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2011/10/21 考え(ゲイ関連)

今まで僕が見聞きしたり実際に体験した別れの話。
短期的な恋愛ばかりだった僕にとって別れというのは特に珍しいことではなかった。付き合うことと同じだけ別れがあったのだ。
しかし今のように長期的な恋愛になって、改めて思うことがある。何を理由に分かれるのだろうか。という話である。
もちろんそれは僕たちの別れを言っているのではなくて、長期的な恋愛においての別れの理由・原因というのは何があるのか。という話。
何人かの友人に聞いた話ではあるが、どれもが年齢というか人生の節目としての別れを迎えている場合が多い。前にも少し書いたかもしれないが、それは特に30歳前後で、将来を左右する大きな決断の一つの中に、別れも含まれている可能性である。
あとは、相変わらず多くて男女に限らないのが浮気。誰かが言っていた。浮気は病気。浮気癖のある人はいつまでたっても変わらないと。
短期の恋愛と唯一違うのが、我慢による別れの可能性が少ないことだと思う。またショックが大きいというのも特徴だと思う。特にショックの場合には、かわいさ余って憎さ百倍などということにもなりかねない。
短期の恋愛での別れというのは頻繁に訪れる。行動のすべてが別れる理由となり得るために、何かに原因を求めるのは非常に難しい。
ある人はメールのペースが減ったことを別れの理由にするかもしれない。あまり会えないことかもしれない。思っていたよりもマメじゃないことかもしれないし、生活が自堕落なことかもしれない。お金の使い方が荒いことかもしれないし、誰にでもいい顔をすることが不満かもしれない。会話がつまらないことかもしれないし、服装がダサイことかもしれない。
とにかくそのすべてが、分かれる理由となり得る。
その中でも比較的一般的なのは、会えないこととか連絡の頻度とかだろうか。もちろん浮気などもあり得るが、短期的な(数週間以下ぐらい?)恋愛での浮気っていうのは、さすがになかなか難しいと思う。
1ヶ月ぐらいが過ぎ少し安定してきた頃、このあたりから分かれる理由での原因が考えやすくなるように思う。例えば浮気はそろそろあり得るかもしれない。性格の不一致なども、そろそろ信憑性を持ってくる。
この頃になれば、我慢のピークという意味での別れというのは十分あり得るが、それと同時に、我慢するべきところと、相手の好きなところが分かるようになってくる。ここから1年ぐらいをかけて、長期的な恋愛に発展するのか、やはり我慢ができずに破局を迎えるのは、重要な局面になる。
と、ここから1年以上の恋愛に発展した場合、そこから別れの理由が難しくなる。
1年より手前の場合、我慢のピークというのが、別れる理由になり得ると思っている。我慢しなければならない量が少ない場合でも、その積み重ねがある。少しずつ、少しずつであっても、我慢の限界というのは、何かでリセットされない限りどんどん蓄積する。それが1年で爆発するのか、2年なのかは分からない。また何か別なきっかけで爆発するのかもしれない。しかし我慢のピークというのは、少なからず1年ぐらいの恋愛であれば、あり得るように思う。
一方で1年を超えた場合、我慢のピークというのは、おそらくリセットされているはずである。ってことは、別れる理由として性格の不一致や我慢の限界というのはなかなか無いように思う。事実いままで長期で恋愛をしている人、していた人の話を聞くと、我慢が別れの直接的な原因になることは考えにくそうである。第一別れるほど我慢ならないなら、そんな長く付き合わないよねっていう感じ。
そして最初の話に戻る。
何人かの長期的な恋愛での破局の話を聞くと、数年間つきあった後の別れというのは、例えば恋人のどちらかが、30歳前後になり、将来を見据えたときに例えば転職をしたり、仕事に打ち込んだり。そうなったときに別れを選択したのではないかと思えるような状態だった。
変化が無い人生なんてクソ食らえだし、安定した人生なんて僕はまっぴらである。だけど、人生の大きな選択をするときに、恋人との別れを選ぶというのは、とてもすごいことだし、残酷なことだと思う。僕の場合は、リスクを負うことが日常なので、常にその選択を迫られているということなのだろうか?
