過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

「 考え(ゲイ関連) 」 一覧

  2011/11/23    考え(ゲイ関連)

この記事は、僕が楽しく読んでいる他のブログのことについて若干言及したものになります。あまりいいことを書いてない気がするので、紹介は避けますが、それを念頭においていただければと思います。

僕がアメブロで記事を書いていた頃、アメブロを通じた交流というのがあった。もちろん今でもわずかではあるが、コメントをすることもあるし、相手の記事を更新のたびに読んでいる。

その人は僕たちと同じような年齢差のカップルであった。たぶん僕がブログを読み始めた頃=僕がブログを書き始めた頃につきあい始めたような、そんな印象だったと思う。
その人たちの年齢差はあまり詳細は分からないが、20歳前後の人と30歳ぐらいの人だったと思う。結構な差があったように記憶している。

更新される記事には、毎回彼氏とどこに行っただとか、そういうことが頻繁に書かれており、うらやましく思って読んでいた。
両者の雰囲気は、とてもお似合いという感じであったし、いわゆる続くパターンのカップルのように思えた。

ここ1年ぐらいずーーーっとそういう雰囲気で記事が更新されており、最近もまた記事が更新されたので読んでみると・・・・。

なんと別れたらしいのである。

おそらく色々会ったのだろうが、なんとなく飽きたというようなことが書いてあり、それもまた印象的であった。

僕はとても複雑な気持ちでこの記事を読んだのである。
一つは若い方の心変わりを残酷だと思う気持ち。もう一つは(いい意味で)やっぱり仕方が無いと思う気持ち。

もちろん二人の何を知っている分けではない。そもそも会ったこともないし。ブログに書かれていたことは、すべて楽しかったことのみを切り出している可能性は十分にある。
だからこそ、僕も一方的な感情が生まれる。

1年で区切りをつけるというのは、僕にはなかなかできない決断である。どういうことがあれば、1年前後で別れがくるのか。
心変わりは仕方が無いと思う。というよりも、むしろ必ず通るべき道だと。一途などと言えば聞こえはいいし、それが実現できればすばらしいことだと思う。しかし感情の起伏などをきっかけに、一度環境を改めリセットすることも、特に若いうちには必要だ。(もしそれをある程度の年齢でやるとすれば、それはどうかと思いますが)

年齢差の恋愛というのは、ほとんどのことは克服できるような気がする。考え方だったりとか、肉体的なこととか。しかし年齢特有のこと。例えば仕事に関するスタイルの変化や、若いウチの旺盛な好奇心など。は、直接的に影響を及ぼさないにしても、間接的に、そしてそれは、行動を決定づける一番重要な「心」に影響を及ぼすのではないかと考えている。

しかしどちらにしても、別れはポジティブと考える。だからきっと、次に付き合う人には、付き合わないにしてもフリーだからという理由で知り合える人のなかには、すばらしい出会いがあるのではないかと期待している。
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  2011/11/21    考え(ゲイ関連)

ゲイは小食のようである。正直なところ、あまり友人関係にも、たくさん食べる人は知らない。だけど、とりあえず共通しているのは、みんなやせているということ。

もちろん年齢に応じた体型の変化はあるにしても、極端なのはまだない。自然にそうなのか、努力してそうなのか。プライベートな友人たちはよくわからない。

しかしゲイは見た目とモテは直結している。だから自然のなりゆきでは問題がある。自然にしていたら太るのであれば、それに抵抗するのが、モテの要素を維持し続けるのが、きっとゲイの本質だと僕は考えている。

そしてそういう努力の積み重ねが、実年齢よりも「若い」と言われる秘訣なのではないか。

そして、やっぱり食べないと思う。僕もお酒を飲むときなどは確かにほとんど食べないんだけど、普段の食事は一人前を食べる。しかし何人かの友人たちは、一人前さえも残す人がいる。しかもそれは、ぶりっこなどでは決して無く、本当に少ししか食べないし、少しで満足しているということのようである。

僕は今の食事量だと、油断すると太り始めるようである。だから今よりももっと食事量を減らすが、内容を変えるか、運動を増やさなければならない。だからそうやって、ちょっとしか食べなくて満足できている人を見ると、とてもうらやましい気持がする。
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  2011/11/15    考え(ゲイ関連)

