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2012/11/12 考え(ゲイ関連)

こんにちは。そしてご無沙汰しております。
何となく毎月1回は更新したいと思っているのですが、書きたいと思う事があっても、若干プライバシーに関わることだったり、書くための時間を別途で確保するのをおっくうに感じたりと、なんだか更新の間隔が空いてしまいました。
これからもこんな調子で不定期でやっていきたいと思います。
さて先日、友人と会った際に元気がないと言われてしまいました。最近は友人と会うことが少なく、あまり他者とのコミュニケーションを行っていません。(だからネタがないんだけども)そういうこともあって、きっと友人たちとあったときのテンションが分からなくなったのだと思います。
あと、元々僕としては、一人静かにしているのも結構すきなんですよ。。
今回の記事は特にそのときにヒントを得たネタではなく、前々から書こうと思っていた事です。
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過去の恋愛経験を聞くことは、次の新しい恋愛を示唆することが多いので、僕はとても重要な事だと考えている。
今まで恋愛の破局というのは、2つのよくあるパターンがあった。
振る方か振られる方かということである。
振るというのは、とても勇気のいることである。恋愛の今後について結論を出すのは、お互いの気持ちが離れていたとしても、それを宣言するのはなかなか大変なことでもある。
だからといって、自然消滅のような事がいいとは思えないし、中途半端な状態を維持するぐらいであれば、早々に結論を出すべきだと考えている。
逆にすぐに結論を出す人もいる。熱しやすく冷めやすいとでもいうのだろうか。こういう場合は、付き合うまでの決定が早い一方で、冷めてからの終止符という決断も早いように思う。
僕はおそらく振られる方だと思う。未練たらたらということではなく、僕自身は鈍感で、完全に破局を迎えているような恋愛でも、それに気づかずダラダラとしてしまうのかもしれない。だから過去を振り返ったときには、振られることが多かったように思う。
振られてからは、もちろんショックも大きいけど、良くも悪くも後に引きずることはほとんど無かった。それは僕の性格がドライだからかも知れないし、大きなショックを受ける程まで相手のことを大切に思ってなかったからなのかも知れない。
ただ僕は今まで振られたいくつかの時には、やっぱり相手に対して申し訳ないという気持ちが大きかった。告白して付き合うのも、破局を迎える決断を出すのも、なるべく僕自身がそれをするべきだと考えていた。その方が相手に余計なストレスを与えないだろうと、結構本金で思っているのである。

過去の恋愛経験を聞いて、振るタイプの場合は、あまり気にする必要は無い。場合によっては決断が早すぎる可能性はあるけども、時間の浪費という最も犯してはならないことを防ぐ事ができるからである。
逆に振られるタイプの場合、相手が振るタイプなのか、振られるタイプなのかを知っておく必要がある。振られるタイプと振られるタイプ。この組み合わせが僕はとても気をつけなければならないと思っている。
恋愛で性格が合うと思える人と出会うのは難しい。だからたくさんの人と知り合って、付き合って、たくさん失敗して特定の人を見つければいいだけのことである。もちろん難しいし大変なんだけども。
振る場合というのは、結論を出すのが早すぎるというミスはともかくとしても、その結果として無駄な拘束を生まない。
逆に振られる場合というのは、相手がそれを切り出さない場合、不貞を働くのであればともかくとして、そうじゃないのであれば、無駄な拘束を生む。
客観的に破局を迎えていたとしても、そのことについて結論が出ていなければ、新しい恋愛をすることは不可能である。それに心の入れ替えもできないだろう。
きっと相手も別れを切り出すのを待っているのかも知れない。そして自分も。そのような状態で、数ヶ月を浪費するような事があったら、貴重な期間をたとえ数ヶ月だとしても失う事になる。
僕は、「長く付き合あうべき人と早々に別れてしまう」事と、「すぐに別れるべき人といつまでも付き合ってしまう」事を比べるのであれば、早々に別れてしまう方がマシだと考えている。少なくとも、早くに別れてしまう場合には、次の恋愛を探すための行動ができる。