少なくとも僕に関して言えば、仕事上・金銭上のリスクは大好きである。だけど少なくとも生活において、恋愛においてはめちゃくちゃ保守的な方が好ましいと考えている。恋愛は命綱のような。そこが安定しているからこそ、仕事でのリスクを負えるのではないだろうか。
僕はかつて、そのような選択、仕事を取るのか恋愛を取るのか。という決断の時に、迷うことなく仕事を選択した。しかしその選択をして、覚悟を決めたときに、恋人ができたという、なんとも皮肉なことなのです。
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2011/10/20 日常

最近仕事が忙しくなってきました。今の会社で仕事をするようになってから、数年が経過しました。重なるときは重なるものですから。このままのペースで年末に突入するのかと思うとちょっと怖い感じもしています。
忙しい。いつもそのように感じている。もちろん日々の中にはヒマと言えるような時間もあれば、そういう日もある。だけど総じて忙しいのだから、どうしても忙しいという感覚しかない。
そうはいっても、僕自身は「じゃあなんのために忙しいのか」という感覚がある。もちろんお金を稼ぐことだって重要だけど、それ以外にも何か大切にしなければならない何か。というのはきっとあると信じているのである。
彼と知り合うまでは、そういういわゆる仕事以外の部分は、ほとんど重要ではなかった。食事ぐらいだろうか。
彼と知り合ってからは、もちろん彼と一緒に過ごす時間やどこかに出かける時間も貴重だと思えるようになったし、そういう生活リズムに変化させていった。
もちろん自分を磨く必要も同時にあるので、ジムに行ったり走ったり。そういう努力をする時間も作るようになった。
しかし冒頭にも書いたように忙しいのだ。仕事が全然終わらないのだ。そうなると、何を優先し、何を省くのか。とても重要なことで、難しいことだと考えている。もともとぐうたらする時間は好きではないので、必ず何かをしていた。それはブログを書くことだったり、運動をしたり、彼と会ったりご飯を食べたり。睡眠時間は固定として考えます。
だからその、どれも省けない行為をはぶかなければならない。それが僕にはとてもつらい。
一応今のところはジムに行くことを省いている。もともと運動が苦手だし嫌いだから、当面はそれでいいかもしれない。しかしそのツケは必ず出てくるだろう。早いうちにジムを復活させる必要があるかもしれない。
食事についても、最近はほとんど作れていない。基本的にスーパーが開いている時間には仕事が終わっていないというのが大きい。
彼と会う時間については、確かに減っているが、それは僕ではなく彼もまた忙しいから。
もはや省けるものがほとんど無くなってきた。土日に会うのをやめて仕事をするしか無いのだろうか。
さて、彼の場合。
彼は優先順位が非常にわかりやすい。まず僕と会う時間から減らすのである。ある意味非常に効率的なその考えは感心する。
最近は学校が忙しいようである。そしてそのために、平日の夜には会えないということを言われた。まあそれは仕方が無いだろう。忙しいみたいだし。
しかしその一方でジムとプールには毎日のように行っているのである。
確かにスキの相対度には差があるので、このような決定になっているのかもしれないし、楽しい順に優先的に考えて、僕との時間を減らしているのかもしれない。
ネガティブな理由だけでなく、週に1回会えば十分じゃんってこともあるかも。
何かを決めた時に、何かをあきらめなければならないことはよくある。トレードオフと言われることだ。
僕と彼はその優先順位に違いがあるようだが、もちろんその決定に不満はまったくない。お互いが無理の無い範囲で、うまく時間を使うことができればとおもっている。
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2011/10/19 ブログ

すいません。ほぼ終日外出していたため、ブログ更新できませんでした・・。
2011/10/18 日常

先日僕は妹に恋人がいることを伝え、実際に彼とも会ってもらいました。僕の所属するコミュニティに妹が来ることは非常に珍しく、ひょっとしたら初めてなのかもしれません。
日頃より、お兄ちゃんは・・・と、非常にネガティブな印象を僕に持っている妹は、僕の友人関係を見て、非常に不思議に感じたようでした。
まず妹が僕に対していつも言うのは、お兄ちゃんには友達ができない。もしできてもその友達は気むずかしそう。お兄ちゃんが理屈っぽいから普通に話をするのは無理。そのようなことばかりなのです。また僕がわがままだから、それに我慢してくれる人ような物好きは普通はいないよ?とも。
