過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

「 考え(自分関連) 」 一覧

  2011/08/11    考え(自分関連)

たくさん遊んだあと、あたりまえだけど別れの時間が来る。「今日は楽しかったよありがとう。また遊ぼうね。じゃあね」そのように言って友人との別れである。

友人たちのほとんどはそのようなときに、「じゃあねバイバイ。気をつけてね」そのように声をかけてくれるのであった。

女性からも言われる。タチの友人であってもウケの友人であっても。妹であっても親であっても。みんなからそのように言われたことがある。もちろん夜道では何も起らないし、妹やウケから言われたら、「気をつけるのはお前だろ!」と心のなかでつぶやいていた。

しかし一歩引いて考えてみると、この気をつけてという言葉は大変に素晴らしいのではないかと思う。昔からの友人であればじゃあねとか、バイバイとか、またとか、おつかれという数々の簡単な言葉で挨拶は終わり。しかしそうじゃないと、バイバイの挨拶のあとに、ちょっとした気の利いた一言が付与される。それがこの言葉である。

本当に心配しているとか上辺だけとか、そういうことはあまり関係ない。この一言が言えるだけですごいことだと思う。なんだかちょっと恥ずかしい感じがするし、何も起こらないんだからわざわざ言うまでもないと思っちゃうし。

だけどこの気遣いができるというのは素晴らしいことだと思う。なんとかこの言葉を使いこなせるようになりたいと思う。
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  2011/08/07    考え(自分関連)

僕は仕事でパソコンを使っている。だから非常に合理的であると考えている。実際、リスクを取ることにも積極的でありたいと考えていることもあって、「合理的」というのは、僕自身にとって、非常に重要なことであると考えている。

それが人らしさ、たとえばそれは人情だったりとか情けという表現をされる部分において、僕自身は弱いのかもしれない。優しい言葉をかけなければならないようなシチュエーションで、そんなのたいしたことないじゃん。などという、まったく不謹慎な発言を僕は過去にさかのぼってずっとしてきたように思う。

もちろんすべて100%において合理的ではないかもしれないが、それでも生活や行動のほとんどがかなり合理的で、理路整然といしているのは、多くのデメリットがあることは事実でありつつも、僕自身はかなり気に入っている。

だから当然占いといったたぐいは信じないし、ジンクスも微妙。オカルトなどは否定的。娯楽にさえもならない。

そんな僕だけど、唯一信じているのが縁。縁は異なものと昔から表現されるように、おそらくすべての人がこの縁に振り回されたことがあるのではないだろうか。

小さな縁から大きな縁まで、数えていたらきりがない。僕自身が今のような生活をするようになったのにも、複数の、そして重要な縁があった。
30歳になって、ある意味で色恋ではなく、過去を振り返って、これからの30代を充実させよう。(そしてそれは一人もしくは少数で) と思っていた矢先に、このブログを通じて、若い人から僕よりも年上の人まで色々な交流を持つことにもなった。

意図的に交流を図ったのであればともかく、少なくともブログを始めた頃に考えていたことと、実際に流れ始めた方向性は全く違った。もちろん僕は一度決めたことを自身が満足するまでやり遂げることは、ちゃんとするつもり。だからブログとして当初考えていたことはしっかりとできている。だけど、交流なんてするつもりは無かったし、そのようになることも考えていなかった。

今まで縁という意味ではもちろん彼との出会いは大きい。これも突然、そして意図してない出会いだったし。
仕事もそう。バイトもそう。一人暮らしをする家もそう。

ということで、家について少し書きたい。

不動産探しは難しい。僕は前職では店舗のための不動産を探す手伝いをしていた。だから不動産業界のことについて、ほとんど何もしらないけど、お客さんとしての立場と、交渉のネタについてはどこまでできるのか、おぼろげながら経験を積んでいた。

今回が初めての一人暮らしになる僕は、当初どのような家に住むことになるのかとても緊張していた。ありがちな、要求を詰め込みすぎて家賃が高くなるのも困るし、家賃を優先してへんぴなところに住むのもイヤだった。
でも、はじめて物件を探す僕はそれについてはよく分からないことも多かった。

僕は恋人探しと一緒で自分の要求することは、少なくて、でもはっきりしている。
広さやキッチンのこと、、、それだけ。一階でもいいしボロ家でもかまわない。日当たりもほとんど気にしない。風呂とトイレが一緒だって別にいい。

