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2012/01/31 ブログ

ゲイタンという名前のグループが去年から活動しています。といっても、グループなどというほどしっかりしたものでもありませんし、主催者や活動の主体もはっきりしていないというのが実際のところだと思っています。
当然僕自身も何回か参加者としての参加でしたし、1回は主催をしました。そのほか主催者のそばでお手伝いをしたこともあります。
いわゆるグループとはちょっと違う感じですし、ひょっとしたらグループという概念から考えるとかなり違うかもしれません。
ということでいくつか思うところを書きたいと思います。
そもそものきっかけ。僕はブログを書いていて、読者の方との交流を少しずつ行っていました。何名かの方々は僕に会いたいと言っていただき、僕も大変うれしいと思っていました。もちろん僕自身もコメントをいただける方々にはとても興味がありました。
しかし個別に会うには時間も必要です。何かの機会があれば、そういう人たちをまとめて、一気にあってしまえたら楽しいだろうなぁと思ったのです。オフ会っていえばまさにその通りです。
そんな折ツイッターで、何人かの方々が会おうという話しをしていました。それに僕は乗ったのです。
「会いましょう。とりあえず日程だけ決めませんか」と。
そしてとんとん拍子に日程が決まり、最初のオフ会=ゲイタン第1回目が行われました。
というのが、ゲイタンの一番最初のきっかけでした。
じゃあ、単なるオフ会になぜ名前がつけられたのか。そこが僕自身の思うところなのです。
もともとこうした交流はなるべく長く続けたい、続けられたら素晴らしいと思っていました。そして同時にコミュニティが限定されるのもイヤだと考えていました。そもそも第1回目は、男女ミックスでの交流だったので、何か限定的な表現がつくのはそぐわないですし。
しかし一方で、「表現する方法の無い集まり」、、、それは目的の無い集団なのかもしれません。というのは、継続することが非常に難しいだろうと僕は思っていました。例えばブログのオフ会という事であれば、ブログの書き手と読み手という距離が生まれますし、そもそもブログを読んでない人は参加資格が無いのでしょうか。僕はそういうのはいまいちよくわかりません。しかもその場合、ブログの書き手の方が主催したり、何か行動を起こさねばならないような気がします。
そういうのは僕は苦手です。
だからこそ最初に、僕は会の名称とコンセプト=理念を決めました。
これは本当に初期に行われ、
・オフ会をやることをハッキリさせる
・日程を決める
・ある程度の参加者をハッキリさせる
・名称、コンセプトを決める
・場所や役割を決める
という流れでした。ある程度の参加者が判明した時点で、すぐに場所を決めたり、何をするかハッキリさせるよりも先に、グループの名称とコンセプトを決めました。
名称の候補は色々出てきました。○○オフとかそんな感じでしょうか。正直なところ僕自身はグループを表現する名称であればなんでもよかったのです。ということで、あまり僕は意見を出さずに、すんなりと決まってしまいました。
そしてこのとき決まったのが、ゲイタンヌーボーという名前でした。これはたけるくんが発案です。(僕は長いから、ゲイタンっていう略称が正式名でいいと思っています)
そしてコンセプトです。コンセプトも、みんながある程度共有できていればいいので、そういう表現になっていればなんでもOKだと思います。
そしてこれは、僕が案として出したのが、おおむね共有されました。今では平易な表現で、「参加者を限定しない」という表現で、おそらくみんなが共有できていると思います。
ゲイタンの特徴的な形態として、ピラミッド構造になっていないことや、主催者がハッキリしないことがあると思います。
例えば一般的には、ある程度回数を重ねるごとに、リーダー格の人が出現するかと思います。その方が色々と都合がいいですし、まとまりやすくなると思います。それは声が大きい人がなるかもしれませんし、リーダーシップにあふれている人かもしれません。人望かもしれないですし。
しかし僕はそういう形態をあまり好みません。これには大きな理由があって、ピラミッド構造の場合、決定権が上位者にゆだねられます。そしてそれが企業であれば、仕方ありませんが、プライベートなつきあいの中でのそういう考え方は、不必要だと考えているからです。
例えば、「輪を乱す」という理由で会に参加させないような強権が可能になってしまいます。もっともらしい他の理由を挙げることだってできるでしょう。無断欠席したとか、遅刻が著しいとか。
