過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

「 考え(自分関連) 」 一覧

  2014/08/18    考え(自分関連)

これは過去に書いたかも知れません。(と思って検索してみたけど、それらしいのは見つかりませんでした・・)
かつての友人で、非常にネガティブな人がいました。今はもう連絡を取っていないのでどうなっているのかは分かりません。

会話をしたときには、必ず悪い方向で物事を考えていました。
遊ぶ遊ばないという単純な事もそうですし、ご飯では誰が何を注文するのか。そういうことも気にしていたように思います。

その人と知り合ってから1年後ぐらいに、確か僕は今の恋人とつきあったと思います。
しかしその友人には、僕に恋人ができたことを伝える事ができませんでした。(そのため、その友人は僕の恋人の有無については知らないまま疎遠になりました。)
その友人に僕が恋人ができたという話ができなかった理由というのは、非常に単純ではあるのですが、どのように僕のことを感じるのか、怖い想像しかできないというものです。

友人と知り合って、1年近く遊んでいるのに、その友人とは恋人関係などになる事はありませんでした。しかし別なところで恋人を見つけたとなると、、、その友人はきっと、「なんで僕と友達を続けてるのか。恋人探してるなら、そして僕が恋人の対象にならないのなら、さっさと僕のことを切って、他の人に行って欲しい」そういった理屈になるのです。

僕は恋人関係に発展するのかに関係無く、友人関係として、細々と続けることも当然あると思いますし、ひょっとしたら恋人ととは友人関係のようなことはうまくできないかも知れません。もちろんそれらが重なる場合もあると思いますし、全く重ならない場合もあると思っています。

という、ある意味では単純な理由で、ある意味では当然のことだと考えていました。しかしネガティブな友人にとっては、そうはならないのです。まるで裏切られたかのような、そういった感情が出てきてしまうようです。
もちろん僕は友人に恋人を探しているという話をする場合もありますし、しない場合もあります。それは不誠実をどうのこうの。。。というワケでも無く、誰とどのような話をするのか、それは友人によって偏るのは普通にある事です。

その友人僕と同じぐらいの年齢でした。今はもう30歳は過ぎていると思います。
その後の話というのは全然知りませんが、そのネガティブな発想が変わらなかったとしても、幸せな状態であればいいなーと僕は思っています。
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  2013/06/26    考え(自分関連)

今まで僕は嫉妬心は強くないと思っていました。
というのも、基本的に無関心な僕は相手が何をしていても特に気にしませんし、それを知りたいとか詮索しようとか思ったことがありませんでした。

もちろん携帯を見るようなこともないし、僕が自由でありたいことの引き替えに相手にもそれを提供していました。

そうはいっても嫉妬というのは、状況に関係無くやってきます。そして僕はその嫉妬心が非常に強いことを実感したのです。

例えばカップルを見ると、それがどのような形態であっても。。。例えばうまくいってないような場合だったりとか、僕にはまったく理解できないようなつきあい方だったりとか。そういうことに関係無く、恋人関係の人がいるということで、何とも言えない、うらやましいというような気持ちが芽生えてくるのです。もちろん僕自身の状況は棚に上げながら。

という、まずは僕一人でも起こる嫉妬心。

彼が近くにいれば、嫉妬心はまた強くなります。その顕著な例が、誰とも会話をして欲しくないというものです。
もちろん会話を禁止するほど、僕はマヌケではありません。自由に発言があるべきだし、他者からの質問も自由であるべきです。それは当たり前です。しかし、相手が誰かと積極的に会話している様子を見たら、きっと嫉妬心が芽生えてくると思います。そしてそれは理屈で分かっていても、それを変えることは難しいと考えています。

という、単純でよく起こりうるシチュエーションでそれですから、友人がいればその友人が気になるのは事実ですし、メールアドレスの交換なんて!って思うのも事実です。
ただし、もちろんどれも規制はしません。当たり前です。

別に何が心配とかそういうことではありません。もちろん僕の性格なので、きっと周りからの「なんでかお。さんなの?ホントにいいの?」的な質問を彼は受けることになるでしょう。まあそれはそれで仕方ありません。