最初に利用した不動産屋は、いまいちぱっとしなかった。人もそう。紹介される物件もそう。相性が合わなかったのかもしれないし、物件数が原因なのかもしれない。いくつか案内された家を見て、どれも一長一短だったし、不満の方が大きくていまいち踏み切れなかった。

でも、はじめて利用する不動産屋で、そこそこいいと思える物件があった。ちょっと狭かったけど、まあ自分の要望はいまいちという感想をもちつつも、満たされてはいた。

「うーん。いまいち決めかねるけど、ここにしようかなぁ。とりあえず週明けまで待ってもらえませんか?」と。すると当然おきまりの言葉が出てくる。「週明けまでこの物件が空いている保証はまったくありませんよ。もし気に入ったのであれば、すぐに決めていただかないと、埋まっちゃうかもしれません」と。

もちろんそうだけど、僕自身はこのとき、「うーん。いまいちピタッと理想に合う訳じゃないから、もし決まっちゃったら縁が無かったと思ってあきらめます」と。

そしてその物件。週明けに連絡すると、その週末に決まってしまったと言うことであった。僕自身は、仕方がないので次を探そうという気持ちであった。

で、不動産屋を変えた。次の不動産屋で紹介される物件もどれもいまいちだった。でも方向性は近かった。数件の物件、、、たしか4-5件を見て、どれもやはり微妙だった。その中でも、家賃が高いけど、理想に一番近い物件があった。
で、これも交渉。

「今までの中で一番いいと思った物件でした。でも家賃が高いんです。あと少し下げてキリのいいところにしてもらえませんか?そうすればこの場で契約してもいいです」と。そして不動産屋は「うーん。おそらく難しいと思います。というのも、この物件は数ヶ月前に少し家賃を下げてるんですよ」と。
「とりあえず聞くだけ聞いてもらえますか?もしダメだったら他の物件も検討します」という話で交渉をしてもらった。

で、家賃が下がり結果として今の物件に落ち着いたのである。そして一部の不満はやっぱり思った通りにあるんだけど、それでもトータルでは満足している。何より最寄り駅は山手線だし、部屋は広いし日当たりもいいし。明るい家はやっぱりいいと思う。

彼はゴキブリが出るからボロ家はイヤという。俺は街が賑やかな方がいいと思うが、彼は静かな方がいいと言う。
物件についても、お互いの好みを合わせるのはやっぱり大変のようです。

ちなみに今のところはペットが不可。だから次はペットがOKの物件に引っ越そうか考えています。
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  2011/07/28    考え(自分関連)

Twitterで活発な人=実生活でも活発な人。Twitterでおとなしい人=実生活でもおとなしい人。というのは、何となく分かる気がします。

Twitterで積極的に他人と交流するひと / ひとり静かにつぶやく人 というパターンもあります。

しかし難しいのは、実生活で活発でありたいと思いつつも実現できなかった人が、せめてTwitterでは。と、チャレンジして失敗する例がマレにあるようなのです。
そこで、僕は活発な人及びそのグループ、もしくはそれに所属する人たちを本流とし、活発なグループから一歩引くようなグループ、もしくはそれに所属する人たち、または極端な例として一人である場合。その人たちを傍流として区別しています。
本当に孤立している場合は、グループではありませんが。

僕の場合、完全に傍流です。孤立までは行かないと思いますが、決して本流ではありません。本流に所属したくないのではなくて、なんとなく所属することができないという感じです。今まで数多くの集団に属してそれをイヤと言うほど知りました。

僕はこの傍流という流れがとても好きです。本流という流れは大きなうねりとなって、数多くの人を巻き込んですごいことだと思います。本流の果たすべき役割はきっとそれでいいのだと思います。

そしてその本流に乗れなかった人が必ず出てきます。僕の今までの感じでは1-2割がそのような感じです。それはコミュニケーションが苦手ということで本流に乗れない場合もあるし、本流のやり方や遊び方とは違うという場合もあるようです。

だいたいの場合傍流は傍流でグループができることが多いように思います。

そして傍流のグループにさえも所属していない場合には、孤立となるのです。僕が今までグループに所属していたとき、50-100人ぐらいのグループで、1-2人ぐらいがこれに該当していました。次回以降のイベントに不参加になる場合もあれば、孤立状態でも参加してもらえる場合もあるのが不思議です。

僕はもうこの性格で本流を目指そうとはしていません。傍流には傍流の良さがあると僕は考えています。
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  2011/07/23    考え(自分関連)