「ねぇかおさん。ちょっと聞いてよ。」そのように始まった会話だった。
このての会話は、悲劇であることが多く、ノロケ話であったら石の一つでも投げつけてやりたいが、悲劇は僕にとって喜劇であることは多い。よほど深刻なそういうことは、まったく望まないし、もちろん気の毒にも思う。

しかし軽いそういうことは、人生を有意義にするためのちょっと苦しいけども、とても重要なことではないかと考えている。

友人の話はこうだった。
1ヶ月ぐらいの期間だけ、単身赴任のような形で仕事をしなければならなくなった。普段は東京に住んでいながら1ヶ月間大阪で働くような。

そして1ヶ月の間に出会いがあり、そして親密な関係になったというのである。当然仕事の終了とともに、地元に戻る必要がでてきた。

そのときに、今までの関係をしっかりとするのか、それとも地元に戻ることをキッカケとして終わりにするのか。相手に判断を迫ったというのである。
そして相手の人は、「遠距離はできない」という判断であった。

– – – –

僕はこの話を聞いたとき、おそらく友人が期待しているような回答はできないと考えた。そしてその考えを伝えた。

もし相手の人の年齢が、20代後半から30代前半であった場合、そのような回答というのは、むしろ責任を持った考えだと僕は考えたのである。僕自身の考えとしては、2つの問題がある。一つは、自分を考えたとき、20代後半というのはある意味で非常に残酷な時期にさしかかっている。その時にチャンスを逃してしまったら、長期的な幸せを築くことが難しいのではないかと。もしくは幸せを築くのに、もっとも適した時期なのではないかと。

そして若い人の場合、若いうちの1年は年齢が過ぎてからの1年と同じではない。もっともっと密度が濃いと考えている。そういう濃い体験ができる時期だと。

その、双方の大切な期間、、、20代後半以降は20代前半までの経験が試されるような意味を持つし、若い人はより充実した時間を過ごして魅力を磨く必要がある。
そういった大切な時間を、遠距離恋愛という形で拘束してしまうのは、非常に厳しいと思ってしまうのである。

それであれば、まだ恋愛に発展していないその状態で、早い内に結論を出すというのは、ある意味で非常に勇気のいることだと思う。
もちろん遠距離で続けるということも可能だろうし、いずれは仕事の関係などで近くに住むことも十分に可能だと思う。しかしそのような将来を語ることがどれほど難しいのかは、おそらくよくご存じのことだ。

– – – –

じゃあ。そういって友人は言う。「じゃあ、最初からこんな親しくならなければいいじゃん」と。
確かにそれは一理ある。遠距離をしない、、、恋愛に発展させないのが責任だとしたら、そもそも、(場合によっては)肉体だけの関係に留めることも責任なのではないかと。

これについて、僕は明確な意見を持たない。ただいえることは、会えるうちは好きなんだってこと。そして会えない状態だったら、心を鬼にして(もちろんそれは付き合いたいという気持ちをを我慢して) 破局させるという事なんだと思う。

もちろんどのような行動が正解だとか、より責任のある行動かなんて、誰にも分からない。そうなんだけど、僕はやっぱりそう考えてしまうという話。

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  2011/11/09    考え(ゲイ関連)

遠距離恋愛について、個人的にはあまりポジティブな感情を持っていない。と、そんなことを書くと、また「うまくいっている例もあるのに、なにまた一方的なことを。」なんて言われてしまいそうだけど。

彼もそこについては、同じように考えているみたい。「遠距離なんて絶対無理」そのように言っていた。(もちろん彼が会話の中で適当に言っていることなので、それがどの程度無理なのかは推し量るしかないのですが)
ちなみに、この発言があると、彼は就職で都内にとどまることが、確率として非常に低く、県外に出ることも十分以上にあり得るので、実際に遠距離になる可能性を考慮するととても心配なのです。

遠距離がうまくいかない可能性をはらむのは、どういうことなのだろうか。僕はネガティブな感情を持ちつつも、何かこれ!といった理由で厳しいという意見を持てていない。

例えば、何をしているか分からない・わかりにくいというのは、一つの考え方としてはあり得る。出会いをしていたり、飲み屋などでの交流を通じてきわどい行動があっても、それには気づきにくい。
活動している場所が近ければ、例えば東京なら新宿とか。そういうことで必ず誰かの目に触れ、それは気づかれることにつながるし、それが抑止になる可能性はある。

