親は老いる。覚悟をしています。

親の「老い」について話をするとき、やや遠回りになりますが、まずは祖父・祖母の話から。
記憶にある、身近な年輩者というのは、おそらく祖父/祖母だと思う。当然のことであるが、祖父 > 父 > 兄 > 自分 という年齢の順番である。もちろん死別や、一人っ子の場合など若干違うかもしれないが、これを一応の標準とさせて欲しい。
ちなみにオレは、祖父、父、自分の順番です。祖父はハッキリとは覚えていませんが、オレが20歳のころ、祖父は85歳、父は60歳という感じでしょうか。ちなみに父は結構年を取っていて、オレは父が40歳の時の子供です。
で、オレの記憶にあるもっとも若い頃のおじいちゃんは、オレが10歳頃。つまり祖父が70歳ごろとなります。つまりオレの感覚にとって、身近なおじいちゃんというのは70歳ぐらいからを指しているように思います。
親の話。同じようにオレが10歳の時の記憶の父は、50歳です。つまり親というのはこのぐらいの年齢をオレにとっては指しています。
そして今。祖父は亡くなりました。父は70歳になりました。つまり記憶のある祖父と同じ年齢に父親はなったのです。
オレは70歳になった父を見て、一つの葛藤が心に生まれました。目の前にいる父は父なのか、祖父なのか、と。
何歳であっても、父は父です。しかし当時のような力強く、非常に存在感のあった父はそこにはいません。目の前にいるのは、記憶に残っている祖父とむしろ重なるのです。男性というよりは老人というか、そんな感情。
残酷な話かもしれませんが、いずれ死別という大変大きな出来事を体験しなければなりません。そして目の前にいる父が感情の中で祖父に変わるとき、これはひょっとしたら死を受け入れる準備の一番最初のように思えてならないのです。
母もきっと同じでしょう。なぜなら母は今は60歳です。だからオレの中ではまだおばあちゃんという感情が芽生えていません。でもきっと、あと5年もすればこの感覚は変わってくるのではないかと考えています。
死生観というのはまた記事で書かねばならない大きな事ではありますが、年齢とともに受け入れなければならない残酷な、大きな試練の一つです。ただ一つオレが思っているのは、突然来る死ではなく、それを受け入れるための準備が「年齢」とともにできるというのは、ある意味で幸せなのではないかと。