しかし僕はそういう決定を、リーダーが行うことに基本的には反対です。またルールも必然的に決まって来ると思います。そしてそのルールも僕は苦手です。基本的には常識にゆだねたいですし、何か問題があって、それがその場で対処可能であれば、そのときに対峙すればいいと思っています。
主催がハッキリしていないというも、大きな特徴だと思っています。今までのイベントの多くは、同じ人が主催していません。毎回違う人が、それぞれの方法でイベントを行ってきました。バーベキューもやりましたし、バーやカフェもやりました。
規模がそこそこ大きいことが多かったように思いますが、そろそろ(案としては)規模の小さいものも出てきているようです。
誰もが主催をできるって言うことは、とても特徴的で楽しそうだと思いませんか?またそれに、主催者に応じて全然雰囲気が違うっていうもありますし。
最近では、ゲイタンという名前の他に、地名が入って○○タンという名前で呼ばれることが多いようです。
近い日程では、
伊勢タン(みかりんさん主催)
横浜タン(かねこぉくん、いちさん主催)
などでしょうか。
ちなみに伊勢に関しては、僕が伊勢神宮に行って、現地の人にかまってもらうだけです。それに、東京や伊勢近辺の方々が一緒に参加してくれるようです。ぜんぜんゲイタンっぽい感じじゃありませんw。
横浜の方はしっかり準備されているので、すごく楽しみです。
※そういえば僕が以前に主催したバーですが、もちろん第2回目やります。日程等まだ未定ですが、前回の黒字を還元しなければなりませんし、必ずやるので要チェックです!
2012/01/26 日常

彼は、ティッシュを欲しがる。僕は道ばたで配っている広告の一切は、面倒な事になることが多いと思っているので、まずまず受け取らない。
しかも彼は、一度そうやって立ち止まらせられるような「何か」があると、いちいち説明を聞くから問題が大きい。
確かにポケットティッシュを配っているのは、とてもすばらしいことだと思う。僕自身は自分でティッシュを買うなんて事はまずまずあり得ないと思っている。だけど広告で配っているそれが、鞄の中に常備されていることも多い。そして滅多にもらわない僕は、もらいやすいシチュエーション、、、例えばそれはほとんどが風俗、、キャバクラなどのティッシュ、、、であることが多く、それを使う場面によっては微妙に恥ずかしい思いをするのです。
最近、広告を配っている人たちはその効果を高めるためだと思いますが、すぐに話しかけてきます。こちらはティッシュが欲しいだけだし、ティッシュじゃ無かったときは、ゴミを受け取ったという後悔があるのにもかかわらず、先方はお構いなしに話しかけてきます。
「簡単なアンケートにご一緒にお答えいただくと豪華なプレゼントが・・・」といいった具合。彼は律儀にそれに対して応対するので、ティッシュごときで立ち止まるほどのことか?っていう感じになるのです。
前の話ですが、ティッシュを配っており、それを彼は受け取りました。すると、アンケートに・・・と始まったのです。彼はいちいち話しを聞こうとするので、「何してんの?早くいくよ」といって、半ば強引に立ち止まることをやめさせないといけません。確かこのときは、家庭に置く浄水器の件だったと思います。
続いて、コンタクト系のチラシを彼は受け取りました。このときは、ティッシュだと思って受け取ったら単なるチラシだったのです。
そしてチラシ配りの人は、受け取った彼を見て「すぐにお店に行かれますか?」と聞いてきたのです。特にそのまま通り過ぎても、結構しつこく「あのー?このまま店に行かれるんですよね?」という具合でした。
このときは、「あーすいません。チラシ返すんで大丈夫です」と答えました。
彼らは、店に誘導することによってインセンティブが発生しているのでしょうか?不思議に思いました。
買い物しているときも油断できません。
家電を購入する事になって、彼は「カード使えますか?」そのように店員さんに聞いたのです。すると店員さんは、まってましたとばかりに、「通常のクレジットカードではポイントが ~ なんですが、当店のカード・・・」となったのです。「現金でいいから早く会計お願いでいませんか?」話しを遮ってそのように伝えました。
僕は職業がらなのか、勧誘するのもされるのも苦手です。いいものだと信じて紹介してくれている場合もあれば、インセンティブに従っているだけの場合もあると思います。別にそれはいいのです。ただ、やっぱり断ることがハッキリしているそれらについて、勧誘→お断りというプロセスはどうにも避けたいように思います。