嫉妬心の解消は難しいですね。
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  2012/07/18    考え(自分関連)

先日ニートについて、僕の考えを書きました。そしてその理由として、自身がニートであった時期があると書きました。
今まであまりその部分については主張してきませんでしたが、改めて僕の性格の根幹にも関わる事かもしれませんし、書いておきたいと思います。

一番最初にそのような状態になったとき。それは中学生の時でした。学生の時にニート・・・ということはありえないので、単純に不登校でした。2年生のときの1年ぐらいだったかな。

人間関係を形成する、もしくは集団生活という重要で貴重な体験を僕は1年間も得ることができませんでした。また当時は登校拒否と呼ばれ(今では不登校と表現が変わったような記憶があります)
そのきっかけは特になく、もちろんいじめでもありませんでしたし、勉強がついて行けないとかそういうことでもありませんでした。※ただし持病のぜんそくの調子があまりよくなく、他者と行う行動の一つ一つがしんどいっていうのはあったような気がします。それが集団生活のなかで、周りに合わせることを苦痛に感じていたかもしれません。

友人たちも教師もいい人たちばかりでした。もちろん当たり前のように、悩みや不安も人並みにありました。
しかしあるときに僕は学校に行かなくなりました。

当時は今よりもずっとそういう人がめずらしい存在でした。ある程度時代が進むと、例えば保健室登校といったような、教室には通えないけど、学校には行ける、教室ではなく保健室に通うという形態もでてきたようです。
ただ僕には保健室に行けるなら教室いけるじゃん。って思ってしまいますが、案外これが効果的なようです。

中学生の時のこれは、僕にとってとても大きな不安でした。特に将来に対しては、ほとんど絶望を感じていました。中学のその時点での大きな挫折は、例えば高校受験がうまくいかないことをほぼ確実に暗示しているように思いますし、中卒での労働なんて現実的だとは思えません。
そして集団生活は切り離すことができず、それがうまくできないと知った僕は、就職という道も絶望であれば、進学も絶望でした。
※ただ不思議なのは、「何も手につかない」というウツ的な状態にはならなかったような気がします。また、もし当時に、今と同じようにインターネットがあったら、僕は今のような状態にはたぶんなってないでしょうね。

それもあって、未だにヒマというか何もすることが無い状態というのはある種の恐怖を感じます。仕事でも趣味でもなんでもいいので何かに時間を使えるというのは、とても大切な事です。

というのが最初のニート。

次が、社会人数年目のことです。厳密にはニートと違いますが、僕は元々から起業したいと思っていました。そして大学を卒業して数年間働いた会社を辞めたのです。

辞めてからすぐに起業の準備にとりかかり、実際に起業しました。自分で会社を経営していたのは、1年半ぐらいですが、このとき最初の半年ぐらいは、ほぼニートのような状態でした。幸いなことに友人関係にも恵まれ、事務所などを格安で借りることができました。だから引きこもるような状態や、ニートなどとは厳密には違うと思います。

しかし僕としては、先の見えないそのような状態は、精神的にはあまり区別がつかないように思います。少なくとも僕はそう思っていました。
※ちなみに会社は、売却先が見つかったので特に問題無く終わりにすることができました。

日々色々と忙しくしていたり、友人関係の交流を行っていました。充実はもちろんしていましたが、会社や将来に対する不安というのは、当然のように大きくあり、それらは無視できないほど大きな物でした。

僕にとってとても重要な事は、日々がヒマなのか忙しいのか、ということではなくて、将来に対して、、、それは近い将来のことでも、遠い将来のことでも、、、ある程度見通しがつくかどうか。というのはとても大きなことです。

たとえ忙しい状態だとしても、将来に対する展望が見いだせない場合にはモチベーションが維持できません。
一方である程度将来に対する展望が見いだせても、楽しいことができていないとそれもまたモチベーションの低下にもつながっています。それらのバランスはとても難しい事だと思っています。

しかしただ一つ言えるのは、行動しながら模索しながらのそれと、何もせずに悩むだけのそれとでは、だいぶ違うことです。少なくとも色々な事を模索できるというのは、脱出する可能性があります。しかしこの模索のための第一歩が相当に大きな壁となるのも事実です。