誰かと交流したいと思うことも、そもそも近くに恋人がいないからかもしれない。

会いたいと思う時に、会えないということもあると思う。片道で1万かかるような場所だったとき。会いに行くのに数時間かかるとき。会いたい・会わなければというときに、つらいのではないか。

会わない状態の継続というのは、恋愛に対する感情を変えてしまう可能性がある。やっぱり定期的に会うことによって、愛のメーターは変化するのではないか。会わなければ枯渇の危険がある。

そしてなによりも、つらい。会えないのはやっぱりつらいように思う。
その考えが、「じゃあ恋愛を終わりにすれば、この会えないつらさからは解放される」という流れになる可能性は否定できない。

もちろん遠距離が成立している数多くの例もある。だから必ずしも厳しい結果になるとは限らない。限らないんだけど、やっぱり乗り越えるべき壁も多いのではないかと僕は考えてしまうのである。
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  2011/11/06    考え(ゲイ関連)

僕がこうしてブログに書いていることというのは、主に20代前半から中盤に書けて考えたことをまとめて書いている。ここのブログに書いてあることは、少なくとも僕がその時代・年齢の時を生きたときに、大多数の人が同じように経験していることであったと考えている。

しかしそれは今になって振り返ると、必ずしも今の事実とは重ならない部分も多い。それは出会いの方法だったり2丁目と聞いて連想するイメージかもしれない。昔とだいたい同じ、ということがある一方で、昔とはだいぶ違うと思うことも多くなった。

特に僕は、同年代から年下との交流が多く、どうしてもそれを感じる場面は多いのかもしれない。

その中でも、いい方向に進んでいるだろうと思っていることが少なくとも一つある。恋愛の方法である。かつてを語れるほど何も詳しくは無いが、男女の恋愛のように男性同士の恋愛が成立しつつあるように思う。

例えば僕の友人で、先日1年ぐらいの片思いが実って、付き合うようになった人がいる。ちなみに同い年同士の男女の恋愛。
男性と僕は友人で、その男性がおとなしい性格だということを知っている僕としては、その恋愛は、派手なことは無いかもしれないが、無難な恋愛というか、彼ららしい恋愛というのをしていくのだろうと思っていた。それは細く長くというようなイメージ。

普通の恋愛のプロセスをいちいち確認しながら進むような恋愛。例えば初めて手をつなぐとか、初めてキスをするとか。泊まりに来るとか、車で迎えにいったほうがいいのか、とか。もちろんそこには性的な行為も含まれる。

たまにしか話は聞かないが、それでも順調にステップを踏み進んでいる話をしてくれた。

そして。性的なことが終わったとたんに、悪く言えば飽きがきたような。今までの我慢が一つの大きな目標を達成することで虚無になったのかもしれない。とにかくそういう経緯があって、結局その恋愛は終わってしまった。

これがもしゲイの世界でおきたとすれば。(というよりもこれは日常的な光景でもある)、必ずどちらかに味方がつき、あーでもないこーでもない。見る目が無かった。やっぱり身体が目的だ。こっちの世界は尻が軽すぎる。などなどの非難が噴出し、そして僕のような卑屈な意見を持つに至るのである。

もちろんそういう、身体を中心としたつきあいでは無かったと思う。結果的には性的な関係を結ぶことによって、その後が続かなかった事実を見ると、身体が目的だったということも十分に考えられる。しかし友人の話では少なくとも誠意を持って終始付き合っていたのは、他人から見た事実でもある。

ゲイの世界でも、以前に比べるとまだまだ性的な関係が中心になりがちだとは思う。しかしそれは、ひょっとしたら昔に比べると性的なことがオープンになっており、僕の考える身体が中心の世界と若い人が考える身体が中心の世界というのは、異なっている可能性もある。
男女の恋愛において、今の若い人が昔よりもずっと簡単に付き合ったりだとか、別れたりだとかを繰り返している。(ちょっと前からだと幼稚園から彼氏とか彼女って言う存在がいたりするらしいですしね)
すると、当然性に対する考え方は違ってくる。そして僕は若い人からの色々な意見や話を聞くと、少なくとも恋愛に対する考え方や行動の仕方というのは、今までのゲイの世界とはだいぶ異なってきていると、そしてそれは男女の恋愛方法に非常に似てきているのではないかと考えている。
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  2011/11/02    考え(ゲイ関連)