さらに妹の中での僕は小学生・中学生のころのまま成長がとまっているようです。幼少期にありがちな、ケンカや傲慢さ。思春期の感情の難しさを抱えたまま僕が大人になったと思っているフシがあるのです。
だから、お兄ちゃんはよっぽど友達の前ではネコかぶってるんだね。みたいな印象だったようです。
彼についても言っていました。彼はかっこいい。なんでお兄ちゃんと付き合ってるのか分からない。もっといい人いるだろうに。そのように言っていました。あまり彼のことについて話をする機会が無かったので、ちょっとした機会に、少し感想を聞いただけでしたが、とにかくそのように言っていたのです。どうせ一時的な気の迷いだよっていうニュアンスも含まれているような感じでした。
とりあえず僕としては、いい子でしょ奇跡がおきたの。というコメントと、棄てられないようにがんばります。とだけ伝えておきました。
おそらく妹と僕の彼が言葉を交わすことは今後もほとんど無いでしょうが、色々と驚かされました。
ちなみに彼の妹の印象は、「よくしゃべる妹さんだね」でした。
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2011/10/17 考え(自分関連)

ゲイはあるときには、ばからしいほど優しい。そしてあるときには、ひどいほどに残酷である。特にそれは、もういままでさんざん書いていることだけど、性的なことになれば、それがとたんに中心になって、誰もを裏切るようなことになるのである。
一方で恋愛には臆病な人も多く、なかなか勇気を出せないという人が多い。勇気がでないのは優しさが邪魔になっていることも多い。
最近特にたくさん聞くようになったので、ここで僕の考えを書いておこうと思う。
まず最近、「○○さんが幸せになるなら自分は身を引く覚悟がある。それが自分の彼に対する想いの大きさ」という趣旨のことを耳にする機会が多い。他の表現方法の場合もあるし、言葉では言わずとも態度がそれを示している場合がある。
そして僕はその考え方については、いまいち理解に苦しむところがある。
他人の幸せを願うというのは、ある意味でエゴではないのかとさえ考えてしまう。自分が安定した立場にいながら、誰かを応援するのであれば、別になんの問題も無い。もちろん、自分が安定していない立場からであっても、他人を純粋に応援するようなこともあると思う。
だけどそれは、自分とは関わらない範囲であるべきだと思う。例えば「勉強がんばってね」というイメージ。自分が勉強ができようができまいが、応援することには、いい成績を期待すること、願うことには何ら問題がない。
しかし恋愛に関しては全く別である。自分の好きな人がいて、その人が幸せになるために、自分が関わらずに応援するなんていうのは、誰のための考えなのか。
好きな人は、タイプじゃない人からいいよられても、別にそれ以上の進展は無い。逆にもし進展があり得るなら、それはそのまま突き進むしかない。この2択以外の何があるというのか。進展がありながら、相手の本当の幸せ(笑) を望むために自分が身を引くなどと言う考えはどうやって正当化できるのだろうか。
2つのことが実現できない場合(ここで2つのことを実現するというのは、二股になってしまう)、必ずハッピーな人と、アンハッピーな人が生まれる。これはもう避けようの無いことである。だからせめて、自分と付き合うことになって、相手がなにか大きなものを失う必要があるとき、それも含めて相手のことを受け止める覚悟が必要だし、本当に表現するべきはそこだと思う。
例えば僕であれば、彼が「かお。が結婚するなら、僕は身を引くからね」といったら、無責任な発言だと思う。ここはやはり「結婚はもう実現できないけど、それ以上の幸せを二人で築こう」でしょう。
僕にしてもそう。彼が僕と付き合うことによって、彼はたくさんのことを失っている可能性はある。だけどそうやって失わせてしまったものと、僕が与えられることを天秤にかけて、それは必ず幸せの方が大きいと信じることが、僕が果たせる責任だと思っている。
結局恋愛では、相手のために何かを考えて行動するのではなく、自分のために行動し、その結果のすべてを引き受ける覚悟が必要。
仕事でもそういうジレンマはよくある。既存の取引のある業者を自分の会社に乗り換えさせる場合、自分たちは競争に勝たなければならない。既存の業者がかわいそうだから、という理由で、積極的な行動を控える必要はどこにもない。ましてや、既存の業者と取引を続けた方がお客さんにとっても幸せだから。なんていうのはバカげている。
自分ができることは、自分の会社に乗り換えてもらった方が絶対にお客さんは今よりも幸せになれるという自信と覚悟だけである。そして結果的に取引が終了してしまった既存の業者は、これを糧に次の勝負に望んで欲しい。それぐらいしか考えられないし、考えるべきでもない。