2012/01/21 考え(自分関連)

恋人の意味を考えたとき、もちろんかけがえが無いことは事実だと思う。しかしかけがえのない、などという抽象的であるいは欺瞞のような表現で済ませるようなことがあってもいいのだろうか。
しかし具体的な表現をしたときに、それはとたんに俗っぽくなってしまい、本当に重要なことのごく一部、もしくはその一部さえも表現できていないのではないかと心配になる。
そして今までの通り、僕にとっての恋人の存在意義というのは、どういうものなのだろうか。僕の考える意義というのは、だいたいにおいて受け入れられることが少ない。
僕の場合、実際的な部分と精神的な部分に分けて考えてもいいと思う。実際的な部分というのは、一人よりも二人の方が楽しいとか、一緒にでかけられる喜びとか、もちろん性的な欲求のこともある。これらについては、友人というある程度代わりになり得る存在があるが、やっぱりそれは完全に置き換えることができない。
精神的なことはもっと大きいように思う。過去にも何度か書いているが、友人はある程度流動的になってしまう。仕事のことや住んでいる場所などの理由で。もちろん交友範囲が変わったり、合う人とか合わない人という存在もあると思うし。
しかし恋人はそういうことが基本的にはない存在。そういう意味では家族にも当てはまるかもしれない。
常に安定的にそばにいる事を期待できるというのは、非常に大きい。そしてそれは、恋愛の期間とともにより深まるように思う。
実際的な部分は、浮気とまではいかなくても、恋人と遊ぶこと以外の選択肢もたまには選びたいと思う一方で、精神的なことは、他の誰かとはならない、なりにくいのではないかと考える。
僕の場合はもう一つある。それは恋人を探すことにかける時間である。
仕事もやりたいし、プライベートな事も大切にしたい。そしてできれば、仕事を優先したい。そう考える僕は、もし恋人がいなかったとすれば、仕事の時間かプライベートの時間をけずって、恋人を探すための活動をしなければならない。もちろん時間をそこに割くだけの意味のある事だとは思う。しかしもし成就するまでに3年かかったとしたら・・・。そのために必要な時間というのは、相当な物になるだろう。
直接的なことや精神的な大きい意義というのは本当に重要だと思う。しかしそれと同じぐらい、そしてより指標として計りやすいからこそ、今いるおかげで、誰かを探すための時間を使わなくていいというのも、忘れてはならないほど大きい。
恋人と切磋琢磨できて、ライバルのような関係も楽しいと聞く。僕はそんな気の置けない人とはたぶんつきあえないだろう。色々な知見を得られることに魅力を感じる場合もあるだろう。しかし僕にはあまりプライベートでの知見は求めない。
そういう部分に意味や魅力を見いだす事も素晴らしいと思う。
好きな部分と意義というのは違うのだろうか。なかなか難しいことでもある。
2012/01/16 考え(ゲイ関連)

相思相愛で、ラブラブだという表現がぴったりな恋愛でも、それを隠すという、ウソのような話を聞いたことがある。
なぜ付き合っている状態を画することになるのだろうか。
まずは実際に聞いた実例から。
僕の友人で、そこそこの年齢の方がいた。その人は普通に男女の恋愛をして、彼女の方が「付き合っていることを隠したい」という事を言っていたというのである。
例えば、具体的に恋人関係であるということを紹介してもらうようなことは一度も無かったと言っていた。普通であれば、友人関係の人たちに、「今付き合っている人です」そのように紹介することは、少ないかもしれないが当然にあり得ることだろう。それが無かったと言っていた。
あるとき、デート中に彼女の友人に会ったこがあるらしい。そのときに彼女は「友人です」そういって紹介したそうである。
なぜ彼女が付き合っていることを隠したかったのかは分からない。しかしそこには何となくネガティブな想像が容易にできてしまう。
可能性として、付き合っていることが恥ずかしかった、他にいい人を探したかったなどだろうか。もちろん片方が有名人で知られることが面倒なことにつながるのであれば理解はできる。しかしそうではないようであった。
ただし注意しなければならないことが一つだけある。それが彼氏の方が実はのぼせ上がっていたのは自分だけで、本当に付き合っていなかったという可能性。
どちらにせよ、付き合っていることを隠すことについて、正当化できるような理由はどうにも思いつかない。
いくつか想像できる隠す理由については、理解はできる。しかしそれを実現されるには問題があるのではないか。
