「 考え(自分関連) 」 一覧
2011/10/04 考え(自分関連)

僕はおそらく誰よりも平凡な人生を歩んでいるのではないかと思う。そしてそのような自覚は、僕の今までを振り返ったときにとても重要なことだと考えている。
平凡ではない。それを望む人は多い。個性があって、その個性は他の誰とも違って、自分らしさ。そういう考えや、日々が変化に富み、刺激的なことが毎日のように起きる生活というのはある意味でとてもすばらしいことだと思う。
しかしやっぱり僕は平凡が一番だと考えているのである。
毎日朝起きて会社に行って、仕事をする。夜には帰宅し、彼と会ってご飯を食べたりお酒を飲む。それで一日はおしまい。時にはジムに行ったり、プールで泳いだり、ジョギングしたりするのがせいぜいの変化で、それ以外の大きな刺激は生じない。何か変化があるとしたら、せいぜい旅行ぐらい。
そのような生活が、完全に実現できているわけではないが、かなり近いことは実現できているように思う。
彼もそれは似ている。今のところは家と学校の繰り返し。ジムとプールは日課として毎日のように通っているみたい。彼は友人もほとんどいないので、ほぼこの生活リズムができあがっている。
もちろん僕の場合は、お酒の交流も多いのでなかなか仕事と家とを往復するわけには行かない。だいたい週に1日以上は友人と一緒に会ってごはんを食べたりお酒を飲んだりすることがある。(これでも減った方ですが・・)
しかし僕の考える平凡な生活というのは、おそらく究極的に閉鎖されているような気がする。それが実現できるかはまったく分からないが、友人関係はかなり限定的になり、お酒も限られた場所で楽しむ。
そこまで実現できれば、ほぼ理想だ。
まだ若かった頃、そして独り身だったとき、変化と刺激はとても重要であった。それは端的に表現すれば、恋愛の可能性があったから。もちろん変化や刺激のすべてが恋愛ではないが、自分が渇望していたのは、まさに恋愛の刺激と変化だった。
今となっては、仕事も恋愛も落ち着いているので、変化のない毎日を望んでいる。そして今の状態が、いつまでも、平凡のまま続くのがもっとも幸せなのではないかと考えている。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
※10/9(日) ゲイタンバザールカフェ を行います。
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2011/10/03 考え(自分関連)

先日、突然1日お休みすることにしました。夏期休暇を取得するようにという会社からのアナウンスがあって、別に休まなくてもいいなー。なんて結構本気で思っていたのです。
だからぎりぎりまで、本気で休むことは考えていませんでした。
しかしその週は全体的に週の前半に仕事が集中しており、週末はそんなに忙しくならなかったのです。これは結構現実的になるかも。ということで、それとなくどうやって休日を過ごすか、考えるようになったのです。それが先週の火曜とか水曜日のこと。
休みを取る予定だったのが金曜日。前日の木曜日まで結局仕事が入りませんでした。ということで木曜の夜に各宿泊施設を予約し、天気予報を見てバイクで行くことを決めたのでした。
かねてより書いていることではありますが、僕はかつて旅行が大嫌いでした。東京が大好きだったのです。わざわざどこかに出かけて得られる知見にはあまり興味がありませんでした。参考までに→2011-05-02 旅行に関する考えが変わった日。
そんな僕ですが、さすがに最近は彼との数多くの旅行を経験し、結構旅行もいいものじゃん。って思うようになってきたのです。もちろんお金がかかりますが、それなりに安く済ませる方法も学びました。また国内の旅行で使う金額は社会人から考えれば、そこまで重要な金額ではないと思える気がするようにもなりました。
毎月のように、、、少なくとも2ヶ月に1回は?、、大なり小なりの旅行に行っているので、僕もそろそろ独りで楽しく旅行できるだろうし、してみたい。そのように考えたのです。
今回はバイクで行くことにしました。そのためものすごく遠いところは無理ですが、あまり近いのもなんだか物足りないです。東京からの距離がおよそ200kmぐらいが一つの目安でした。ちなみに200kmだと4時間ぐらいあれば、十分に目的地に着く距離です。休憩やら高速道路以外の道を走ると、おおむねそのぐらいの時間配分になります。