むかしむかし、あるところに。努力の大嫌いなかお。という少年がおりました。その少年は、とにかく努力することが大嫌いで、楽なこと、好きなことばかりをして過ごしていました。

特に運動が嫌いで、食べることが大好きだった少年なので、年齢を重ねるごとにぶくぶくと太り、さも見にくい身体になってしまいました。

それでも努力の嫌いだった彼は、見にくく太ったその姿を見ても、なんの努力もせず、怠惰に毎日を過ごしたのでした。

見かねた周りの友人たちは、「もっと運動しないと」とか、「食事を制限しないと」などとアドバイスをしたのですが、彼はまったく耳を貸しません。
さらにタイミングの悪いことに、一部の友人は「そんなに太ってないよ」とか「太っててもいいじゃん」とか「健康的で魅力的だよ」などという甘い言葉をかけるのでした。

彼は自分にとって都合の悪い言葉には耳を貸しませんが、甘い言葉にはすぐに甘えたのです。まだ大丈夫。それを何回も自分にいいきかせ、さらに努力をしない毎日を迎えたのでした。
※結末はみなさんのご想像にお任せいたします。

と、もし僕が努力をしなければ、きっとそのような毎日を送っていたのではないだろうか。という話。

僕がいつも頭の中で思い出す話がある。

あるところで病気の人がいた。手術をすれば治るかもしれないが、重篤になるかもしれない。そのような病気だったそうである。その人はなんとか手術をせずに治す方法を必死に探したという。もしくは最悪手術をするにしても、確実に治るように。
そうやって、病院や医者を捜している間に、その人は重症になり帰らぬ人となった。

と。そういう話。

結局、何かに向かうときに、最善の方法を探していたのでは手遅れになる場合も多い。次善の方法ですぐに行動を起こすことが重要な時もある。
しかし何か行動を起こそうとするときに、アドバイスの場合もあるし否定的な意見を受けることも多い。そしてそれが、自身の決定を惑わすことになる。

最初の話。努力をしないことが問題なのは言うまでも無い。しかし大丈夫という周りの言葉をどのように受けるのか。という問題もある。大丈夫という言葉をかける人は、本心かもしれない。しかしそれは、手遅れへの道を進むために背中を押してくれていると考えることもできる。

もちろん、身体に関することはあらゆるものを犠牲にしてまで何かに向かうというほどのことでは無い。だから適度というのは確かに存在する。しかしそれは何もしなくていいということでもない。そして何かをしなければならないのであれば、少しでも早く、、、たとえその方法に間違いが含まれていたとしても、、、何かをしなければならないと考える。

さらに。ここから僕の彼への不満を少し書く。
彼は一言で言うならゴールがない。果てしなき努力とでもいうのだろうか。たとえば一時の、一番太っていた頃に比べれば、今の僕は相対的にマシになっていると考えている。たとえば十分満足できる点数という意味で70点は取れたのではないだろうか。しかしもちろんそれは僕自身も当然認識しているが、80点でも90点でも100点でもない。そんなことはもちろん分かっている。それを知っているのと同じように、70点ぐらいの満足度の位置にいることも知っている。

しかし彼からすると、この努力=結果は、0点もしくはそれに近いほどの低い評価になる。もちろん結果が出ていない状態で、努力だけに点数をつけるのはおかしい。だけどちゃんと結果もでている。脂肪での56kg がジムでトレーニングして筋肉をつけての53kgであれば、肉体的にはかなり見た目も印象もは違う。

にも関わらず、全然ダメだと評することの意味を僕は考えてしまう。

とりあえず僕は甘い言葉に惑わされることなく、慎重にことを進めるばかりに手遅れにならないようにがんばっていきたいと思う。
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  2011/07/14    考え(自分関連)

社会的な生活は問題なく営むことが出来ている。問題なく、などではなく、むしろうまくやっているのかもしれない。しかし一方でプライベート(=個人)ではますます孤立しているのではないかと思う局面が多々ある。そしてそれは最近になって特に増えてきた。

もともと家族とは考え方の根本を共有することは出来なかった。家族には家族の考えがあるし、それは家族という小さな世界を中心に据えている、と僕は考えていた。より普遍的な、一般的な社会的な考え方に照らしてみると、家族の常識というのはもはや非常識に思え、僕には何一つとして理解できることなどできなかった。