だから僕は、無理はするべきではないと思いつつ、だけど現状は必ず打破しなければならない。そしてそれは、本人が最初に振り絞る大きな勇気しかないと思っています。だからこそ厳しいこと言うのも応援することも僕はおこがましいと思いつつも、つい口に出てしまうのです。
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  2012/07/04    考え(自分関連)

僕は様々なことについて、配慮の無い言動が目立つ。と、自分でそれを認識していても全く免責されるわけでもなく、それについては申し訳ないと思うことが多々ある。まあ性格というか、思ったことは口に出してしまうので仕方が無い事でもありますが。

さて、そういう配慮の無い僕だけど、ニート(アルバイトなども含め何もしていない状態)についてのいくつもの言動は、さらに配慮が無い。働かないの?このままのつもり?お金はどうしてるの?といった、おそらくそのようなことは触れずにおくのが、大人としての礼儀かもしれないし、本人がその状態について、どのように考えているにせよ、僕がそれをずけずけと聞くのが正しいことでは無いというのは十分に分かっている。

しかし、僕はそれについて、たとえ配慮の無い発言だと思われたとしてもそれについて、かなり突っ込んだ発言をするし、それをする資格も責任もあるのではないかと考えている。
そう思う理由は単純でただ一つ。僕自身もかつてそういう時期があって、かなり悲観していたからである。

今ほどニートなどの存在を社会が受け入れなかったときにもそういう人たちは存在した。ぎりぎりフリーターとかプーという表現で、ある程度限られた、ある意味では特異な存在であった。アルバイトだけで生計を立てることが難しいだろうことは、みんながわかっているけどそれから脱することなどは難しいことも事実であった。
唯一それらが肯定的にとらえられた時は、おそらくバブル経済の時では無いだろうか。あのときは完全に労働者優位で、くだらない企業に就職するぐらいであれば、アルバイトをしながら希望する企業に就職することが可能であったし、そう思える時代でもあった。

おそらく誰しもが、順調に人生を歩むことなどは難しい。例えば僕もそうだし僕の付き合っている彼もそう。幼少期から、知り合うまでの人生の事を聞けば、きっと話すのも辛いような、過酷な時期やそのように思う出来事というのは誰にだってあるだろう。

もちろん辛いだけじゃ無くて楽しいことも無尽にあるはずだからそれらだけに焦点を持つのも変な話だとは思うけども・・。

今のニートを自称する人たちは、ある意味で自由でうらやましい。
社会もそれを昔よりは受け入れているし、僕もそういうことは全然気にしない。だけど何となく自身の経験からも考えると、それで大丈夫なのだろうか、と。そしてもし自分に何かできることがあるなら手助けをしたいと、本気でそのようにも考えている。それがもし自分が配慮の無いいくつかの言葉を投げかけることが必要ならばそれもまた仕方が無いだろう。それらから避けて通ることもできないわけだし。

ただしニートの状態にもいくつかって、コミュニケーションがそもそも苦手という場合と、仕事はしたいけどあんまりいいのが見つからないとか、飽きっぽいとか。
コミュニケーションの場合は、結構深刻だと思うし、そういう人は働くことよりももっと先にしなければならないことがある。順番を守ってゆっくり解決していくことが必要だろう。
コミュニケーションが苦手な人は、この解決の順番を間違えると、それがまた挫折の体験に結びつくような気がするので、これは非常にデリケートな事だと思っています。

ということで、一緒にがんばりましょう。
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※そういえば僕がどういうニートだったのか書いてなかった。またの機会に。

  2012/06/14    考え(自分関連)

未成年のとき、精神年齢と実年齢の関係で、実際の年齢よりも精神はもう少し先を行っていた気がする。18歳ぐらいのときは、社会的に認知されている未成年というくくりなんだけど、実際には20代と発想や考え方は大きく違わなかった。唯一経験の量だけが僕を未成年としていた。

20代の前半になると精神的な年齢と実際の年齢がかなり一致していたようにも思う。すべてが充実し、チカラみなぎっていた。

そして徐々に、25を超えた当たりからだろうか。精神年齢はその当たりで足踏みを始めたように思う。そして実年齢はどんどんと進む。
この差はどんどんと広がるばかりのように思える。