行ったことのない場所で、改めて電車で行くのはなんだかちょっとなぁと思うような場所。そこで今回は浜名湖に行ってきました。

一人でできるもん!ということで、自分で宿泊施設を予約し、目的地や寄る場所を決め、食べるものなどを自分で計画したのはおそらく初めてのことかもしれません。もちろん簡単な観光や、仕事で宿泊施設の予約や、行動を自分で決定することはよくあります。しかし純粋に楽しむためだけのこういうことはかなり珍しいことでした。
結果として、バイクで走るのはやっぱり楽しいことを実感しました。バイクで走っていると途中で色々と観光地などが見つかるので、急に寄ったりすることができます。また山を走れば、車がすれ違うことができないような細い道をスイスイとストレス無く走ることもできます。景色もきれいですし。
結果としてやはり楽しい旅行ではありました。

しかしそのような考えとは裏腹に、物足りなさもありました。それはやっぱり彼がいないと、何となくいつもと違うってことです。どこか見知らぬ土地に行くときには常に彼と一緒でした。一人で初めて訪れる場所は、当然期待とともに、言いようのない不安というのもあります。しかしそんなとき(彼である必要は無いかもしれませんが) 複数名いるというのは、とても心強いモノです。吊り橋効果なのかもしれません。
今までそういう、新しい場所の複雑な気持ちになったとき、彼と一緒だったので一人だという不安はありませんでした。しかし今回は、少ないとは言え一人の不安が何回かありました。例えばそれは細い山道を走ることだったり、初めての道を走ることだったりでしょうか。相対的に食事はあまり気にならなかったように思います。
やはり旅行は一人よりも一緒の方が楽しいですね!という話でした。
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2011/09/28 考え(自分関連)

ゲイタンバーでは、自分から色々な人に声をかけました。そしてたくさんの人が来ていただきました。
このとき、僕は顔と名前が一致しないことも多く、数多くの失礼な言動があったかもしれません。
しかしその理由もあるのです。
例えば僕の場合、Twitterでの名前は「かお。」としています。ブログやTwitterを通じての人であれば、この名前はある程度浸透しているのではないでしょうか。
またこのブログや twitter アカウントも kaokaohihi としており、一応かお。という名前に近いものを設定しています。しかし実際にはそうじゃない人も多いのです。
例えばかお。という名前で活動していながら、当日は「かずき」とかだったりするのです。すると、どういうつながりで参加されたのか、全く分からないのです。そしてかおさんに誘われました。そのように言われても僕は???となってしまうのです。
名札に Twitter のアカウント名を書いてくださる方が多くいました。名前を聞いても??ですが、Twitter のアカウント名を見ると一目瞭然です。「えーーーー!まじっすか」ということが僕にはとても多くありました。
僕は記憶力が非常に悪く、そしてそれは、加齢とともにますますひどくなってしまいました。何かを短期的に覚えておくことが非常に苦手なのです。そしてそれは、ひょっとしたら病的なほどなのかもしれません。
だからもし1度会ったことがあっても、次に会ったときには???ということは非常によくあります。何か会話を交わしていれば、それがきっかけで覚えられることはありますが、僕の会話は、身のない会話であることが非常に多く、やっぱり覚えられないことも多いのです。
さて、話は変わって。
以前大阪のゲイタンに参加したとき、Twitterのアカウントを持っていないという人がいました。何かで交流が生まれたとき、それを維持するのは、意識をしていないととても難しいことだと思っています。特に僕の場合は、メール無精ですし、そのほかの連絡も無精なので、すぐに疎遠になってしまいます。
そんなとき、僕の場合はブログがあります。ブログを続けていれば、それは一方通行になってしまうかもしれませんが、少なくとも僕自身の今の状態を表明することができます。