いつまでも結論が出ない場合には、実質破局している今の恋愛に拘束され、新しい恋愛を探すことができない。
どちらを選ぶのも残酷かも知れないが、結論が早く出るのがまだマシだろう。
もちろん別れる事を促すような意味ではない。ただもし「もうダメだ」という状態になったのであれば、それが修復が難しいと判断した時点で、早々に結論を出すことが、次の幸せを見つけることにつながるのではないかと思うのである。
2012/09/13 考え(ゲイ関連)

オレは自分のことはもちろん、他人のセックスの話が嫌いだ。
性的な話というのは、話をすることも聞くことも好きな人がいる。もしくは興味津々に細部にわたるセックスの話を聞きたがる人というのもいる。
オレはセックスの話をしたいとは思わない。一つは恥ずかしい。自分がどのようなプレイをしているのか。それが変態的であろうと、ノーマルであろうと。ライトであろうと、ヘタであろうと。細かにそういう話をするのは好きになれない。
聞く時もそう。性的な話を聞きたいとは思わない。せいぜい役割としてのタチとネコぐらいを知ることができればそれで満足である。決してどこか感じるとかの情報は不要だ。そして誰と肉体的な関係を持ったのかということも。
嫌いな理由は、生々しいというのが大きいように思う。
特に友人の性的な話は、それを想像するときに友人の姿が頭をよぎる。相手の事を知っている場合にはそれらが頭の中で交わるのである。決して快いものだとは思わない。だからセックスをしたということぐらいは会話に出てくることは普通と思う。しかしそれ以上のこと・・・例えばバックがすごく感じるだとか、こんなプレイがすきだとか・・・そういう事はむしろ伝えないで欲しいのである。
嫉妬もある。オレだって色々やりたい!そう思う事がないわけじゃない。だから自由に色々やっている話を聞いて、いいなー。と心の中では指をくわえてしまうのである。だからオレにそんな想像をさせないで欲しい。
セックスの話をするのはすごく難しい事だと思う。気持ちいいという話を聞けば、聞き手には嫉妬が芽生えるように思う。気持ちよくないという話や、セックスの失敗談はまあいいだろう。感じる場所や好きなシチュエーションとしての会話であれば、個別の事象にスポットを当てて会話を楽しめばいい。
決してセックスの始まりから終わりまでを語るようなことがあってはならない。
2012/08/14 考え(ゲイ関連)

以前。誰の前でだったか話をしたことがある。よりを戻すということの意味が分からない。と。
別れてからしばらく経過して、また同じ人と付き合う。だったら最初から別れなければいーじゃんと。
自分が振った相手の場合、戻る可能性があるなら振るっていうことがあまり自分のこととして考えられない。
自分が振られた場合は、戻りたいという気持ちは分かる。だからその場合はよりを戻すように働きかけるかもしれない。しかし振った相手の気持ちになって考えたとき、「よりを戻すぐらいだったら最初から別れないよなぁ」と考えてしまうのです。
よりを戻す場合に、その期間がどれぐらいだと適切なのだろうか。3年なのか1年なのか。半年なのか3ヶ月なのか。そしてその適切な期間というのが明確に決められないのであれば、やっぱり僕は正しくよりを戻すことは難しいのでは無いかと考えてしまう。
付き合う理由はともかく、別れる理由というのは致命的である事が多い。だからそれが根本から解決していない場合、再度付き合ったとしても、同じ理由によって別れる事になるのではないか。
数年が経過することによって別れるほどの理由になる部分が解決しているようにはとうてい思えない。
金銭のいくつかは、仕事などの変化によって容易に改善・改悪することがあると思うので、それを理由としたのであれば、なんとかなる事もあるかもしれない。しかし浪費とかだとすればなかなか解決しないだろうし、性格の不一致などでも変わることはなかなか無いだろう。
と、理屈の上で考えてしまえばそのようになってしまうのだけど、実際にはそのように画一的に考えることは適切では無い。

今まで何人かの友人のそれを見ていると、よりを戻すいいパターンというのは確かに存在するように思える。
ただし共通するのは嫌いになって別れるというわけではないと言うことだと思う。