しかし家族の考え方というのは、社会に身を置く親、個人個人が作っているのである。そう考えると、あながち(当時としてはかたくなに)拒否する程のことでもないのかもしれない。
仕事においてはともかくとしても、プライベートにおいて「仲間」を感じることが出来ない僕は、社会ではうまくやっているようにみえても、結局はとても大切な多くを得ることが出来ていないことの証左なのだろう。

思い返してみれば色々と理由はあるように感じている。一つは自身の考え方が(悪い意味でも)固まってきたこと。周りが忙しくなっていること(会社での地位や、結婚その他のことで時間がつくりにくい)。体力的なこと(めんどい・しんどい)など、この年になると、一人を自覚する時間が増えるということか。

考え方が固まっているせいで、疎遠にされているのであれば、それは僕自身の問題である。僕という人間が市場での競争力が無くなってしまったために、わざわざ会うことの優先順位が下がったということである。
これには色々思うところ、考えるところがあるので、なんとか対応していきたいと思う。なんとなく、人生において30歳からのチャレンジというか目標というか、意識しなければならないことは、この他社とのコミュニケーションなのかもしれない。勢いやつながりだけの今までとは明らかに違って、厳選された、心の通った付き合いを求め、求められることになるのかもしれない。

逆に合う頻度とは関係なく、少ない時間を一緒に過ごすだけでもそれなりに充実を感じているのも事実である。僕の場合、年齢が下の人と過ごすことも多く、時間の流れ方が圧倒的に違うように思う。そこには相変わらず戸惑っているのは確か。

でもやっぱり孤立しないようにがんばっていきたいと思います。
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  2011/07/13    考え(自分関連)

僕は昔から、非常に寝付きがいいのです。寝られないということが滅多にありません。たまにあるとしたら、それはよっぽど長い昼寝をしたときぐらいです。普通の昼寝ぐらいでは、夜はしっかりと寝られます。

昔は朝は弱く、なかなか起きられませんでした。本当に自分は病気なのではないかと思うほどひどかったのです。しかしそれも社会人になってから、いつの間にか起きられるようになってきました。今では苦もなく起きることができます。(ただしあまり早起きの習慣はありません)
特に新人だった2年間。このときについては、例えオールをしようが、二日酔いであろうが、とにかく絶対9時出社というのが僕の日常でした。フレックスであった僕の会社は別に10時ぐらいの出勤のほうが普通ぐらいでしたし、別に早く来ることをそこまで強く求められているわけでもありませんでした。しかし早起きできるのは新人の間だけだと考えていたのでそのようにしました。結果的にはそのおかげで朝が強くなったのではないかと思っています。

さて、そんな僕ですが、この寝付きの良さは時に問題となっています。最近のいくつかの例を挙げると、skype をしているとき、話をしながら寝てしまうのです。友人がいうには、後半は適当な返事しかしなくなって、最後には黙ると。そのときにはもう寝ているのでしょう。

寝る前の少しの時間はいろいろなことをしています。たとえば本を読むこともあります。本を横になりながら読むと、寝る間際には、そのまま本が顔の上に置かれます。そして朝になって本が顔に当たっているのが邪魔になって起きるのです。(もしくは夜に目が覚めます。)
大きな本だと、顔の上に落としたりすることもあって、大変です。

寝る前にTwitterをすることがあります。このとき、もちろん途中まではしっかりと文章を打っているのですが、寝る前数分のコメントはひどいものになります。もはや記憶もほとんどなく、誤字や脱字が多いのです。まるで酔っているときのコメントに似ています。

なぜか、メールだと作成途中で寝ることが多くて、Twitterだととりあえず投稿して寝るようです。なんとも不思議です。

寝起きについては、僕は目が覚めるとすぐに活動ができるようになります。機嫌が悪いこともありませんし、朝はダラダラなんてこともありません。人によっては、寝起きは機嫌が悪かったり、昼過ぎまで寝ていたり、起きても布団でゴロゴロするなんて話を聞きますが、僕には考えられないことです。
時間がもったいないというのも確かにありますが、それって退屈じゃないのでしょうか?またイライラについては僕はもっとももったいない感情だと思っていますので、なるべくそれは受け流すようにしています。

僕の場合、しっかり寝てしっかり起きるということが重要です。彼の場合は眠りが浅いので、なかなか寝られない上に、すぐに目が覚めるという問題があります。僕が起きると、彼はほとんど例外なく、目が覚めます。
これからもしっかり寝て、しっかりと起きたいと思います。
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  2011/07/11    考え(自分関連)