何を持って精神年齢とするのか。それについては色々あると思う。まだまだ若い!などと言うことではなく、色々な考え方がそれ以上にはならないように思えて仕方が無い。
例えば若かりし頃、他人の様々な表現や行動にイライラしている時期があった。それは僕自身に限らず、おそらく男性には比較的多い時期なのでは無いだろうか。それが露骨に他者に向けられれば反抗期とかそのような表現になるかもしれない。

ある程度の経験とともに、様々な考え方や行動を受け入れられるようになって、相対的にイライラすることは少なくなる。そのように落ち着くのは、10代後半から20代前半ぐらいだろう。

友人に話を聞いても、僕と年齢差がある場合、僕と知り合ったぐらいの年齢に友人がなった。例えば相手が20歳、僕が25歳で知り合ったとする。その5年後は、相手が25歳で僕が30歳だ。

このとき、20歳の友人からみれば、25歳の僕はずいぶんと大人だと思っただろう。場合によってはおっさんだと思っていたかもしれない。確かにこの5歳の差は大きくて、学生になったばかりなのと、社会人を何年かしている。という違いがある。生活様式の違いは、態度にも表れるだろう。

しかしじゃあその友人に話を聞いたときのこと。「25歳になって、俺と知り合ったときの俺の年齢だけど、当時俺に抱いていた考えと、実際に自分がその年齢になってみてどお?」と。

友人は「全然当時のまんま」と言っていた。僕自身も非常によく分かる。当時20代の考えのまま今を迎えているわけだし。

しかし肉体とともに、しっかりとした加齢をしていくのは僕にとってとても重要である。肉体的な年齢については、だいぶこのブログを書き始めた頃よりも受け入れることができ、また立ち位置なども把握できるようになりつつある。
しかし今度は精神的なそれが立ちはだかってきた。

精神はなんだかずいぶんと遅れているようなきがしてならない。昔のようなミスは相変わらずだし、年齢や経験を重ねることによって成熟しているようにも思えない。さらに困ったことに、それが今後改善されるのかも自身が無い。

今後はこのことについて、もっと考えていかねばならないと今の僕は考えている。
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  2012/03/26    考え(自分関連)

僕は占いを今まで一度もしてもらったことがありません。かつて、「手相は簡単に見てもらえるし、駅前にも見てくれる人がたくさんいるから、一度見てもらったらおもしろいよ。」そのような事を言われて、確かに手相は500円ぐらいで見てもらうことができるので、一度・・・とは思ったことがあります。
しかし結局僕は今まで一度も占いをやったことはありません。

おみくじもやはり僕は引きません。大中小(吉)などの全般的な方向性とともに、健康や金銭ついて詳細な解説が書いてあります。しかし僕はそのアドバイスに従うべきなのか、そうじゃないのか。いまいち分かりません。そしてそのおみくじに数百円を使うのはやっぱり・・・という考えが出てきてしまうのです。

が、話しのネタとして、他の人たちが結果に一喜一憂しているのは、とてもおもしろい事だと思います。
金銭・恋愛・健康については話題になることが多く、恋愛は成就が難しいこの業界において、それぞれのコメントを聞くことができます。

占いの中でも、おみくじはかなりライトなので、とりあえずは遊びの延長線かもしれません。しかし好きな人、信じる人は○○の母というような方にかなりの金額とともに占ってもらうことがあります。

深刻な相談事もあるかもしれませんし、軽い気持ちのちょっとした延長なのかもしれません。特に仕事や恋愛について占ってもらうという話を聞いたことがあります。

「○○さんは○○だから」(例えば、かお。さんはすごく几帳面だけどずぼらなところがあるから・・・みたいな感じ)という分析について、これは何の意味があるのか正直よくわかりません。当たっている事を示すためなのか、他のアドバイスにつなげるためなのか、本人が気づいていないと思っているのか、改めて強調するためなのか。

おそらく、現状分析とともに将来起こりうる事を示し、問題がある場合には回避するために努力を促すのでしょうし、順調であれば、そのままがんばるって事を意識しておけばいいのだと思います。