例えば出張などで、それが長期になる場合、遠距離恋愛をすることももちろん可能だけど、出張を理由に別れを判断する場合もあると思う。そのときに別れてしまっても、また戻ってきた場合や、相手も一緒に出張先に来た場合など。そういうことであれば、よりを戻すということは可能だと思う。遠距離恋愛をいやがって、そういう判断をすることはあり得るだろう。
何かに注力するために別れを選択する可能性もあり得ると思う。20代後半ぐらいの、仕事においてはとても重要だと思えるような時期に、恋愛に時間を使うのであればそれを断ち切って仕事に打ち込みたいと考える場合もあると思う。わざわざ付き合っている人と別れてまでっていうのはあるけど、時期や恋愛の状況によってはその選択もあり得るだろう。
そしてこれらを理由に別れた場合、理由さえしっかりしていればお互いは嫌ってないことが多い。だからよりを戻した場合に幸せになる可能性があると思う。1、2年ののち、別れを選んで何かに打ち込んだ結果が出たとき、大きくなっているかもしれないし、失敗や挫折にうちひしがれているかもしれない。しかし別れたときとは違って、きっと成長していることだろう。
嫌いで別れたわけじゃ無いから、成長している相手を見てさらに魅力的に感じることはあるだろうし、自分も一人になった時期に成長しているはず。だからよりを戻すというのは、嫌いになって別れていない場合には有効なのでは無いかと僕は思う。
2012/08/01 考え(ゲイ関連)

ちょっと前にカミングアウトに関する考え方を書きました。そのときは今後時間をかけて何人かの友人に伝えていくというものでした。
そして実際、ここ最近で何名かの方々にカミングアウトをしました。
参考:カミングアウトに関する記事です
元々僕自身としては、緊張するようなシチュエーションを作り、あらためてゲイ(バイ)である事を伝えて・・・。などいう考えは無く、もともと恋人がいる事を普段から言っていますし、その人とある程度の期間付き合っていることを性別は特に主張しませんでしたが、伝えていました。
その上で、最近は結婚しないの?などと言われることも多くなってきたこともあり、そういう時に相手によってはついでに答えるようにしています。
元々カミングアウトをすると決めてから、言おうと思っている、思っていた人は何人かいました。妹、友人3人(女性2人、男1人)です。過去のブログに書いているように、ある程度都合をつけて、妹と友人2人には伝えることができました。
あとは男性1名の友人に伝えるだけです。そしておそらくそれは、年内中に完了するのでは無いでしょうか。
しかし僕が考えていたこととは予想外のことが起きました。というのも、今まで数名に伝えてから、もともと分かっていたことではありますが、やはりなんの問題も無く受け入れられています。そのため、恋人の話や結婚の話になったときに、もともと言うつもりじゃなかった人にも言ってしまうような機会が出てきてしまったのです。
それが先日ありました。大学生ぐらいからの友人で、いまだにつきあいのある友人が何名かいます。その友人たちとは、今でも友人としてだけでなく、ビジネス上のつながりもわずかながらあります。
そのため今までの友人と、親密の度合いも影響も違うと考えていました。親密の度合いでいうと、今までの友人の方がより親密だと思っていますし、影響という意味では友人であれば、受け入れられなければ、良くも悪くもそれっきりということが可能です。ビジネス上の取引があるとそうはいきません。嫌悪を示されても、責任は当然果たします。しかしそれが継続的な取引に影響を及ぼすことを拒否できません。
みんなが結婚の適齢期ということもあり、そしてそのメンバーの中で1人は最近結婚しました。僕は長く付き合っている恋人がいる事を伝えており、その他の2名は、それとなくうまくやっているような話を聞きます。
そして最近ではことあるごとに、「恋人さんをつれてきなよ」と言われるのです。海外オフィスも持っている友人なので、ぜひ事務所にも一緒に遊びに来てとか。
そういう流れの中で、いつまでも「いやいや人見知りだから来たがらないです」と断り続けるのもどうかと思っていました。
※ちなみにウソは嫌いな僕なので、恋人の性別以外はすべて本当の事を言っています。なので人見知りで来たがらないという事実は本当です。
そこで先日みんなで会ったときに、ついでに言ってしまいました。「連れてこないの?」「連れてきても良いんですけど、僕の恋人男なんですよ」「まじで!つれてきなよ!」「うーん。それに人見知りで来たがらないってのもホントですからねぇ。今度声かけてみますよ」「ぜひぜひ」