恋人の悪い部分を、どのように考えるのか。そのことについての話。
当然完璧な人は存在しない。もしある時点で完璧だったとしても、その次の瞬間には、勝手にさらなる大きな理想というのが壁として立ちはだかる場合だってある。だから結局完璧にはならないのである。

しかしそうじゃなくても、誰にだって治して欲しいとか、イヤだと思う部分というのはあると思う。それはTVばっかり見ていることかもしれないし、料理が作れないことかもしれない。お金使いが荒いことかもしれないし、飲食店での態度が悪いことかもしれない。お酒のことかもしれないし、浮気かもしれない。

恋人の直して欲しい部分についてどのように考えるのが適切なのだろうか。と、その話について、まず僕はあまり彼に対して直して欲しいと思う部分が無いに等しいので正直理想型というのが分からない。そもそも直して欲しい=直してもらうだから。

しかし彼が僕を見て、きっと直して欲しい部分や悪いと考えている部分というのはあると思う。例えばつきあい始めた直後は、太り始めたことがあったし。相変わらずお酒はよく飲んで失敗もしているし。

恋愛の究極の形になれば、悪い部分も含めて愛すことができるのかもしれない。しかしそれはなかなか難しいと思う。唯一それができるのは、長年一緒にいるときぐらいではないだろうか。
また、悪い部分を悪いまま愛するというのは、お互いにとって残酷な部分だとも思う。細かく指摘していれば、ひょっとしたらそれを直してもらえる可能性もある。もちろん背が低いとかは直しようが無い。だけど、例えば太っているとかそういうのは、がんばって努力すれば克服が可能である。
だけど、ホントはイヤなのに、太っている部分も好き。といってしまえば、それは理想型というよりは妥協型のような気がする。

本人にとってもそう。悪い部分を常に指摘され続けるのは、決して気分のいいものではない。だからあまりしつこいのは問題がある。だけど多少の意見表明はいいだろうし、そのおかげで努力を促すきっかけになるかもしれない。
例えば僕のお酒であれば、飲むことを控えて欲しいということを言われ続ければ、それはきっと、お酒の失敗を防ぐだけではなくて、それに付随する色々なことを防げる可能性もある。例えばお金使いだったり、太ることだったりとか。もちろんすぐに、行動が変わる訳ではないけど、長期的な視野で考えればお互いに真剣に取り組まなければならないことの一つかもしれない。

悪い部分も含めて好きになることが大切だというような発言がある。しかし僕はあくまでそれは、我慢とともに受け入れなければならないだけで、けっしてそこを好きになる必要は無いと思っている。たった一つのダメなところがあるだけで、その恋愛は破局したりしないだろう。だからダメはダメと認識しつつ、そこはお互いの話し合いによって、一緒に取り組んでいけばいいのではないだろうか。

もちろん取り組めることとそうじゃないことがあるので、そこはしっかり区別する必要がある。だけど、ほとんどのそういうことは解決可能な気がする。だから悪いところを含めて愛するのではなくて、一緒に立ち向かいたいと思っている。もちろん立ち向かうことが重要であって、別に結果は出なくてもいい。
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  2011/11/01    考え(ゲイ関連)

確かブログを書き始めた頃、かっこいい人はかっこいい人と恋人同士になる可能性が高いというような話を書いたように思う。(書いてないかな??)