で、そう考えると結局自分の努力の結果が将来につながっているわけで、占いをどのように生かしていけばいいのやら・・・という、なんだかループしちゃいます。
あなたは33歳ごろに大きな試練にぶつかる・・・なんて結果が出たらそれもまた怖いですしね。

そうはいっても、いずれは一度でいいから占いを体験してみたいと考えています。
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  2012/03/19    考え(自分関連)

どうやって生きるのか、という生について考えることが重要であるように、どうやって死ぬのか。という死、もしくは最期を考える事も重要だと考えています。
しかし、生きていく方法を考えることは、様々な可能性があり、それを試すことも何度となくできるに対し、死について考えても、それを実践するのは、ただ1回という事になります。

僕の性格上、ポジティブなことは積極的に考えますが、消極的に思える死については、あまり考えることはありません。どうやって生きたのかという集大成が、死なのかもしれませんし、さすがに死の場合に関してだけは、結果よりも過程が重要なのかもしれません。

一人で死にたくないという事を聞きました。これは僕自身の中で2つの可能性がありました。一つはゲイとして、夫婦関係が結べない事による一人でいることの不安。これは制度上のことかもしれません。
もう一つは、結婚制度があったとしても、単純に一人で死ぬ事への不安。

制度としての不安、例えば男女の恋愛であっても、最後まで一人(独身)ということは十分に考えられます。また気になるのは、結婚していてもどちらかが必ず先に亡くなるわけですから、残された方は一人という事にならないのでしょうか。もちろん子供がいれば話しは違う可能性があります。

僕の環境では、いわゆる本当の意味での一人での死というのはありません。だって、僕が知っている時点で、その人は孤独じゃないでしょうし。まだ死期が近い年齢の友人もほとんどいません。
例えば祖父が亡くなったとき、自宅で一人でした。ほぼ毎日のように誰かが訪ねていたのですぐに死んだことについて気づきましたが、最後は一人でした。これは「一人で死にたくない」の定義に当てはまるでしょうか。

制度として結婚が存在しないので、恋愛は常に自由で、結果的に一人身になる可能性が高いという場合の一人での死というのは、ちょっと特殊です。
その場合の家族というのは、自分と恋人の2人のみになります。だから残された一人は、子供や孫に囲まれることもなく、完全に一人になってしまいます。周りには、友人ぐらいかもしれません。親戚づきあいだって、この時代ですから疎遠になっているでしょうし、それが普通の事だと思います。孤独という定義の中ではおそらく子供などの身内がいればセーフでしょうから、ゲイであればもう完全に孤独になってしまいます。

一人での死というのがなぜイヤなのか、僕には正直分からないことが多くあります。
もちろん一人ぼっちでいる事がいいとは全く思っていません。できれば少数であっても気心の知れた仲間は友人が、死の直前まで常に交流できるような、そういう最期が理想の一つのような気もしています。
常に人は一人だ。などと言うことを言うつもりもありませんし、その考え方には若干否定的でもあります。

しかし最期を迎えるに当たって、一人がイヤだということは考えたこともありませんでした。一人で死なないために生をしっかりと生きるということならとてもすばらしいことだと思います。しかしそのために、生きることが消極的になってしまうのであれば、それはちょっとどうなのかなぁとも思ってしまいます。
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  2012/02/21    考え(自分関連)

「他人の恋愛なんてどーでもいいじゃん。」そのような意見を聞いたのです。
僕自身は他人の恋愛の話しはおもしろいことが多いと感じているので、どうでもいいという考え方はとても意外でした。

その恋愛がうまくいっているとか、そうじゃないとか、そんなことはどうでもいい。夫婦げんかは犬も食わないというように、ケンカの話もどうでもいい。そのように考えています。
恋愛の話の醍醐味は、お互いがマジメに考えている結果の意見としての相違をどのように克服しているのか、につきると思っています。。

そこには、お互いがお互いの意見を尊重するために、トンデモ理論が生み出され、それを本人たちが、たとえ納得いかなかったとしても、なんとか折り合いをつけているところが非常に人間くさく。それがおもしろいのではないかと。ちなみに他人のカップルの性的な話は一切興味がありません。