そんな流れでした。その後でちょっとだけ、「びっくりした」と言われましたが、まあそれぐらい。今までで一番何も無いカミングアウトとなりました。もちろん仕事もそれ以外も今まで通りです。
ちなみにびっくりしたっていう後で、「性別は特に言わなかったですけど、それ以外本当の話なんで別に気にしてないんですよ。ただ結婚しないのっていう質問にだけは正直答えづらいですねw」という会話をしました。
2012/06/04 考え(ゲイ関連)

誰専という人がいる。一言で表現するのであれば、顔にはこだわらず誰でも良いと言うことである。もちろんそれが、性格重視ということであればとても素晴らしい事だろう。しかし実際にはそうならないのがまた難しいところである。
誰専というのは、結局のところ好みのタイプが無いということである。今まで書いてきたように、僕のように顔や体型、年齢に対して病的な程までにこだわる人がいる一方で、それらについて何にも考えない、こだわらない人がいる。そういう人を誰専と言うだけの話である。
何においてもこだわりが無いのは、素晴らしい事が多くあるとともに、大きなマイナスも存在している。好きと思う基準は、緩くてもあった方がいい。僕はそう考える。だってその人の何が好きなのか。それについて明確に答えられないのは、寂しいことじゃないだろうか。またイヤなことや、受け入れることが難しい局面を迎えたとしても、好きな部位との兼ね合いという比較もできるだろう。性格は絶対受け入れられないけど、顔がタイプだから何とか我慢するとか。
すべてにおいて、平均的に好きだという人がいるかもしれないが、だいたいは、好きな部分もあるだろうし、なおして欲しいと考えるようなイヤな部分もあると思う。そういうもんだ。
誰専というのは、僕のそのような考え方とは相容れない。だって誰でもいいんだから。タイプが無い場合の妥協や我慢というのはどこを言うのだろうか。そして好きな部分というのはどういう部分を言うのだろうか。嫌いなところが見えたときにはどうやって平衡を保つのか。
さらに重要な事がある。誰専というのは浮気に結びつきやすいという部分。例えばこだわりがあれば、こだわりに見事に合致する他人が出てきた場合についての心配については、もはや仕方の無いことだと思う。だって公称しているタイプの人なんだから、倫理的な事は置いといても、感情が動くのは仕方が無い。しかし多くのこだわりを持っている人は、その人と巡り会う確率を考えても非常に少ないだろう。だから必然的に感情が動く回数が減る。
誰専というのは誰でも良い。だからかっこいい人もそうじゃない人も。誰でも何かの拍子に感情が動く場合があるだろうし、そう考えることも不思議じゃ無いと思う。だからいつ、どこで、だれと、何をきっかけとして間違いが起こるのか分からないのではないか。
もしそうやって間違いが起きて、それを自身が知ることになった場合。ますます微妙な感情が芽生えるのである。どうしても自分と相手を比べることになるだろう。そうなったとき、こだわりのある人の場合。自分と恋愛に発展したのが、その人のこだわりの基準を超えたからである。そして間違いが起きた場合、自分がそうであったように、その相手も基準を超えている可能性が非常に高い。それをもって納得できるとは思わないが、とにかくそういう事だと考えられる。自分よりもかわいい・かっこいいということを理由にあきらめたりはしないだろうが、納得はできないだろうが。それでもとにかく系統というか、そういう基準が置けるのは理解の一助になるのでは無いか。
誰専の場合、間違いの起こる相手がいわゆる規格外の場合もあるだろう。そうなると自身としては、なぜその人は自分と付き合っているのか分からなくなる。あんな人でもOKだったら、自分じゃなくていーじゃん!みたいな感じ。
少なくとも僕自身がそのような立場になったら、とても我慢ができない。自分よりもかわいい・かっこいいなら何となく理由がわかるとしても、よりにもよってアレかよ!と。もっと相手選べよ!と。(もちろんそれは自分がかわいいとかかっこいいとかを言っているのではなくて、相対的なものです)
だから誰専というのは、タイプが無いという意味で誰とでも付き合える=間口が広い=付き合いやすいそのように思うかもしれない。しかし実際には、付き合うことは容易かもしれないが、それが続くのか。という事については、疑問が残るのである。