Aランクの人はAランクとくっつくし、BランクはBランクと。あまり直接的なランク分けはご意見をいただくことになるかもしれないが、あくまで主観的なものなので。

ごくまれに、というよりもやはり姿勢としては、Cランクの人はBやAランクと付き合うべく努力するべきだし、Bランクの人もそう。ただし男女の恋愛においては美女と野獣という表現があるが、男性の場合にはそれがホントに少ない。Cランクの人がBやAランクの人と恋愛をするのはなかなか難しいのである。ちなみに容姿だけでのランク分けだとそうなるので、だからCランクの人は、肉体を鍛えたりして容姿以外のアピールポイントを作る。しかしBランクもAランクも人によっては容姿にプラスして肉体を鍛えている場合もあるからすごいことだと思う。

しかし千差万別なこの世界。必ずしもそうじゃない場合もある。ブサイクな人がランクを落として恋人を作ろうとするのはよく分かるが、決してランクを落とす必要も無いような人。そういう人が、なぜかあまり容姿がぱっとしない人を恋人とすることがある。

それは例えば、僕の目から見てあまりぱっとしないということではなくて、どのような見方をしても、ちょっと控えめすぎないか?と思うような人。もちろん性格を含めて好きになるのだから、見た目がすべてでは無い。だけどこの業界では例外なのも事実だと思う。

そしてさらにすごいと思うのは、だいたいの人が、自分の相手があまりかっこよくないことを知っていることが多い。だから当然ブサイクだと認識しながら付き合っていることになる。その状態で「だから僕は性格重視なの」という話を聞くことがあるが、正直それは眉唾である。

僕は今の恋人について、もちろん性格はとても大切なことだと考えている。しかし見た目も少なくとも知り合ったときや、若い年齢の間はとても重要だと思う。そして将来お互いが年を取ったときに、「昔はかわいかったのに」と笑って話せるぐらいがいいのではないだろうか。少なくとも、もちろん性格もとても重要だと言うことをいちいち主張するまでもなく、性格は大切。しかし見た目だって決してないがしろにしてはならないことだと思う。

そしてブサイクだという認識がありながら、その人と付き合うというのもまたとても不思議なことだと思う。何が彼をそうさせるのか。
幸いなことに、その例というのは少ない。だから僕はこれからも、このことについては地道な調査と考察を続けていかなければならないと考えている。
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  2011/10/31    考え(ゲイ関連)

若い子が好きだという時に、その理由を問われることがある。やれ若い子はわがままだとか、トークがおもしろくないとか、考え方が荒っぽいとか。

これらについて、確かにその通りだと僕も思っている。どの年齢でも悪い部分はある。僕のようにオジサンになれば、肉体的なことや硬直的な考え方などが挙げられると思うし。だから僕としては、嫌いな部分と魅力に感じる部分を考えたときに、より重要な要素をたくさん持っている人に惹かれる。

そしてその中で一番重要だとおもっているのは、考え方の柔軟性、発想力のすごさ。である。もちろんさんざん書いているように、肉体の魅力も否定はしない。だけど一番の魅力はこの考え方の柔軟性になると思っている。

何か新しいことを始めようとするとき、反対するのは必ずおじさんである。しかしそれは仕方のないことでもある。そのおじさんは、今まで自分が築き上げてきたものがあるだろうし、少なくとも今まではそれでうまくやってきた。だから今さら新しいことを始めようとすれば、それはもう不安でしかない。
もしくは不完全な状態のままおじさんになったとしても、そこからの脱却はおそらく今までさんざんチャレンジした上での今だろうから、あきらめもあるだろうし。

一方で若い子の場合、ある意味では無茶かもしれないような選択をすることがある。そしてそこから、たとえわかりきったことだとしても、しっかりと学ぶのである。僕にはこのまずやってみて、そこから学ぶという姿勢は大いに参考にしたい。
もちろん僕だって、今までの経験から行動を判断することがある。少なくとも大人になってからの軽率な行動は、悪い意味で稚拙と表現されてしまうし、巻き込む人が多くなれば、無責任ということにもなる。

どちらがいいと言うことではないが、僕としてはたとえ無茶に思えても積極的にリスクを負うような姿勢はとてもすごいことだと考えているという話。

肉体的な魅力についても少し書いておく。
よく勘違いしている人がいるが、30代ぐらいであれば息切れするようなタイミングは20代とほとんど変わらない。少なくともアスリートでなければ、階段を上がってイキが切れるようなのは、20代も30代も変わらない。どちらかと言えば日々の運動の量がそれを左右する。スポーツ選手ほどの能力を求められるのでなければ、20代と30代の直接的な肉体的な違いというのは、わずかであるし、ある程度までは努力でそれを補うことができる。