しかしブログでは更新頻度や、それへの取り組み方など、負担が大きいのも事実です。そこでTwitterがちょうどいいと考えています。毎日少しずつつぶやいたり、場合によっては知り合いのつぶやきに反応することによって、ゆるいつながりを維持することができます。
と、たぶんそのアカウントを持っていない人に、そのような話をしたんだと思います。そしてその方は、それをきっかけとして、Twitterのアカウントを作ってくれました。慣れない最初のうちは、確かに「一人寂しくつぶやく」ようなことに、結果的になってしまうかもしれません。しかし、フォローの増減や慣れに応じて、どんどん交流が広がるのではないかと思っています。
しかし僕は、その方にTwitterに関する意見を述べたことを、全く覚えていませんでした。別な形で再会したとき、僕に挨拶をされても、僕は??だったのです。確かにアカウントを作成するように意見しておきながらのこれは大変失礼な話だと思います。しかし分からないのだから仕方ありません。
が、当然Twitterでのやりとりもしていましたし、メールもいただいていました。
そう。要するに、この方も活動の時の名前とTwitterアカウントが違ったのです。最初からメール等でやりとりしていた名前を言ってくれれば・・・と、僕は心の中でつぶやきました。
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2011/09/19 考え(自分関連)

家に帰ると落ち着く。家が一番。そのように言えるのはとても幸せなことだと思う。僕はこの自分の居場所というのがどうにも確立出来ていないように感じている。もちろんそれが不幸だとか寂しいことだとは全然思っていない。むしろそれが自然なのではないかと。
なぜ自分の居場所がないのか。
それは僕自身が色々な場所を点々としているからだと思う。自分の家で寝るのは週に2-3回ぐらい。あとは彼の家か実家に帰っている。そのため、頻度としては、自分の家で寝るとの彼の家で寝る回数はほぼ同じである。それもあって自分の家は、自分の家では無いようにも感じる。
次に部屋の雰囲気。僕の部屋には何も無い。ラグがしいてあるぐらいである。彼の家はコタツがあったり、ベッドがあったりして生活感がある。僕は殺風景なのが気に入っているが、落ち着く雰囲気ではまったくない。
過ごす時間もそう。僕は家に帰る時は、食事を作って寝るだけなので仕事を遅くまでやっている。23時ごろに家につくことも多く、家で過ごす時間は9時間ぐらいになってしまう。一方で彼の家に行く場合には、少しは早く帰ることを意識するので、11-12時間は過ごすことができる。
実家の場合。僕の生活スタイルと家族のスタイルは全く違う。家族はある程度散らかっている状態やモノが多い状態を気にしない。僕も人のそれは気にならないが、自分に影響が出てくるとすごく気になる。よくある例だが、自分の部屋が物置になっていたり。いつのまにか知らないものが増えていたり。そうやってかつての僕の部屋はまるで僕の部屋では無くなってしまった。
肉体的な事をいうと、一番寝られるのがやはり自分の家、次に彼のところ。そして実家。ももはや実家はくつろぎの場所ではない。だから週に1回ぐらいがちょうど良くて、正月などでも1日もいたらもういやぁってなるのです。
しかしそんなことだから、逆に一つの場所にずっといることになったら、、、例えばそれは彼と一緒に住んだら、、、そうなるとひょっとしたら、逆に僕はストレスを感じるようになってしまうのかもしれない。
住環境というのは、とても大切な事だと思う。
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※9/24 ゲイタンバー を行います。
※10/9 ゲイタンバザールカフェ を行います。
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2011/09/08 考え(自分関連)

前回の記事では、「食べさせる」という好意にはトキメキがあるという話を書いた。そしてそれは自然な流れ、勢いのある流れの中で行われていることが前提である。
カップルがよくやるような、「はい。あーん」というシチュエーションは僕はとても苦手である。
当たり前だけど、食事は自分で食べた方が手間もないしおいしい。わざわざ他の人に口元まで食事を運んでもらうのは、なんだか抵抗がある。