2012/04/14 考え(ゲイ関連)

若いうちは色々な人と付き合えばいい。そのような話を聞くことがある。僕は半分賛成だけど、半分は反対なのです。
色々な経験を積むことは通常プラスに働く。熟練するというのは、判断の時に誤りが減るし、その判断も非常に速くなる。過去のパターンにある程度当てはめ、最適な行動を取ることができる。
しかし恋愛においては、その豊富な経験や迅速な判断力はむしろマイナスになるのでは無いかと思うのである。
あまり恋愛経験が豊富だという人の話を聞いたことが無いので想像になってしまう。だけど、例えばありがちな例としては、経験とともに好みが細分化されるのではないか。
一緒にお酒を飲んで楽しいのは○○くんだけど、身体の相性は○○さんみたいな感じ。
過去をひきずるなんていうことでは全く無いけど、それでも比較は行われると思う。特に性的な経験は記憶に残りやすいので、不満として出てくる可能性も強い。
そういう意味では、不動産の物件探しに非常に似ている。
物件を探す際には、妥協できるところと妥協できないところをハッキリさせることが重要である。駅からの距離、築年数、バストイレ別、広さ・・・などなど。少しぐらいの不満には目をつぶり、本当に重要な部分を優先するべきだという事である。
恋愛も近いのではないか。
色々な人との恋愛というのは、数多くの引っ越しをすることと一緒だ。一度選んだ人であれば、いい部分も悪い部分も含めて一度じっくり向き合う必要がある。そして向き合っていれば時間もかかるので、恋愛の経験数は当然減る。これはいい方向のスパイラルを生むと思う。
一方で、すぐに見切りをつけている場合、努力でカバーできる色々な事を放棄しているように思う。もちろん物件と一緒で、さらにいい条件の物が見つかる可能性はある。しかしよりいい物件といっても、条件が大幅に変わらない限り(払える家賃の条件が挙がるのであれば話は早い。しかし諸条件が固定的なままであれば、駅からの距離を妥協して、広さを確保するなど、結局差し引きゼロである)今までの物とそう大きくは変わらないだろう。
だったらじっくり向き合うことはそんなにマイナスでは無いと思う。
少ない経験の中から、限定された情報の中での選択の方が、本当の幸せであるかどうかは別として、得やすい幸せであることは事実であるように思う。もし他の人と恋愛をすればもっともっと幸せになる可能性は常に存在する。だけど、それが実現する保証はどこにも無い。だったら夢など見ずに、今目の前にある幸せをより高める方の努力の方がよっぽど現実的だし、それができたときに、本当の幸せになるのではなかと僕は思う。
2012/04/10 考え(ゲイ関連)

全くの憶測だけど、合っている部分もあるのでは無いかと僕は考えている。
かわいい子はいい恋愛をするのが難しいのでは無いかと考えている。いくつかのそして非常に単純な理由がある。
イケメンの場合、
・モテるので自分から行動することが少ない。
・様々な人から声をかけられるので、判断基準が難しい
というのは一般的だと思う。
最初から詰んでいるといったら言い過ぎかもしれないが、それぐらい難しいというのが僕の率直な意見。
自分から行動することが少ないというのは、たとえすごく好きな人ができたとしても、それを成就するための手段を持たないに等しい。もちろん稚拙な方法であっても、イケメンであれば単純に成功率は高いかもしれない。しかしそうであるならば、それを最大限に生かす方法を持っていた方がさらにいいと思う。
様々な人から声をかけられるというのも大変なことだと思う。
イケメンを口説く人というのは、ブサイク~同レベルのイケメンまで様々だと思う。それぞれの思惑があって、ブサイクの人だったらもしうまくいけばラッキーという感じになると思う。
そしてブサイクな人は、場合によっては口説きのテクニックを持っている場合もある。もちろん顔だけじゃなくて性格も重要な要素なので、一概には言えないとは思う。顔だけに焦点を当てた場合にはそうだろうということ。
イケメンから口説かれる場合も難しい。相手がイケメンの場合、当然相手も色々な人から口説かれているだろうし、出会いも相対的には多いだろう。そうだとした場合に、自分はその他大勢になってしまう可能性もある。