恋愛においては自分と恋人が幸せになることをまずは第一に考える必要がある。それ以外の第三者が登場してきた時点で、それは本当に重要なことか、慎重に考える必要があると思う。
人の幸せを願うことをエゴと思い、自分の幸せを第一に考えることをエゴだと思う。同じエゴならば、自分の幸せを優先すればいいのではないか。
と、この記事はしばらく前に書いていました。昨日ある日、ケーキ屋の娘に恋をした。 を読んでやっぱり難しいなぁと思いました。出てくるゲイの方は一回身をひいてるんですよね・・。
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2011/10/16 考え(自分関連)

僕がこの年齢になるまでの、いくつかの恋愛に対する経験で、それは僕自身が経験したこともあれば、友人などから伝え聞いた話も含めて。恋愛に対する新しい考え方などは、そうそう無いと思っていた。
それはもう20代の半ばぐらいの頃から、恋愛に関するほとんどのことというのは、体験しているだろうし、またそういう下世話な話はみんな大好き。だから絶対ほとんどのことは聞いている、知っているのである。
恋愛の真理というのがあるのかは分からない。だけど、例えばブサイクでもモテる人がいたり、かっこよくてもモテない人がいたり。そういうパターンというのは存在する。
そしてそのパターンというのは、恋愛においてはおそらく、他の色々なことを比べたとしても、単純なことに分類されるように思う。例えば料理は千差万別であるように、国によって明らかに特徴があるような。しかし恋愛は、動物も人間も国籍も男女も関係無く、統一的な概念が存在している。
それはおそらく欲に直結していて、ゴールというのが、大小の違いなどがあるにしても、存在しているからではないか。
暴力だったり、ケンカだったり浮気だったり。はたまた借金だったり。仕事だったり性的なことだったり。趣味のことだったり。そういうありがちな話を、恋愛のことでは対象を変えて、ぐるぐると回っている。しかしそれでも常に他人のそういう話はおもしろい。
そのように考えていたので、恋愛に関する話というのは、ほとんど新しい発見は無いと思っていた。
しかし最近になって、新しい話を聞き、それがまたとても驚くような内容であった。
それが、合う部分と合わない部分の話である。
趣味や嗜好の好きな部分がたくさんあるから好き。という場合もある。しかし場合によっては、嫌いな部分が一緒だから惹かれる場合もある。
人を好きになるとき、趣味や考え方の好きな部分での共通点をまずは見ることが多い。(容姿はとりあえず置いておく)
共通点においては、別にそれでいいと思うが、そこから発展する恋愛は長期的に見て厳しいことが多いという話である。
一方で、好きな部分での共通項が少なくても嫌いな部分での共通項が多い場合もある。ファッションにお金を使いたくないとか、ゲームは嫌いとか、料理はしたくない、とか。
そして長期的な関係を築こうとした場合に、この部分の共通項は非常に重要である。ということだと思う。
僕自身は聞いただけなので、本当にそのことを言っているのか分からない。だけどそのように解釈した。
なぜこれが僕にとって非常に納得できたのかといえば、それは僕と彼の関係がまさにそれだからである。僕と彼の共通の趣味などはホントにゼロに近い。唯一彼が最近になってバイクの免許を取得したので、一緒にどこかに出かけるぐらいだと思う。あとは旅行なども、僕は “後から” 好きになったので、これも今となっては結果的に共通項かもしれない。
しかし知り合ったときのことは、すでにブログに書いたが、話はかみ合わないし、これと言った何か魅力的なものも感じられなかった。
そして最初は、好きだと思う部分も、嫌いだと思う部分の共通項もほとんど存在しなかった。むしろ僕の好きな部分は彼が嫌いだったり、彼の好きなことは僕が嫌いだったりしたのである。
知り合ってすぐに、彼は僕が嫌いだと思う部分を修正してくれたので、結果的に嫌いだと思う部分が共通項として、初期の段階で確立された。それはさんざん書いているが、掃除・料理・歯のこと。”掃除が好き” ではなく、”汚いのが嫌い”というイメージ。
僕が彼のどこを好きかと言われると、例えば話が合うとか、一緒にいて楽しいとか、そういう表現はいまいちしっくりこない。どちらかと言えば、長時間いることが苦痛にならないとか、そういうゆるい感じ。
その実感は、友人に言われたように、好きな部分よりも嫌いな部分が共通していた方がいいという話に近い気がする。