僕は自分でできる行為の、一部でも他の人にされるのが苦手のようである。
例えば “姫” として、お風呂上がりには身体を恋人に拭いてもらうという話を聞いたことがある。これは、姫としての扱いをうけることがうれしいからそうしているのかもしれないし、甘えということが両者にとってうれしいのかもしれない。確かに僕も、身体拭いて欲しいって甘えられたら、しょうがないなー。なんて言いながら案外喜んで拭いてあげたりするかも。
あほくさいかもしれないけど、いいんです。うれしいんだから。
しかし、じゃあ僕が同じことをしてほしいか。僕は絶対イヤだ。まあ確かに僕の場合、風呂上がりに身体を拭くのがかなり甘いので、「ほら背中がまだ濡れてるよ」などといって、相手が拭いてくれることはよくある。・・・ちなみにこれは恋人に限らず、友人でも見かねて拭いてくれることもマレにあるのですが・・。
このぐらいならともかく、相手がもし全身を拭いてくれたりとか。ちょっと苦手に感じるんじゃないか。
食事の時に、口元がちょっと汚れた場合、相手から指摘を受けることは問題無い。だけど、「ほら。拭いてあげる」といって口元を拭かれたら。これもやっぱり苦手に感じるかもしれない。
やっぱり僕は色々めんどくさいんだけど、たぶん恥ずかしいんだと思う。申し訳ないっていう気持ちもあるのかな??
そして、意図せざる形でそういうシチュエーションになってしまった場合。例えば食べさせてあげるっていうことで、やみくもに断ることがかえって失礼になるというか、場の空気を乱すことになるような場合。「俺は介護が必要なんですいません。」
そういって毎回ごまかしている。
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※9/24 ゲイタンバー を行います。
※10/9 ゲイタンバザールカフェ を行います。
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2011/09/02 考え(自分関連)

僕のことを書こう。先日のゲイタンを通して、このブログの読者に多少の変化があったかもしれない。今まで、書き手としての僕は読者を具体的に意識することはなく、僕自身の気持ちを全面に押し出していた。
もちろんこれからも、顔が思い浮かぶ読者とともに、顔の思い浮かばない大多数も今まで通り楽しんでもらえるようにがんばっていきたい。
今回、Times Online Sociology: Entry 015 G-noveau2011 in Osaka(後編)というブログの記事を受けて。
たくさん色々なことが書いてあるが、僕はその中で「人見知り」という部分を取り上げたいと思う。
僕も人見知り。と書くと、僕のことを知っている人は、また大げさに書いていると言われてしまう。そう。僕自身は誰かとある程度の時間をコミュニケーションを取りながら過ごすことは全く問題がないし、それは他人から見たときに、非常に楽しそうに見えるし、楽しんでいるように見えるハズ。
若干、もしくはそれ以上に僕の会話の方法は強引なこともあるので、そういうスタイルのコミュニケーションを苦手とする人は多いと思う。
僕自身は、こういうことを書くと理解いただけない可能性もあるが、非常に会話が苦痛である。きらいである。苦手である。多少それができるからまた問題でもある。もし見知らぬ人たちと会話をして、その場で仲良くなったとする。確かに最初の緊張とは違い、後半ではだいぶリラックスできるようになる。
しかし自宅に帰ってから、どっと疲れが出てくるのである。ひどいときには、またこういったコミュニケーションが続いた場合、ひどいときには熱が出て頭痛がするときもある。
これはもう僕の性格だと考えている。
その理由は、単純に怖いというのがある。色々な人からの意見を聞けるとき、それはとても有意義である。もちろん僕自身とはまったく意見が違う場合もある。そして考え方が違うことは僕の場合は非常に多い。
諭すようにしゃべる人もいれば、意見を述べるだけにとどまる人もいる。経験から述べる人もいれば、理想を述べる人も。厳しい意見もあるだろうし、賛同してもらえる場合もある。そのどのような手法・内容だったとしても、非常におもしろいことだと思う。
僕自身も同様に、様々な意見を述べる。それはもうこのブログに書いている通りでもある。