この業界では、なかなか自分の顔のランクを超えて付き合うことは少ない。せいぜい1ランク上下するぐらいだろうか。Aランクの人とBランクの人が付き合うことはあるかもしれないが、AランクとCランクが付き合うというのは、あまり見かけないように思う。
じゃあどういった人とつきあえば幸せになるのか。その答えは非常に悩ましい。
まずは相手のランクを必要以上に落とすのはどうかと思うし、だけど性格は長期的な恋愛を指向するならば、非常に重要な要素でもある。
だから結局言えることは、ちゃんと相手の性格を見極めろ!ということになる。性格と顔のランクが絶妙なバランスの人が、本当にいい人なのでは無いかと僕は思う。
※もちろんタイプとか好みとか色々な要素を含んでいるので一概には言えません。ただし考え方の方向性として、僕はこの話はとても重要だと考えています。
2012/01/16 考え(ゲイ関連)

相思相愛で、ラブラブだという表現がぴったりな恋愛でも、それを隠すという、ウソのような話を聞いたことがある。
なぜ付き合っている状態を画することになるのだろうか。
まずは実際に聞いた実例から。
僕の友人で、そこそこの年齢の方がいた。その人は普通に男女の恋愛をして、彼女の方が「付き合っていることを隠したい」という事を言っていたというのである。
例えば、具体的に恋人関係であるということを紹介してもらうようなことは一度も無かったと言っていた。普通であれば、友人関係の人たちに、「今付き合っている人です」そのように紹介することは、少ないかもしれないが当然にあり得ることだろう。それが無かったと言っていた。
あるとき、デート中に彼女の友人に会ったこがあるらしい。そのときに彼女は「友人です」そういって紹介したそうである。
なぜ彼女が付き合っていることを隠したかったのかは分からない。しかしそこには何となくネガティブな想像が容易にできてしまう。
可能性として、付き合っていることが恥ずかしかった、他にいい人を探したかったなどだろうか。もちろん片方が有名人で知られることが面倒なことにつながるのであれば理解はできる。しかしそうではないようであった。
ただし注意しなければならないことが一つだけある。それが彼氏の方が実はのぼせ上がっていたのは自分だけで、本当に付き合っていなかったという可能性。
どちらにせよ、付き合っていることを隠すことについて、正当化できるような理由はどうにも思いつかない。
いくつか想像できる隠す理由については、理解はできる。しかしそれを実現されるには問題があるのではないか。
特に付き合ってないという表明をすることによって、仮の彼氏よりも将来の彼氏を優先するのは、気持ちは分からないでもないが、それであったら隠すことはせずに、いるけども・・・という理由の方が潔い感じがする。それが倫理に反するのなら、付き合うこと根本に疑いを持つ方が正当だと思う。
付き合っていることを知られるのが恥ずかしい場合というのは確かにある。これは付き合っている相手が恥ずかしい分けではない。恋人ができたら、やっぱりそれは色々と言われるだろう。そういう色々言われることを避けるために、つきあい始めの限定された短期に限って、いないということを表明するのはあり得る話。
特に恋愛の平均的な期間が短い場合、つきあい始めの初期の頃はまだどうなるか分からない。だから恋人がいないというのは仕方が無い。正確にいうのであれば「付き合い始めたばかりでまだどうなるか分からない」ということかもしれない。
一定期間の潜伏を経て、ある程度の時期が経過したら、、、それは3ヶ月ぐらいだろうか。そのときには、改めて公開することになるだろう。実は付き合っている人いるんです。そしてもう3ヶ月目になりました、と。
もちろんすべての行動がオープンである必要などは全く無いけど、それでもやっぱり積極的に隠すという行為はなかなか正当化されないのではないかという僕の気持ち。
2011/12/29 考え(ゲイ関連)

確か前に「前の恋人の話は聞かない」という記事を書いた。
それに関連するように思う、誰と誰が寝たのかという話。
僕は誰と寝たとか、そういう話を自分から進んですることはない。そして積極的に他人に聞くこともない。
とても重要なことだが、恋愛の話は聞くもしくは恋愛の手前の話、誰のことが気になっているとか。そういう話はするし好き。
しかし性的などっぷりとした話はほとんど聞かないのである。