だから僕の考える肉体的な魅力というのは、30代になって明らかに落ちてくるもの。その部分である。ひょっとしたら、僕自身もまだ数年前のことだったので、未練があるのかもしれない。

例えば食事。かつては脂・脂・脂。であった。料理において脂は非常に重要であり、うまみのほとんどであったように考えていた。だから脂の多い料理というのは、僕個人の好みとしても失敗はなかった。天ぷら、焼き肉、唐揚げ、、、僕の好きな料理は脂の料理であった。
しかし今になってみると、脂はほどほどでいい。天ぷらだって昔はたくさん食べたかったけど、今は少量で満足。というよりも食べている途中で胃もたれしてくる。焼き肉もそう。
食べる量も減った。若い子がバシバシ食べている姿をみるとうらやましく思う。

性欲もそう。だけど、あまり積極的に若いこと性欲直接の話をしないのであんまりよくわかりませんが。

筋肉の具合もそう。年齢は腰・腹にでる。だから若い子がそうやってたくさん食べているのに、無駄な脂肪が全くない体つきであったり、腹筋が割れているような姿を見ると、非常にうらやましいし魅力を感じる。ただし僕の場合、そういう肉体的には、あまり直接的な性欲を感じないので、それはちょっと残念に思いますが・・。

ということで、考え方と肉体的な部分に魅力を感じます。という話でした。
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  2011/10/30    考え(ゲイ関連)

僕はかねてより若い子が好きだという、かわいい子が好きだということを強く主張してきた。若ければ誰だっていいという境地にはまだ至っていないが、いずれそこを目指したいと考えている。

よく混同されて言われることがある、若いと幼いということである。ここで両者が混同しがちなのは、性が絡むこともあるからだろうと、僕は思っている。

僕の中でこれは厳密に区別されている。しかしこの厳密という言葉を使うとさらなる誤解を生むことになる。「じゃあ何歳まで、若い子は大丈夫なの?」と。
いちいちこのような愚かで滑稽にさえ思える質問にも、しっかりと僕は答えねばならないし、その責任も感じている。

しかしこれに対する明確な回答というのを、実は持ち合わせていなかったのである。
半年もしくは1年近くに渡って、この問いについて、理にかなう説明を考えていたが、どうにも説明がしずらく、自分の気持ちと態度と、それを他人に説明することができない、非常にもどかしい状態が続いた。

今ではそれもだいぶはっきりしてきている。ということで僕の考える若い子の「若い」と「幼い「と「性」のことを絡めて少し書きたい。

まずは極端な単純な例を考える。赤ちゃんはかわいいということについておおむね異論は無いと思う。もし人間の赤ちゃんでかわいいと思うことに不安があったら、動物でもなんでもいい。
とにかく、出生直後や小さい時はかわいいと思う本能があるのだろう。赤ちゃんというのはそういうもの。
そしてその次に子供の時期がくる。しかし赤ちゃんと子供を明確に区別する方法が無いように、成長の個人差というのは大きい。
赤ちゃんは万人に受けるかもしれないが、子供は必ずしも全員が好きと言えるのかは別だと思う。うるさいとか手間がかかるとかありますからね。

このあたりまでの話は、僕にとって幼いかわいさ。当然のことながら性的な欲求などはゼロ。絶対にゼロ。別に犯罪だからとかじゃなくて、本能としてそう思う。

しかし小学生の幼い子供の時期が終わって、中学生ぐらいまで成長すると、もしくはもう少しいって高校生とか。
このとき、やっぱり小学生とか中学生を区別するのは、年齢だけで、成長の個人差というのは依然として存在している。

この年齢からが、僕にとって幼いと若いが混在している時期だと思っている。

この時期の人で、幼いというの印象を持つような子は子供として好きだから全く性的な欲求は生まれない。しかし若いという印象を持つような子の場合、これはあきらかに子供として好きというよりは、性としての欲求も出てくるような、好きでありかわいいである。