このとき、お互いの認識が一緒であれば問題無いし、ほとんどの場合がそうである。意見という意味では、何を述べてもいいし問題は無いはずである。しかしそのようにしていると、意見と人格が同一としてとらえられてしまうことも多くあります。もちろんそのほとんどが、同一なのは事実ですが、必ずしも持っている意見と、それに伴う行動が一致していることはないだろうし、意見は誇張されている可能性だってある。
もちろん誤解を与えないような、静かな意見を自身が述べればいいのだろうが、やっぱりそんなことはできない。それは性格の部分だと思う。
すると、僕が会話を始めるそばから誤解が生じる可能性がある。そしてそれは、もうずっと前からそうであった。いまだにそうである。
でも僕は自分のそれでもいいと考えている。だって今までだったらそんな「性格だからいつまでも一人なんだよ」なんて言われたら本当にその通りだった。でもいまはこんな性格でも恋人がいるんだからいーじゃん。っていうよりも、この性格のおかげで見つけられたんだと考えるようにしている。そう考えたら、こんな性格でもいいじゃないかと。
ちなみに参考で挙げたタツヤさん。その数日後の記事で、頻繁に訪問者がいたという記事が書いてあった。ううんどこが人見知りなんでしょうか。不思議です。
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2011/08/30 考え(自分関連)

ゲイタンヌーボーが行われました。
BBQを行い、記録的なゲリラ豪雨に見舞われ、水鉄砲を使いスイカ割りを行って、楽しい1日を過ごしました。
その中でとても驚くことがありました。
一つは、僕に直接話しかけてきてくれた人がいること。僕はブログをこうして書いていますが、その話題の数々は、決していろいろな人に受け入れられるような話を書いていません。どちらかと言えば、自身がこれからの30代を迎えるに当たって、なるべく有意義となるように、より思慮深くなれるようにという気持ちから20代の経験をまとめるように書いてきました。(このことは他の記事でも書いていますので重複していましますが・・)
だから今まで特にゲイタンを通してもそうですし、ブログを通じて知り合った方でも、ブログの文章から得られる印象と、僕自身の印象は大きく異なり、そしてそのギャップを、(良くも悪くも)乗り越えていただくことが最初のステップとなっています。
読者の方も、ブログを通じて知り合っていることが非常に多く、会ったときには、改めて読んでいることをアピールするのも、僕自身がブログを書いていることを主張するのも変な話です。
もちろんブログが中心ではない、何かの会で知り合った方の場合、その方が僕のブログを知っている可能性というのは非常に低いのが現実ですし、事実です。
そんな中で「かおさん。いつもブログ読んでます」といって話しかけてくれる人がおり、そしていくかの記事についての感想を言ってくれました。僕にはこれが大変驚きました。もちろん同様のことは今までにも何度か合ったと思いますし、都度そのたびに驚いていました。
しかし最近は、ブログを書き始めた頃とは違い、やや記事の濃度が薄くなっているような気もしていて、その中でのことだったので、驚いたというのが一つ。
さらに、今回のゲイタンヌーボの参加者で読んでくれる人がいるんだー。。。っていう不思議な感覚でもありました。
またとてもうれしいことに、僕のブログの記事をとても丁寧に読まれていて、尊敬やあこがれという表現が適切ではないかもしれませんが、なんというかそういう姿勢で話しかけてきていただいたというのは、とても驚きで、うれしいことでもありました。
他の方との会話の中でもびっくりしました。
僕はゲイタンの終わった日、ゲイタンで手配していただいた宿にみんなで泊まりました。このときもちろんまだ酔っていたのもあるのですが、Twitterの記事を書きました。(支離滅裂であるという指摘を受けました<もちろん自覚もありますが・・>ので、近日中に書き直します) を書いていたとき、「ブログやっているんですか?」という質問を受けたのです。この記事の最初にも述べたようにぼくは「かお。」ということで自己紹介はしていましたが、ブログのことは特に何も言っていませんでした。その中で「なんて言うタイトルですか?」という質問で「過去の日常です」と答えたところ「マジですか!知ってる!」という流れだったのです。
