた、今まで何度もやってきたあたり前の作業がなぜか祖母・祖父の死についてだけはできませんでした。
そのため死については、常におぼろげながら考えているだけで、結論というか考えをまとめることができていません。
一つ言えることは、悲しいという感情が出てきても、悲しいだけじゃないとか、本人にとっての死と周りにとっての死とか。若くして死んでないことなど、Aという結論を出そうにも、それをひっくり返すBという別の感情が出てくることがそれを複雑にしています。
僕としては、例えば極端ですが「老衰による死は幸せだ」というように結論を出したいのです。しかしそのように論を展開しても、残された周りの人間や、夫婦であれば残された方の残りの人生などはまた別です。自分を主体として考えた場合には、ひょっとしたら幸せな死かもしれませんが、残されたものにとっては、必ずしもそうではありません。そういう色々な事が僕の頭を巡っています。
未だに死については、あまり突っ込んだことが書けそうもありません。ただ、こうやってこの記事をここまで書けたのは、めちゃくちゃすごいことだと自分でもびっくりしています。
しかしもし祖父・祖母が僕に教えてくれる身体を使った最後の教育だとしたら、間違いなく僕にとって相当に大きな血や肉になっていると考えています。