両親健在と愛情の受け取り方
オレは父も母もいて、また夫婦仲良くすごしている。父はやや古い考え方で、大黒柱という考えを持っている。今となってはもうなんとも思わないが、学生の頃は苦労することもあった。
ゲイの友人たちは比較的片親であることが多いような感じがしている。もちろん病気などによる死別の場合もあれば、単純に離婚の場合もある。少ない例ではあるが、父のアルコール癖や女性にだらしないなど、壮絶な家庭環境の場合もある。
例えば職場だったりとか、ノンケ友人の事を考えると、片親である場合というのはそんなに無い。20人いて1人とか2人とかそのぐらいだと思う。しかしゲイの場合、なんとなくではあるが、10人に1人とか2人ぐらいいそうだ。少なくともパッと思いつくゲイの友人の場合、友人は10人も思いつかないものの、片親の人が少なくとも3人はいる。過去付き合った数人も思い出してみると、やはり片親が半分ぐらいだったように思う。
先天的なこととか後天的なこととか、父性がどうだとか。ゲイになった理由はそこにも一端があるのかもしれないが、それは正直なところよくわからない。ただ母親に育てられた場合、たしかに男っぽい人を求めるのは、なんとなくあるような気がする。
しかし片親の場合、あきらかに違うことがある。それは愛情に飢えていること、愛情を信用できないことである。これはかなり強く感じる。
例えば愛情というのは、形で表現することも多いが、そうじゃないことも同様に多い。オレの両親は愛し合っていることを知っているし、長年連れ添っているわけだから愛情以上の何かが存在しているだろうことも想像できる。祖父についても、同様であった。長年の夫婦生活というのは、自分が親や家族と一緒に過ごした時間以上を結婚相手と連れ添うというのは、オレには想像もつかない。
親や祖父たちは、日々「愛してる」などと、ささやくこともないし、勝手に外出しても「どっか行ったみたいよ」などと関心が無いようにさえ見える。これをもって愛情が薄れているわけでは無いだろう。そんなことは当たり前だ。
愛情の表現方法というのは、初期・中期・後期で変化するのかもしれない。
愛情を信じられない人の場合、ちょっと連絡が無いだけで不安になったり、浮気を疑ったり。「大切にしてくれない」と不平不満が始まってしまう。連絡をしないだけで嫌いを疑わうという感覚はちょっとオレには理解ができないところである。たとえ連絡をしなくても好いているという信頼を彼に持つというのは、愛を信じることなのかもしれない。
もちろんゲイの世界は誘惑が多いので、不安になったり疑うこと事の気持ちはわかる。だけど愛情は疑っている間はそれ以上深まることはなのではないか。
ひょっとしたら、愛を疑う人同士だったらうまくいくのかもしれない。しかし少なくともオレは、連絡を取らない愛情表現も度を超えない範囲であると思っている。それを疑う理由にされたら正直キツイ。
この愛情の感覚の近さっていうのは、意外と恋愛で重要な気がする。愛情は注がれていないと見える時でも、常に相手から注がれているものです。見えるものばかりでなく、感じること・信じることを意識するようにしていきたいと思う。