読んでもらっているというのを直接自覚できるというのは、とてもうれしいことだというのに気づきました。
書き始めた頃から僕は一貫して、「自分勝手」を重視してきました。コメントはあってもいいしなくてもいい。読んでくれる方はいてもいいし、いなくてもいい。もちろんいてくれればうれしい。そのようなスタンスだったのです。もちろんそれは今でも継続して考えていることは事実です。が、そうやって直接自覚できるのは、ただうれしいだけでなく、とてもうれしいということに改めて気づきました。
だからもし、皆さんが僕以外でもブログを書いている方とお会いするときは、ぜひ積極的にブログのことを話題に出してあげるといいかもしれません。
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2011/08/28 考え(自分関連)

Twitterでつぶやくことがないという話を聞いたことがある。それは非常によくわかる話でもある。日々変化など無いし、いわゆるくだらないことをつぶやくことに、あまり積極的になれないというのも非常によくわかる。
じゃあ。
くだらなくない日々・・・楽しいイベントに参加しているときにはつぶやく量は多くなるのだろうか。もしくは楽しいイベントに参加したあと、たとえば翌日とか、みんなと別れてからとか。に、つぶやく量は増えるのだろうか。
確かにTwitterを見ているといくつかのパターンがあるように思う。
今日は○○の日!とつぶやくことから始まって。電車に乗ったとか、合流したとか、これからどこに行くとか、○○さんが○○してるとか。そういういわゆる現在をつぶやくことはある。
ここで思うことがある。何もない日々につぶやくつぶやきが、くだらないことならば、何かがあった日につぶやくのは結局何かが合った日につぶやくくだらないことなのではないかと。
結局くだらないことを、常につぶやいているのだとしたら、僕は何もない日のくだらないつぶやきを見ていたい。
僕自身の話。
僕は確かに毎日くだらないことをつぶやいている。しんどいとかっているネガティブなこともあれば、これから外出とか、今日もがんばったから帰る!とか。もう誰かに指摘されるまでもなくくだらないことをつぶやいている。
そして何かのイベントの日。僕はまったくつぶやかないのである。楽しいからつぶやかないとかって言うと、色々と誤解を生みそうなのでそうは言わない。
だけど、何かをしている時はあまりつぶやこうとは思わない。
特に僕の場合、これから○○してきます的なつぶやきはどうにも抵抗意識を持ってしまうぐらい。
みんなでくだらないことをつぶやいて、一緒に楽しみませんか。
※驚くことにTwitterのアカウントを持っていない人がいる。そんなもったいない。ぜひアカウントを作って僕のことをフォローしてね!
2011/08/24 考え(自分関連)

何かのタイミングで、「昔遊んでたでしょ?」と聞かれることがある。なにもそれはこちらの世界に限らず、プライベートでも言われることがある。「遊んでそう」と。
僕のどのような部分を見てそのように言われるのか全然よくわからない。
まず「遊んでいた」という部分はいい意味なのか悪い意味なのか。よくありがちな、ナンパな感じを指しているのだろうか。もしくは積極的にいろいろな人とコミュニケーションを取りながら楽しく過ごしていることを指すのか。
もし僕自身に、そのように楽しく過ごしていた自覚が少しでもあるならば、遊んでいたといわれて、何らかの反応を返せると思う。しかし僕自身はそのような自覚が全くなく、遊んでいたと言われると、どのように返答していいのか困ってしまうのである。
たとえばいろいろな人と知り合って、場合によっては性的な関係を結ぶことをゴールとして積極的に交流していたのか。もちろんそんなことは無かった。もともと性格的にそんなことは(したいと思っても)できない。それは容姿も関係あるし、性格も関係ある。だいたい僕はコミュニケーションが苦手だし。
おそらく遊んでいるような印象を与えてしまうのは、僕の会話の方法にあるのだと思う。僕は会話の内容は本当にいい加減である。言ったそばからそれを忘れるし、言われたそばからそれを忘れる。話題も転々とするし。
どんな話を聞いてもそれなりに反応できるので、ある程度の時間であれば、なんの問題も無くその時間を(場合によっては楽しく)過ごすことができる。
