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2012/06/22 未分類

まだ妹と友人の1名にしかカミングアウトをしていません。今まで結果的に女性が多かったのですが、ここ最近までしっかりと仲良くしている人はそんなに多くなく、結果的に女性に言うことが多かったように思います。次は男性の友人かなぁと思っています。
さて、今までの数回のそれを通じて、僕自身はあまり言うことに抵抗がなくなりつつあります。もちろん慎重でなければならないのは事実としても、ずっとずっとすんなりと通じてしまうことがほとんどのように思います。
もともと僕の友人であるぐらいですから、ちょっとやそっとのことでは、きっと動じないという事があるかもしれません。僕の友人たちであればきっと僕に突拍子のない何かが起きたとしても、それをきっと受け入れてくれるのでは無いかと思っています。
もちろんこれから失敗やそれを後悔するようなこともあるかもしれません。が、それもまた大切な経験なのでしょう。
飲みに行こう。そのように言って、いつものように誘いました。「今回は友人を一人連れて行くかも」そのように伝えて。
本当は彼と一緒に会って、そのまま紹介してしまおうと考えていました。しかし彼が「それはイヤだ」と言うのです。
もし受け入れられない人だったらどうするの?とか、いきなりそんなのは困るとか。当然そんなに一緒にいても話をすることが無いからしょうがないとか。
とりあえず「俺の友人だし嫌悪されることは無いから、それはたぶん大丈夫。でも受け入れることのそれについては、本人の考えもあるから、否定的かどうかは別だけど、意見があるのはしょうがないし、別にそれでもいいじゃん。いちいち待ち合わせとかも面倒だから最初から一緒で」そのように僕は主張していました。
ただまあ確かに彼の心理的な負担も、一緒にいる時間が長いことへの抵抗も分かるので、先に会って伝えてから彼と合流することにしました。
ある程度の、一通りの話が済んだ後でその事を切り出しました。「今日これから友人が来るって言ってたよね。んでこれから来る子は恋人なんだ」と。
友人は驚いているような表情をしたように思います。「えーそうなんだ」ということも言ったかもしれません。
続けて、「で、その恋人の子なんだけど、男なんだよね」と。
あとはいくつかの会話でした。※もっと感情のある会話をもちろんしましたが、とりあえず要旨だけ。
「あれ?ゲイだっけ?」→「いや。俺はバイだよ」
「だって前に彼女さんの話してたじゃん。ほら付き合って長いとか、頭がいいとか言ってたじゃん」→「あーたぶんそれは、今の子を女性に置き換えて言ってただけだよ」
「えー人見知りだから来てもどんな話すればいいんだろ」→「大丈夫彼も人見知りだから無視しとけばいいよw」
と、大変驚いたり、戸惑っている?ような感じもしましたが、とりあえずは普通の感じでした。
後は彼と合流し友人からいくつかの質問。
親の事とか、結婚の事とかだったかな?
2012/06/14 考え(自分関連)

未成年のとき、精神年齢と実年齢の関係で、実際の年齢よりも精神はもう少し先を行っていた気がする。18歳ぐらいのときは、社会的に認知されている未成年というくくりなんだけど、実際には20代と発想や考え方は大きく違わなかった。唯一経験の量だけが僕を未成年としていた。
20代の前半になると精神的な年齢と実際の年齢がかなり一致していたようにも思う。すべてが充実し、チカラみなぎっていた。
そして徐々に、25を超えた当たりからだろうか。精神年齢はその当たりで足踏みを始めたように思う。そして実年齢はどんどんと進む。
この差はどんどんと広がるばかりのように思える。
何を持って精神年齢とするのか。それについては色々あると思う。まだまだ若い!などと言うことではなく、色々な考え方がそれ以上にはならないように思えて仕方が無い。
例えば若かりし頃、他人の様々な表現や行動にイライラしている時期があった。それは僕自身に限らず、おそらく男性には比較的多い時期なのでは無いだろうか。それが露骨に他者に向けられれば反抗期とかそのような表現になるかもしれない。
ある程度の経験とともに、様々な考え方や行動を受け入れられるようになって、相対的にイライラすることは少なくなる。そのように落ち着くのは、10代後半から20代前半ぐらいだろう。
友人に話を聞いても、僕と年齢差がある場合、僕と知り合ったぐらいの年齢に友人がなった。例えば相手が20歳、僕が25歳で知り合ったとする。その5年後は、相手が25歳で僕が30歳だ。
このとき、20歳の友人からみれば、25歳の僕はずいぶんと大人だと思っただろう。場合によってはおっさんだと思っていたかもしれない。確かにこの5歳の差は大きくて、学生になったばかりなのと、社会人を何年かしている。という違いがある。生活様式の違いは、態度にも表れるだろう。
しかしじゃあその友人に話を聞いたときのこと。「25歳になって、俺と知り合ったときの俺の年齢だけど、当時俺に抱いていた考えと、実際に自分がその年齢になってみてどお?」と。
友人は「全然当時のまんま」と言っていた。僕自身も非常によく分かる。当時20代の考えのまま今を迎えているわけだし。
しかし肉体とともに、しっかりとした加齢をしていくのは僕にとってとても重要である。肉体的な年齢については、だいぶこのブログを書き始めた頃よりも受け入れることができ、また立ち位置なども把握できるようになりつつある。
しかし今度は精神的なそれが立ちはだかってきた。
精神はなんだかずいぶんと遅れているようなきがしてならない。昔のようなミスは相変わらずだし、年齢や経験を重ねることによって成熟しているようにも思えない。さらに困ったことに、それが今後改善されるのかも自身が無い。
2012/06/04 考え(ゲイ関連)

