人の幸せを願うというのはエゴなのか。

ゲイはあるときには、ばからしいほど優しい。そしてあるときには、ひどいほどに残酷である。特にそれは、もういままでさんざん書いていることだけど、性的なことになれば、それがとたんに中心になって、誰もを裏切るようなことになるのである。
一方で恋愛には臆病な人も多く、なかなか勇気を出せないという人が多い。勇気がでないのは優しさが邪魔になっていることも多い。
最近特にたくさん聞くようになったので、ここで僕の考えを書いておこうと思う。
まず最近、「○○さんが幸せになるなら自分は身を引く覚悟がある。それが自分の彼に対する想いの大きさ」という趣旨のことを耳にする機会が多い。他の表現方法の場合もあるし、言葉では言わずとも態度がそれを示している場合がある。
そして僕はその考え方については、いまいち理解に苦しむところがある。
他人の幸せを願うというのは、ある意味でエゴではないのかとさえ考えてしまう。自分が安定した立場にいながら、誰かを応援するのであれば、別になんの問題も無い。もちろん、自分が安定していない立場からであっても、他人を純粋に応援するようなこともあると思う。
だけどそれは、自分とは関わらない範囲であるべきだと思う。例えば「勉強がんばってね」というイメージ。自分が勉強ができようができまいが、応援することには、いい成績を期待すること、願うことには何ら問題がない。
しかし恋愛に関しては全く別である。自分の好きな人がいて、その人が幸せになるために、自分が関わらずに応援するなんていうのは、誰のための考えなのか。
好きな人は、タイプじゃない人からいいよられても、別にそれ以上の進展は無い。逆にもし進展があり得るなら、それはそのまま突き進むしかない。この2択以外の何があるというのか。進展がありながら、相手の本当の幸せ(笑) を望むために自分が身を引くなどと言う考えはどうやって正当化できるのだろうか。
2つのことが実現できない場合(ここで2つのことを実現するというのは、二股になってしまう)、必ずハッピーな人と、アンハッピーな人が生まれる。これはもう避けようの無いことである。だからせめて、自分と付き合うことになって、相手がなにか大きなものを失う必要があるとき、それも含めて相手のことを受け止める覚悟が必要だし、本当に表現するべきはそこだと思う。
例えば僕であれば、彼が「かお。が結婚するなら、僕は身を引くからね」といったら、無責任な発言だと思う。ここはやはり「結婚はもう実現できないけど、それ以上の幸せを二人で築こう」でしょう。
僕にしてもそう。彼が僕と付き合うことによって、彼はたくさんのことを失っている可能性はある。だけどそうやって失わせてしまったものと、僕が与えられることを天秤にかけて、それは必ず幸せの方が大きいと信じることが、僕が果たせる責任だと思っている。
結局恋愛では、相手のために何かを考えて行動するのではなく、自分のために行動し、その結果のすべてを引き受ける覚悟が必要。
仕事でもそういうジレンマはよくある。既存の取引のある業者を自分の会社に乗り換えさせる場合、自分たちは競争に勝たなければならない。既存の業者がかわいそうだから、という理由で、積極的な行動を控える必要はどこにもない。ましてや、既存の業者と取引を続けた方がお客さんにとっても幸せだから。なんていうのはバカげている。
自分ができることは、自分の会社に乗り換えてもらった方が絶対にお客さんは今よりも幸せになれるという自信と覚悟だけである。そして結果的に取引が終了してしまった既存の業者は、これを糧に次の勝負に望んで欲しい。それぐらいしか考えられないし、考えるべきでもない。
恋愛においては自分と恋人が幸せになることをまずは第一に考える必要がある。それ以外の第三者が登場してきた時点で、それは本当に重要なことか、慎重に考える必要があると思う。
人の幸せを願うことをエゴと思い、自分の幸せを第一に考えることをエゴだと思う。同じエゴならば、自分の幸せを優先すればいいのではないか。
と、この記事はしばらく前に書いていました。昨日ある日、ケーキ屋の娘に恋をした。 を読んでやっぱり難しいなぁと思いました。出てくるゲイの方は一回身をひいてるんですよね・・。
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