だから付き合って初期の段階で、そして長期的な恋愛を考えるのであれば、なるべく嫌いな部分についてお互いの共通認識を持ち、それが一致していることを確かめることができた方がいいのではないかと考えている。
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2011/10/15 考え(ゲイ関連)

おそらくゲイ雑誌として、僕の年代にもっとも有名なのは、バディだと思う。今でこそ、出版物というのは、新聞をはじめとして、かなりの部分が苦戦している。ファッション誌などもそうだし、週刊誌もそう。
出版業界が不況な理由は別な人の考察にゆだねるとして、ゲイ業界の出版物も非常に厳しいのが現状だと思う。
かつて、僕が活動を始めた頃、インターネットはそこまで活発ではなかった。せいぜい掲示板を利用した出会いが主体であり、例えば動画を見るようなことは、技術的に不可能だった。テキストのやりとりが主流だったのである。もしくは写真のような静止画。
そのような時代にあって、ゲイ雑誌というのは一定の役割を持っていた。例えば僕が聞いた話では、田舎であったり都内近郊に住んでいる人。そういう人でも、なぜか近所の本屋には、ゲイ雑誌がおいてあったというのである。
近所の本屋では近隣の目があるので、わざわざ隣の駅に行って買ったという話。そして書いてある内容を読んでは、自分が決して一人ではないということ、異常ではないということに安心し、勇気をもらったと言うのである。
またそのような雑誌が自分の住んでいるような田舎にもおいてあることを知って、きっと本が売れる=近所に仲間がいるという、勇気ももらったと言う話を聞いた。
そしてその本は部屋に隠されることになり、それがまた別の物語を生むのだが、それは今は割愛する。
もちろん勇気のためだけに本を買うわけではない。当時はアダルト向けとしての雑誌の役割もあり、今のように動画などが自由に手に入らなかった時代。本に掲載されている人たちをみて、日夜いそしむというのが、一般的な光景だった(らしい)。
僕も20歳で活動をはじめて、最初の頃に知り合った友人は、雑誌を買う人と買わない人にわかれていた。例えば新宿から遠い人、距離や精神的に。は、買う人が多かったように思うし、買わなくても新宿で立ち読みすればいいとか、よくいくお店においてあるとか。そういう人もいた。そして僕のように興味が無いという人ももちろんいる。
※ちなみに僕は、オカズはほぼ完全に男女ものだったので、そういうことにはあまり関心が無かった。また実家だった僕は保管・処理方法を考えただけでも大変であった。
最近の事情というのはあまり分からない。だけど、ほとんど買う人はいないように思う。あんまり聞いたことがない。
昔はコロコロコミックのような、不格好で分厚い雑誌だった。しかし最近はもっとスタイリッシュになって、かなり見た目にも買いやすいようになったと思う。
内容は相変わらずちょっとアダルトに寄りすぎているような気もするが。。。
バディ。みなさんもいかがでしょうか。
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2011/10/14 考え(ゲイ関連)

まずは 【更新】ホームズはあの時何を思ったか。 を参照してください。
この記事の中で、片思いの相手を分析する要素として、姿見があること、おしゃれであることを挙げて、
> 彼は僕がゲイだから離れていったのか
という記載がありました。
当然のことながら、僕はその細かいシチュエーションは分かりません。しかし上記の2つの要素(姿見とおしゃれ)は、僕がかつて記事にもしたことがあります。
しかし重要なことがもう一つあります。
それは友人関係を持つことが難しいという話。
このブログを書き始めて最初のころ、僕は「男と男の友情」という話を書きました。僕自身は男女に友情を持つことは非常に難しいという意見を持っており、その根幹には性的な対象になり得るからということを書きました。
そして当然恋愛対象が男性であれば、男性同士の友情も(特にゲイ同士)の友情も芽生えにくいと思っているのです。
注意しなければならないのですが、決して実現しないと言いたいのではありません。実現しにくいという話です。ノンケといわれる人たちでも、同性で、親友といえるほどの関係になると、それが好きという感情と混同・勘違いすることがあります。
そうだとすれば当然ゲイも同じことでしょう。つまり究極に仲がよくなって親友と言えるほどの立場になると、次はどうしても恋愛という要素がでてきてしまい、やっぱり友情関係というのは難しいのではないかという話です。
あまり最初に挙げたブログに関係が無くなってしまいますが、僕の中で前掲のブログには、姿見・おしゃれ・友情関係がなりたたない。というゲイの要素を非常に強く持っているような気がします。