聞かない理由は単純である。そこからおもしろい話に発展する可能性が少ないということ。
僕は人の性的な話を聞いたとき、一つは生々しいからちょっとイヤだと思う。それ以外にも、例えばかわいい子と寝たことに嫉妬するかもしれないし、かわいくない子と寝たことで安心するのかもしれない。どちらにしても、自分の感情が悪い方向に動くのでイヤなのである。
僕の話もそう。誰と寝たことがあるのか。という話を聞かれることがある。そしてそれに対する僕の回答は「彼が初めてです」となる。誰とも寝ていない。寝たことがないと。
もし僕が過去の寝た人の話をして、もしかわいくない子だったらそれはどういうことになるのか。そしてかわいい子だったら、それはどういうことになるのか。嫉妬されるかもしれないし、安心されるのかもしれない。しかしそれは、僕にとって何かおもしろい方向に話が進むことになるのか疑問である。
そうはいっても、もし話の流れでそういうことになった場合、それはそれは大変興味がある。自分から積極的に聞くことはできなくても、話を聞くときにはとても興味津々なのである。
そしてやっぱり、かわいい子と寝ていることを知ると、僕は何とも言えない感情が内側からにじみ出てくるのである。
2011/12/22 考え(ゲイ関連)

もう僕は大人になったと言っても問題ないと思います。大人とは何か、というのは非常に難しいことだと思います。年齢というのも基準の一つでしょうし、精神的なものも基準になりうると思います。もちろんそれ以外にも社会的な生活力かもしれませんし、結婚などの環境も基準かも知れません。
そういう意味で、僕はもう大人であると宣言するのは特に問題ないのではないでしょうか。
普段の生活のほとんどを、僕は大人として体験し処理をしています。しかし最近気づいたことで、一つだけ、僕自身がまだ大人になりきれていないことがあると知りました。
それが夫婦生活の話です。
夫婦生活になると、当然夫婦を維持するのは自分たちです。だから自分という個人を優先したときに、結果として家庭や夫婦、子どもが2番目になってしまうことは容易に想像ができます。もちろんそれには不満はありません。しかしどうにも釈然しない気持ちがありました。なんとも表しにくい気持ちで、今まであまりその部分には焦点を当ててきませんでした。
つまり夫婦を考えたときに、夫婦を構成する当事者の気持ちに立つべきなのに、僕はその夫婦の子どもという立場になってしまうのです。
年令と共に、社会的・家庭的に責任のある立場になるにつれて、結婚だったり、浮気・不倫だったりという話を聞くことが多くなりました。
僕はこの時、個人に焦点を当てるのであれば、浮気や不倫は理解できる。という立場です。快楽であったり、マンネリの打破であったり、道徳的なことや倫理的なことを差し置く必要はあるにしても、個人だけに完全に焦点を当てた場合、必ずしもそれを否定することはできないと考えていました。
一方で、家庭や子供などを含めて考えたとき、僕は不倫や浮気は最も避けなければならない行為の一つだと考えています。個人と家庭のどちらが優先されるのかはわかりません。しかし関係性の中でそのような行為は否定されるべきだと考えています。
そして、僕はどちらの意見に近いのか。という話です。ようするに、個人を中心に考えるなら浮気は理解でき、家庭を中心に考えるならそういうのはダメと。
これにずっと悩んできました。不倫はともかくとして、浮気はそのチャンスがあったら・・・というヨコシマな考えが出てこないわけではありません。気持ちという意味では、そのような考えは健全であるといってもいいのではないでしょうか。しかしその場合には家庭を無視していることになります。
一方で、全体的な中ではどうなのか。場合によっては相手の恋人のこともあるでしょうし、自分の恋人が関係してくることもあります。そうなったときに許されることではないと。
不倫の話を聞くと、僕はすごく戸惑います。
それは大人としての立場であれば、大人同士が責任を持って恋愛していることを知っているからです。どのような事情があるのかはわかりません、しかし遊びでないとすれば、それなりの理由があってのそのような恋愛だとわかります。もちろん遊びだったとしても、全然問題ないですし。
一方で、子供としての立場だと、それがどのような理由であったとしても関係者をすべて納得させる方法は存在しえないのではないかと考えてしまいます。
この件は本当に難しいですね。