特に付き合ってないという表明をすることによって、仮の彼氏よりも将来の彼氏を優先するのは、気持ちは分からないでもないが、それであったら隠すことはせずに、いるけども・・・という理由の方が潔い感じがする。それが倫理に反するのなら、付き合うこと根本に疑いを持つ方が正当だと思う。
付き合っていることを知られるのが恥ずかしい場合というのは確かにある。これは付き合っている相手が恥ずかしい分けではない。恋人ができたら、やっぱりそれは色々と言われるだろう。そういう色々言われることを避けるために、つきあい始めの限定された短期に限って、いないということを表明するのはあり得る話。
特に恋愛の平均的な期間が短い場合、つきあい始めの初期の頃はまだどうなるか分からない。だから恋人がいないというのは仕方が無い。正確にいうのであれば「付き合い始めたばかりでまだどうなるか分からない」ということかもしれない。
一定期間の潜伏を経て、ある程度の時期が経過したら、、、それは3ヶ月ぐらいだろうか。そのときには、改めて公開することになるだろう。実は付き合っている人いるんです。そしてもう3ヶ月目になりました、と。
もちろんすべての行動がオープンである必要などは全く無いけど、それでもやっぱり積極的に隠すという行為はなかなか正当化されないのではないかという僕の気持ち。
2012/01/10 未分類
2012/01/09 ブログ

こんにちは。ブログで最初の記事を書いてからずいぶんと時間が過ぎました。とはいってもまだ1年ちょっとぐらいでしょうか。
今まで書いたいくつもの記事は、僕の考えをまとめることに、ずいぶんと役立ってくれました。
新しい何かを始めると、(例えばそれはこうしたブログもそうですし、ツイッターもそうです)毎回僕は自分のコミュニケーション能力の低さに驚きます。
今さらコミュニケーション能力を高めようとは思いませんが、それでも努力をし続けることはとても大切な事ですし、必要なことだと痛感しています。
色々な人との交流を通じて、最近は行動に伴う精神的なタフさが非常に大切だと強く感じるようになりました。
2012/01/07 日常

31日の大晦日、彼と一緒にどこか新年のお参りを行う予定でした。夕食にはすき焼きを食べて、家でのんびりと年を越したらどこか神社に行こうとしていたのです。
31日の20時ごろ、仕事を終えてお肉を買いに行き、そろそろ向かうかなと思っていたところにメールが。「ちょっと伝えたいことがあるから時間のあるときに電話もらえますか?」やや深刻そうな内容のメールが彼から届いたのでした。
このとき僕は色々なことが頭をよぎりました。年末もいつもと変わらないペースで仕事をしていた僕でしたが、ちょっと仕事の方を優先しすぎたかなぁと。たとえそれが後の祭りであったとしても。
そりゃあもう、想像するのは悪いことばかり。初詣に行くどころか、もう会うことを終わりにしたいと。そのような事を言い出しかねないようなメールだったのです。
続いて「今朝から調子が悪かったんだけど夕方ぐらいから本格的に体調が悪くなってきました」と言うメールが来ました。
もちろん、非常にタイミングの悪いことではありますが、仕方の無いことでもあります。
思えば、知り合ってから年末を一緒に過ごしたことはほとんどありません。例年では、彼はだいたい実家に帰っています。おそらく数年間のつきあいの中で、去年が初めて一緒でした。そのときも1日からバイトを入れられてしまったということで、かなりイレギュラーだったのです。
今年はなぜ帰らなかったのかはあまり詳しくは分かりませんが、今年はようやくそういう意味では、自分の意思で一緒に過ごせる時でもありました。
さらにもちろん僕も彼もまだ若いといわれる部類に入ると思いますので、年間を通じてそこまで病気をすることはありません。寝込むほどなのは年に1回から2回ぐらいでしょうか。だいたい彼が0回で、僕が1~2回ぐらいです。
僕が金曜日に寝込むことが多いように、彼はなぜか年末、特に大晦日を挟んだ数日間の間に寝込むことが多いように思います。
たしか知り合って比較的すぐのころ、最初の年末の頃に、体調が悪い、咳が止まらないと言いながらも、バスの予約もあるし、、、ということで強引に実家に帰っていきました。そして実家の方で、病院にかかったと言っていました。通常の風邪であれば寝込んでいれば治るでしょうから、病院に行くほどというのは、かなり辛かったのかもしれません。
数年間の中で病気をしながら迎えるのはすでに2回目です。だからこれからは年末年始の予定は慎重にしなければならないと僕は思いました。