誰専という人がいる。一言で表現するのであれば、顔にはこだわらず誰でも良いと言うことである。もちろんそれが、性格重視ということであればとても素晴らしい事だろう。しかし実際にはそうならないのがまた難しいところである。
誰専というのは、結局のところ好みのタイプが無いということである。今まで書いてきたように、僕のように顔や体型、年齢に対して病的な程までにこだわる人がいる一方で、それらについて何にも考えない、こだわらない人がいる。そういう人を誰専と言うだけの話である。
何においてもこだわりが無いのは、素晴らしい事が多くあるとともに、大きなマイナスも存在している。好きと思う基準は、緩くてもあった方がいい。僕はそう考える。だってその人の何が好きなのか。それについて明確に答えられないのは、寂しいことじゃないだろうか。またイヤなことや、受け入れることが難しい局面を迎えたとしても、好きな部位との兼ね合いという比較もできるだろう。性格は絶対受け入れられないけど、顔がタイプだから何とか我慢するとか。
すべてにおいて、平均的に好きだという人がいるかもしれないが、だいたいは、好きな部分もあるだろうし、なおして欲しいと考えるようなイヤな部分もあると思う。そういうもんだ。
誰専というのは、僕のそのような考え方とは相容れない。だって誰でもいいんだから。タイプが無い場合の妥協や我慢というのはどこを言うのだろうか。そして好きな部分というのはどういう部分を言うのだろうか。嫌いなところが見えたときにはどうやって平衡を保つのか。
さらに重要な事がある。誰専というのは浮気に結びつきやすいという部分。例えばこだわりがあれば、こだわりに見事に合致する他人が出てきた場合についての心配については、もはや仕方の無いことだと思う。だって公称しているタイプの人なんだから、倫理的な事は置いといても、感情が動くのは仕方が無い。しかし多くのこだわりを持っている人は、その人と巡り会う確率を考えても非常に少ないだろう。だから必然的に感情が動く回数が減る。
誰専というのは誰でも良い。だからかっこいい人もそうじゃない人も。誰でも何かの拍子に感情が動く場合があるだろうし、そう考えることも不思議じゃ無いと思う。だからいつ、どこで、だれと、何をきっかけとして間違いが起こるのか分からないのではないか。
もしそうやって間違いが起きて、それを自身が知ることになった場合。ますます微妙な感情が芽生えるのである。どうしても自分と相手を比べることになるだろう。そうなったとき、こだわりのある人の場合。自分と恋愛に発展したのが、その人のこだわりの基準を超えたからである。そして間違いが起きた場合、自分がそうであったように、その相手も基準を超えている可能性が非常に高い。それをもって納得できるとは思わないが、とにかくそういう事だと考えられる。自分よりもかわいい・かっこいいということを理由にあきらめたりはしないだろうが、納得はできないだろうが。それでもとにかく系統というか、そういう基準が置けるのは理解の一助になるのでは無いか。
誰専の場合、間違いの起こる相手がいわゆる規格外の場合もあるだろう。そうなると自身としては、なぜその人は自分と付き合っているのか分からなくなる。あんな人でもOKだったら、自分じゃなくていーじゃん!みたいな感じ。
少なくとも僕自身がそのような立場になったら、とても我慢ができない。自分よりもかわいい・かっこいいなら何となく理由がわかるとしても、よりにもよってアレかよ!と。もっと相手選べよ!と。(もちろんそれは自分がかわいいとかかっこいいとかを言っているのではなくて、相対的なものです)
だから誰専というのは、タイプが無いという意味で誰とでも付き合える=間口が広い=付き合いやすいそのように思うかもしれない。しかし実際には、付き合うことは容易かもしれないが、それが続くのか。という事については、疑問が残るのである。