また、そういった考え方の相違は、ある種の滑稽さを含んでいることも多いのです。だからこそ僕はそれらの話に惹かれます。
相手の気を引くための各種のテクニックもおもしろい。そうやるかぁとか、それは裏目に出るだろーと思うようなことも本人たちは大まじめだし、それがうまくいく場合もある。自分にはキツイようなことでも、第三者へのそれはとてもおもしろい。

かつて僕の友人で、帰る頃になると毎回ケンカをするというカップルがいた。そして友人の男性が言うには、「人混みになると泣く」だから涙を見せたいんじゃ無いか。か弱く泣いている弱い自分をアピールしてるのではないかと。そのように言っていた。もちろん事実はわからない。女性の方も友人だったので、そういう話は聞かなかったけれど、少なくとも人前で簡単に泣くような印象の人では無かった。
だから男性の方が話を大げさにしている可能性はあるし、ひょっとしたら泣いている事実も無いのかもしれない。
だけど僕はそれでいい。泣くということが作り話だったとしてもそれはそれでおもしろいし、創作としてのポイントも高い。だから僕はその話を聞いて、一通りのバカげたトークとともに時間を使えればそれでいいと思っています。

好きな人がいる。そのように言う友人がいる。どうやら単純に見た目がすごくタイプの人と会ったらしい。今度は本気だ。今回は違う。そのような今まで繰り返し使われた言葉を今回も聞くことになった。
だけど、明らかに目の輝きが違う。トークの雰囲気が違う。だからきっと今回の人は、相当タイプで、かっこいい人なんだろうと思いました。何も性格で選ぶ必要は無いんだけど、見た目のタイプでここまで態度が違うというのは、残酷でもありますが、その友人の違う一面を見ることができたようで、とても興味深い物がありました。

長く付き合っている人たちの話。やはりこのぐらいになると、すごく安定感があります。この安定感のある話しも僕はとても興味があります。
僕の場合、我慢することができません。すべて指摘してしまう性格ですし、特定の部分においては非常に細かい性格かもしれません。誰もが、他人と一緒に長い時間を過ごすには、ネックとなるような性格を持ち合わせているように思います。

そしてそれを他の人たちはどうやって解消しているのか。とても興味があるのです。これは主婦の人でも、結婚とは関係無く長期で恋愛している人も、共通している回答を得られることが多いように思います。いい意味での無関心だったりとか。我慢だったりとか。尊重だったりとか。そしてだいたいにおいて聞くのは、ちゃんと「好き」だっていうこと。

かつて僕は恋愛の事を表現するのに、登山のようだと思っていました。つきあいはじめるころが山頂で、あとは一緒に下山するだけなのです。そして下山してしまえば、次の山にチャレンジしてしまうという。

しかし長期で恋愛をしている人たちは、必ずしもそうではありませんでした。山頂にとどまっているのかもしれませんし、下山した山に再度チャレンジすることなのかもしれません。とにかく長期で付き合っていても、いつまでもちゃんと好きに思っているというのは、とても不思議な感覚でした。

ちなみに僕の場合でいうと、もちろんある程度長期の恋愛になっていると思いますが、今でもちゃんと相手のことを好きです。何となく、好きと思う時期としばらく放っておいて欲しい(冷めている?)時期が波のように交互に来ている感じがします。

こうして、恋愛の話というのは、たとえそれがうまくいっていても、うまくいっていなくても、長期だとしても短期だとしても、その話しのそれぞれがとても僕には勉強になっています。
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  2012/01/21    考え(自分関連)

恋人の意味を考えたとき、もちろんかけがえが無いことは事実だと思う。しかしかけがえのない、などという抽象的であるいは欺瞞のような表現で済ませるようなことがあってもいいのだろうか。

しかし具体的な表現をしたときに、それはとたんに俗っぽくなってしまい、本当に重要なことのごく一部、もしくはその一部さえも表現できていないのではないかと心配になる。

そして今までの通り、僕にとっての恋人の存在意義というのは、どういうものなのだろうか。僕の考える意義というのは、だいたいにおいて受け入れられることが少ない。

僕の場合、実際的な部分と精神的な部分に分けて考えてもいいと思う。実際的な部分というのは、一人よりも二人の方が楽しいとか、一緒にでかけられる喜びとか、もちろん性的な欲求のこともある。これらについては、友人というある程度代わりになり得る存在があるが、やっぱりそれは完全に置き換えることができない。

