携帯チェック。

僕は相手の携帯は絶対に見ない。何にせよ、人のプライバシーをのぞき見ることに妙な誘惑というか魅力というか強い好奇心というか。というのがある。
僕ももちろん例外ではない。ただ、少しだけ僕は他の件で、容易にプライバシーを暴くことができるので、プライバシーには興味が無いという気持ちも若干ある。
例えば僕の仕事では、メールやホームページの履歴について管理することがある。誰がどのページを見ているのか。誰がどのようなメールを送っているのか。もちろんこれらは業務利用という前提があるが、もしプライベートなことをしていても、僕はそのことを知る立場にある。
そしてそれを知ったところで、僕にはなんのメリットも無いし、誰も幸せにならない。大儀名文は仕事に関係無いことをしないさせないことだし、漏洩を防ぐことであり、誰がどのページを見ていたのかを知ることは本質ではない。
だからこそ携帯のチェックも同じようなことだと思う。見ようと思えば見られるかもしれない。しかしそんなことはしない。
すごく誘惑されるのは、相手が携帯を家に忘れた場合。葛藤があるし、そこにあるんだし。。。といって、誘惑が無いわけではない。しかしそれをしないのが暗黙のルールではないかと考えている。
後ろめたいことがあるのか無いのか。それと携帯のチェックは関係が無いと思う。例えば「かわいい」という表現が、前後の言葉で意味は異なるだろうけど、かわいいという言葉だけが一人歩きしてしまい、あらぬ誤解を生じる可能性もある。
誤解を生じる表現のすべてが問題だと言うのであれば、確かにその通り。しかしその誤解というのは、非常に曖昧である。
だから何も無かったとしても、見る・見られるのは双方にとって幸せにはなれないような気がする。
と、そういう話をしたときに、すごく驚いたことがあった。僕は送信メールを見られたときの誤解が怖い。そして友人は、もしくは大多数は受信メールを見られたときの誤解を恐怖しているということである。
タチ・ネコというポジションの違いかもしれないし、単純に性格の違いなのかもしれない。しかしそこには大きな考え方の違いがあるような気がする。
僕の場合は、おそらく受信メールのすべては誤解を生じないと思う。むしろ「色々な人から嫌われてるっぽいけど大丈夫?」なんて心配さえされてしまうかもしれない。それもまた誤解だと思うけど。一方で送信メールは別の誤解を生むだろう。
他の人は、おそらく受信したメールには、色々な口説かれているっぽいようなメールが来ているのかもしれない。だから受信メールを見られるのがイヤだといっている可能性がある。