遊んでいる人に共通するような何かがあるのか。僕には正直分からない。だけど、少なくとも遊んでいる人は性的な方向性を最終的なゴールにするのだと思う。
それと僕を比べた場合、確かに僕の場合はゴールに性的なことは無いかもしれない(あるかもしれない)。でもそれ以外の部分においては、遊んでいる人と似ているところもあるのかもしれない。(もちろん僕にはよく分かりませんが)
コミュニケーションが上手という意味で、遊んでいるのだろうという印象を持たれるのであれば、それはうれしいことでもある。僕が苦手だと考えているコミュニケーションが評価されているわけだし。
しかしそうじゃなくて、なんでもとにかく性的なところに結びつけようとする、どん欲な姿勢が遊んでいるという評価につながっているのだとしたら、それはもう心外だし、事実とは大きく異なっている。
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2011/08/17 考え(自分関連)

僕の記事は青臭い理論展開が多いと思います。特にこのブログでは20代の気持ちを残しておきたいので、青臭かったとしても気にしていません。結論が出しにくいことでも一定の結論に持っていくのもその一つです。
そのほうが、将来読み返したときにきっと感じるものがあるはずだと信じています。
さてこのブログで、読者の方から「昔の自分みたい。かつての自分を見ているようだ」というコメントを頂いたことがありました。そして僕はこのコメントがとてもうれしいのです。
そのようなコメントをする方は、少なくとも「(経験の浅かった)昔の自分のようだ」というニュアンスを含めているのだと考えています。それは何も否定的に僕が考えているのではありません。(残念なことに表面しか読んでいただけないと、このように書くとまるで否定しているように受け取られてしまうのですが・・)
ぜひ僕はその方の、「経験を積んだ今の考え」を教えてほしいと考えています。
よく年上の人と話をすると、筋道を教えてくれたり、アドバイスをくれたりするのですが、そう考えるに至った理由を聞くと、大抵の場合それは意味のない言葉で説明されることこがほとんどです。「その時になればわかる」とか、そのような表現をされることが多くあります。
色々な経験を積んだ結果として次のフィールドの考えに昇華されることはよくあります。
例えば料理は顕著じゃないでしょうか。
料理初心者やたまにしか作らない場合、手抜きはしにくいと思います。しかしベテランになれば効果的な手抜きを知っています。だから料理の話をすると、手間のかけ方一つを聞いただけで、その人がベテランなのかそうじゃないのかわかると思います。これを僕は昇華といいたいのです。もちろん手の抜き方はそれぞれあると思います。僕自身がその手の抜き方をマネしないかもしれません。しかしフィールドが一歩上がった人のそういう考え方はとても参考になるのは事実です。
だからこそ僕はそういう、かつての自分のようだという意見を頂ける場合には、「何が」という具体的な表現もセットされていると、とても勉強になるなぁと考えています。
特に、正しい方向に進む為の寄り道であれば、それはすばらしい事だと思います。それこそかつての僕もそのような寄り道をしたと思いますし、また色々な人と話をすると、迷いや葛藤とともに、決して直線ではないにしても、しっかりと前に進んでいるように思えることは良くあります。寄り道自体を否定するものではありません。しかし大きな迂回になりそうなとき、先人や経験者は体験談を語ることによって、大きな迂回を避けられるのではないかと。
逆に、僕が誰かに何かをアドバイスするとき、若干極端であっても、断定的な表現をよく行います。それは「僕の場合は」という前提の元に、意見を述べるからです。そしてそれは、どことなく、ブログのスタンスにも似ているかもしれません。
ただし、僕の悪いところは(そして特に口頭での場合は)相手の意見を否定的にとらえるところだと思います。ブログでは考えをまとめてから書くので、否定的に考えることはほとんどありませんが、その場でだけだと、どうしても理解していない最初は否定的に考えてしまうことがよくあります。
こういうところは直していかなければならない部分だと考えています。
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