僕は勇気という言葉が好き。無いよりはあったほうがいいし、「勇気がある」なんだかすごいことのように思える。
この言葉のすごいことはネガティブな言葉との組み合わせにある。「逃げる」と言ってしまえば、まるで卑怯なことにように聞こえるし、少なくともそこからポジティブなイメージは出てこない。

しかし「逃げる勇気を出す」と言う。するとどうだろう、とたんに悩みぬいた結果としての「逃げる」に思えないだろうか。苦渋の選択とでも言うのかもしれない。

かつて高校生のころの友人の話。友人は何でも思ったことをズバズバと指摘する人であった。○○は可愛いけど性格が・・・とか、○○は××と仲が良さそうだけど裏では悪口を言っているとか。学生時代のそれなんて、たわいもないことなんだけど、それでもその時はいちいち重要なことでもあった。

「なんで本当のことを言っているのに批判されなければならないのか」友人はそのように嘆いていた。僕は今もそうだし、その時もある種の「自分の正義」を信じていた。自分の正義に照らして考えると、友人の言うことは一部もっともで、「いちいち言わなくてもいいじゃん」という否定的な気持ちも半分持っていた。

今となってははっきりと、性格がいいとか悪いとか、他人のそういうことはどうでもいいと思える。しかし当時はやっぱりそういう話題は常に盛り上がるのであった。

その時に僕が友人にかけた言葉。「言わない勇気を持てばいいんだよ」と。言いにくいことでも事実をハッキリと主張することはとても勇気のあることだと思う。と同時に、言わなくていいことを言わないことも勇気が必要だと。だからその勇気を友人は持ってないんじゃないか、と。

それが友人に響いたのか、正直全く覚えていない。その後の行動が変わったとも思えないし。だけど僕はそれ以来その勇気という言葉をとても気に入っている。自分の意図と違う選択をしなければならないとき、「別れる勇気」かもしれないし「続ける勇気」かもしれない。「諦める勇気」かもしれないし、「始める勇気」なのかもしれない。そう考えることによって僕はたとえ自分の意図に反しても前を向くことができるようになる。

幸いなことに、そこまで大きな悩みというか、挫折は無い。だけどそれが無いのはこの「勇気」という言葉にどれだけか助けられているのだと思う。最近は「落ち込む勇気」がありすぎて困っているのです。僕には「落ち込まない勇気」がほしいんですがね。
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  2011/06/10    考え(自分関連)

今日はここから。 元・彼が全てな男 I will love you forever. ?

誰かを本気で愛することはとても幸せな事だと思う。
しかしそれは、同時に自分を弱くすることにもつながるように考えている。

僕自身、今まで長期の関係を築けたことがなかった。だから愛によって、強くなることと弱くなることの区別がしっかりとついていないのかもしれない。

恋愛に関する偏狭な考え方はしっかりと記事にしていかねばならないと考えている事ではあるが、それに近い部分での考え方の一つとして依存がある。

妹の話。
(・・・兄弟の話を例として挙げるのは非常に珍しいことでもあるが・・)妹が、中学・高校生の頃に付き合っていた男性がいた。詳細はあまり知らないが、長期間であったことに驚きであった。そしてゆくゆくは結婚などの事になり得るのかとも思っていたが、結局20歳前後になって、別れてしまった。

このとき、上記リンク先の事もそうだし、妹の出来事でもそう、個人的にはいろいろな考えが巡ってくるのであった。

トレードオフという考え方がある。何かを決定した場合には、その決定のせいで何かができなくなってしまうということである。
よくあるのは、食事だろうか。昼食にラーメンを食べる事を決めたら、同じぐらい食べたかった寿司は食べられない。(もちろん夕食に回せばいいけど)

仕事では仕入れや売り上げもそう。一カ所からの仕入れは、他からの競争が無くなり危険である。売り上げも一カ所に集中すると、何かがあったときに大きなリスクとなり得てしまう。

恋愛も同様に考えてしまうのである。
依存する・できるというのは、それはそれはすばらしい事だと思う。

もちろん考えるリスクは様々である。
一つは妥協した恋人と付き合うことによって、他のもっといい人と知り合うことができなくなるトレードオフかもしれない。
もしくは恋人がいるという油断から生じる自分を磨かない競争の欠如かもしれない。そして不幸にも別れが来たときの、集中によるリスクかもしれない。