精神的なことはもっと大きいように思う。過去にも何度か書いているが、友人はある程度流動的になってしまう。仕事のことや住んでいる場所などの理由で。もちろん交友範囲が変わったり、合う人とか合わない人という存在もあると思うし。
しかし恋人はそういうことが基本的にはない存在。そういう意味では家族にも当てはまるかもしれない。
常に安定的にそばにいる事を期待できるというのは、非常に大きい。そしてそれは、恋愛の期間とともにより深まるように思う。

実際的な部分は、浮気とまではいかなくても、恋人と遊ぶこと以外の選択肢もたまには選びたいと思う一方で、精神的なことは、他の誰かとはならない、なりにくいのではないかと考える。

僕の場合はもう一つある。それは恋人を探すことにかける時間である。
仕事もやりたいし、プライベートな事も大切にしたい。そしてできれば、仕事を優先したい。そう考える僕は、もし恋人がいなかったとすれば、仕事の時間かプライベートの時間をけずって、恋人を探すための活動をしなければならない。もちろん時間をそこに割くだけの意味のある事だとは思う。しかしもし成就するまでに3年かかったとしたら・・・。そのために必要な時間というのは、相当な物になるだろう。

直接的なことや精神的な大きい意義というのは本当に重要だと思う。しかしそれと同じぐらい、そしてより指標として計りやすいからこそ、今いるおかげで、誰かを探すための時間を使わなくていいというのも、忘れてはならないほど大きい。

恋人と切磋琢磨できて、ライバルのような関係も楽しいと聞く。僕はそんな気の置けない人とはたぶんつきあえないだろう。色々な知見を得られることに魅力を感じる場合もあるだろう。しかし僕にはあまりプライベートでの知見は求めない。
そういう部分に意味や魅力を見いだす事も素晴らしいと思う。
好きな部分と意義というのは違うのだろうか。なかなか難しいことでもある。
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  2011/12/30    考え(自分関連)

イヤなことが多い日常。自分の思い通りにならないという意味でイヤなことかもしれないし、なぜ他者から傷つけられるのだろうか。というイヤなことかもしれない。もしくは酔っ払っての失敗とかね!

大多数の人が精神的に弱いし何かを抱えている。それについて例外はない。

心が弱いことを理由に、次の損に関わることをよく見かける。すごくもったいないことだと思う。例えばせっかく両思いになれるような状態なのに、もし「告白して断られたら」ということを気にしているような。
言ってからの失敗を恐れているのである。そして言わなかったことの失敗を忘れている。どちらも後悔する可能性があるのなら、言ってから後悔した方が僕はいいと考えている。

しかし、そうはいっても100回告白して100回断られたら、そりゃあ精神的にもだいぶつらい。その結果として、自分は誰にも好かれないという結論になることは十分に理解できるし、仕方の無いことだとも思う。

ただしそれは間違っているのではないか。1000回しようが1人と長期的にうまくいけばそれでOKだと思う。だから結局、「誰にも好かれない」けど「一人だけ付き合ってくれて、非常にうまくいっている」という結果になれば全く問題無い。

と、そうはいってもどうすれば精神を鍛えられるのだろうか。一つの方法として、宗教という方法があるのかもしれない。
もちろん僕は宗教などまったく信じていないので、僕にとっては現実的ではない。

先人の知恵に学ぶことも多いのかもしれない。勉強が苦手で嫌いな僕にとっては、なかなか難しい。けども長期的に取り組むべき、また取り組むことに十分に値する事柄だとも思っている。

30代になるにあたって、色々な考え方に触れた。そして僕はこのブログを書き始めてから、20代と30代という残酷な違いをさんざん書いてきた。しかし成熟ということが30代にはあるようなので、それについては今後積極的に極められるように努力をしていきたい。

そのための一つとして、精神を鍛えなければならないと、今の僕は考えている。
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