もちろん場合によっては、高校生でも子供としてかわいいというパターンだってある。ひょっとしたら大学生ぐらいまでもあるかもしれない。しかしその混在している濃淡は、黒→グレー→白ということで、徐々に混ざりながらも、大人の雰囲気になってくる。
単純に中学生を10人並べたときに、9人が子供としてかわいいと思っても、それが高校生だったら、5人が子供として、残りの5人が性的な。大学生だったら9人が性的に。っていうだけのことである。

そして、じゃあ何歳からという質問に戻る。ここで濃淡の出てくる年齢は中学生からだと思っている。もちろん1割程度しか存在しないのであれば、高校生からということにしてもいいし、確実性は増す。
しかし小学生の中で若さを感じる事は、まずまずゼロであることを考えても、濃淡ができはじめる節目の時期というのは重要ではないかと思っている。

そういうことで、僕の言う若い子が好きだというのは、あくまでも幼い子が好きという、性的なアブナイ方向性ということではないと、改めて主張したい。
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  2011/10/28    考え(ゲイ関連)

出禁というのを知っているだろうか。要するに入店禁止のことである。入禁ではなくて、出禁という表現なのは不思議ではあるが・・。

僕はここではあまり発言していないが、例えばツイッターであったり、職務上ではよく発言する言葉がある。「ルールなんてクソ食らえ」と。

常識以上のルールを強いるのは僕は大嫌いである。それはもちろん僕が非常識だから、たとえ普通のルールであっても真っ先に僕自身が破ることになることへの不安というのも大きい。

もちろん人間が社会的な活動を行う以上、一定のルールが必要なことは理解しているし、それはとても大切なことだと考えている。何も常識を破ることをどうのこうのと言うのではなく、ローカルルールといわれる、小さなルールをすぐに決めようとする、その姿勢に僕は大いなる疑問を感じるのである。

仕事では、僕はルールを守る側でもあるが、決める側でもある。自分に納得がいかないことがあれば、ルールを作り、それを関連する人たちに守らせようとすることはおそらく簡単である。そしてそれは、さも常識っぽくルールを決めることだって可能だろう。そしてそれは、通常罰則とセットになっていることが多い。
例えば挨拶の声が小さかったら、バツとして掃除をする、とか。誰がどのような意図でルールを決めるのか分からないが、とにかく僕はこの手のことが大嫌いだという話。

コミュニティが小さくなると、その小さなコミュニティを「維持する」という目的で様々なルールが作られる。そしてそれを破った場合のペナルティが出禁であることがほとんどである。
僕はかつてゲイコミュニティのサークルに参加していたことがあった。そしてイベントの日を勘違いしており、当日に無断ですっぽかしてしまったことがある。イベント終了後になって「なんで今日来なかったの!連絡もしないで(怒)」という電話がきて初めて気づいた。

結果としてそのコミュニティからは出禁になってしまった。何度となく謝罪をしたり、僕が想像できる範囲でのフォローなども行ったつもりではあったが、決定がひっくり返ることは無かった。
※ちなみにBBQだったと思うので、直接的な迷惑をかけるというよりは全体的に迷惑をかける感じだったと思います。

この決定に僕が不満を感じている訳では決してない。そうではなくて、このコミュニティのルールがあり、そのルールの最高の部分には出禁という選択肢があることにすごく恐怖を覚えているという話である。
何かのペナルティを必要に応じて与える場合、それが本当に妥当なのか。それはすごく難しいことでもある。
コミュニティを維持するために、時には強権的なことが必要だという考えは理解できる。しかしその強権的であることが、どこまで妥当なのかという検証が行われているのか。そもそもその検証は放棄され、属人的なことに依存しているのか。正直なところ僕にはよく分からない。し、それは決して強権的なことではなく、熟考に熟考を重ねた結果だと信じたいが。。。

お店に損害を与える場合や、著しく雰囲気を壊す場合、、、例えばそれは静かなお店でうるさいとか、若い子へ向けたサービスをオジサンが利用するとか、その逆とか。
そういう場合に、「いることが不適当」という理由で、積極的な出禁というのは分かる。しかしそうじゃない出禁もあり得るような気がして怖い。

僕は結局のところ「悪い人はいない」というのを強く信じている。だから出禁という考え方とは相性が悪いのは事実である。僕であれば「不適当なので自粛を促す」というのが、おそらく僕のする実質的な出禁だろうと思う。
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