どれもが重大なリスクとなり得る。

妹が一人の男性と長期で付き合っている時、僕自身としては浮気にならない程度で、他の男性とも遊ぶことは重要だと考えていた。もちろんそのような考え方には賛否両論あると思う。しかし超長期においては、若年期の恋愛は非常に大きな出来事である。一人に依存することによって、あらゆる考え方が固定されることも怖い。もちろん幸せな方向での固定であればいいのだが・・。
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  2011/06/09    考え(自分関連)

このブログの初期の頃。20代だったころの自分に焦点を当ててきた。そしてそれと比べると、今は非常に物足りないというか、虚しいというか。そういうことをさんざん書いた。いろいろな意見をもらって、思うところもあった。
そのひとつが、30代になってからの魅力についてであった。10代半ばから20代の半ばは、人生において非常に大きな出来事をめまぐるしく体験する。しかしその基準が変わることはなかったように思う。常にお金は無かったし、常に身体を持て余していた。心が落ち着くことはなかったし、落ち着きたくも無かった。

しかし20代の後半からは徐々にその傾向が薄れ、30代になるとほぼ突然のように今までの基準の転換を求められるようになった。それは自分自身が体力とともに追いつかなくなるという形もあったし、周りからの要望のようなものもあった。
例えば酔っ払うこと一つをとっても、20代のまわりのやさしい目に対し、30代の哀れみの目のような。それがすべてにおいて出てくるような感じである。ある意味で社会からも自立を求められているのかもしれない。

若い子の話題にはついていけない。そのような話を聞く中で最近になって理解したことがある。
この話題についていけないというのは、何もポケモンがどうだとか、そういう話ではないということ。世代ごとに知っていることや知らないことがあるのは仕方が無いし、その部分はむしろ話題になりやすいと考える。

でも、なんとなくだけど、若い子のついてけない話題というのは、出される話に興味が持てないことだったり、同じ考えを共有できる自信が無いことだったりする。
例えばそれは、30のおっさんからすれば、AKBとか理解できないことが多いし、フーン。で終わってしまう。一方で僕が仕事の話を嬉々としても相手は興味が無いだろう。

まだまだ30代の魅力は模索中です。
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  2011/06/07    考え(自分関連)

とよく言われるという話。
たまには、(いつもかもしれないけど) 自分の考えを一方的に書こう。最初に書いておく必要があると思うが、これは言い訳の記事かもしれない。

友人と話をするとき、まれに「話を聞け」と言われることがある。そしてこれは非常に重要なことであり、まったく事実である。そう。人の話を聞かないのだ。

かつて、Aという話を聞くと、想像がB→Cと進み、じゃあDってどうなんですか?みたいな質問をしてしまうことがあるという話を書いた。2011-04-20の記事。
最近自分でもそうなりやすい、想像が進みやすい内容の話題というのがわかるようになってきた。

一番は恋愛に対する話。
恋愛の話は非常に興味深いことであるが、友人が話をしたいことと、僕が聞きたいことは全く一致しない。ここまで一致しない話題というのも珍しいのではないかと思うほどである。

たとえば、特につきあい始めは恋人のいいところや楽しいところを話をしたがる。違うちがう。聞きたいことはそんなことじゃないんだ。OK、しばらく聞いていれば本題にはいるのかな?という期待もできない。どこに遊びに行ったとか今はどうでもいいんだ。お酒を飲むとか飲まないとか、そんなこともどうでもいいんだ。

まず僕が聞きたいのは、写真はあるの?あるなら見せてっていうことだけ。最初はまずこれからだ。そうしないと、友人の話の彼の人物が想像できない。

そして次には知り合ったきっかけ。どこで、どのようなツールを利用して知り合ったのかを知りたい。特にこれはIT技術者としての興味も関わってくるので重要である。

そして彼の不満点。友人が見つけてくる恋人について、完璧な人というのはまず存在しない。だから不満点を知りたい。そしてくだらねーと言って笑いたい。年齢もそうだし体型もそうだし。几帳面だったりするとよりおもしろいかもしれない。

で、これが会話の感じになるとこんな感じ。
僕「最近、いい出会いとかないの??」
友人「うーん。。。。」
僕「え!まじ!あるんじゃん。ちゃんとすることしてんだなー。画像は!画像!どうやって知り合ったの。いつ知り合ったの。何回会ったの。相手は何してるの。歳は?年上?体型は?いい感じなの?」
友人「まって。まだいるとも言ってないし!」

という感じ。ある部分では非常にせっかちであり、そういう悪いところが出てしまっているのかもしれない。
ごめんなさい。
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