それが、「僕」のセクシャリティや離れていく理由とどのように関係するのかは、全くわかりません。そんなことは本人しか知り得ないでしょう。
しかしその片思いをしていた人というのは、ゲイとしての要素を色濃く持っていた。そのように断言してもいいのではないかと思うと同時に「僕」さんが惹かれるのはなんとなく理解できるところでもあったのです。
※こういう書き方をすると、じゃあ「僕」さんはゲイとしての要素をもっている彼が好きだったのか、それとも彼だから好きだったのかという命題が生じるかもしれません。僕としてはそんなことは一切関係がありません。ただただ、その彼がゲイとしての要素を少なからず持っているというだけの話です。
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※次は10/15(土) チキチキ♥ゲイタン体育祭 を行います。
参加希望の方はメールください
2011/10/13 カップル(彼関連)

ゲイタンカフェの日、三連休だったために僕は彼と旅行に行く計画を立てていた。正直なところ、これから年末にかけては、おそらく激務が予想され、その激務は毎年すごいことになっているので、今から心配なのである。
その前の旅行でもあるし、バイクで行けるのは今シーズンはおそらく最後。だからバイクで外出。とても大切な、そしてぎりぎりの日程だと僕は考えていた。
そしてその日はゲイタンカフェと同日なのである。究極の選択とまでは言わないにしても、どちらも大切なのは言うまでも無い。
もともとカフェでは幸いなことにお酒を飲まないので、バイクで参加し、そのまま旅行に行けばいいと僕は考えていた。場合によっては、彼は電車でカフェ行って二人乗りで目的地に向かってもいいだろう。
しかし当然といえばそうだが、彼はそれに難色を示した。彼は一緒に電車で行って、自宅にバイクを取りに戻ろうというのであった。
カフェに行くまでに1時間かかる。取りに戻ってから目的地に行ったのでは1時間以上のロスになる。
そして宿泊地も今考えれば問題があった。ペンションで食事付きなのである。ホテルでの宿泊であれば、チェックインを遅らせることは簡単にできる。しかしペンションで食事付きだと、夕食の時間というのが設定されている。
だから当然、カフェを切り上げなければならない時間というのが、逆算すれば出てくる。カフェに滞在する時間を長くするためには、最初に書いたように移動の時間を削らなければ、カフェに早い時間から参加するか、カフェを早々に切り上げるかのどちらかしかない。そしてカフェが13時から始まることはすでに決定している。
そして結局、カフェを早々に切り上げ、さらにペンションに少し遅れて(30分ぐらい)到着するということになった。僕としては判断の過ちが、どちらも中途半端になってしまったいい例だと思っている。
旅行ではケンカが起きやすいというのは過去にも書いたとおり。今回もあまりスムーズではなかったそれらの時間配分の結果、精神的には100%平穏というわけにはいかなくなってしまった。
時間に追われていると、一つ一つの行動に焦りなどが出てくる。それが次のミスへとつながるのはよくあること。だから僕はたとえどのような何かがあっても、基本的にそれが次の行動の判断につながらないように、すごく慎重に行動しているつもり。
と、そんなことを言いつつも、高速道路の降り口を間違えた。ちなみにこれは時間的に焦っていたことが原因というよりも、単純に道が分かりづらくて間違えたんだけど、それは言い訳と受け取られても仕方ないだろう。
※ちなみに、降り口を間違えたというよりも、高速道路の乗り換えに間違えました。通常、例えば東名高速から首都高に乗り換える時や、他の有料道路に乗り換えるとき、走行車線に気をつけていればそのまま乗り換えることが可能です。しかし小田原厚木道路については、一度降りてから乗り換える必要があり、出口で一度降りなければなりません。ということで、案内版を見ていても、それに気づきませんでした。
その結果として、なんでこんなに1分1秒を急いでいるときに道を間違えるのか。後ろを走ってたけど、あれで間違えるなんてあり得ない。そういう趣旨の発言がある。
僕はさんざんブログで口うるさく書いているが、ミスを責めるこはしない。ミスはそれに悪意が無い限り、運用や仕組みの問題だと考えているから。しかし彼は常識に基づく判断を重視しており、今回のミスは常識としてあり得ないということなのだと言う。
「間違えないように気をつけよう」そのように思うが、自身としてミスをした自覚がないのだから、どうにも難しい。
そして帰りも。帰りは高速道路で向かう方面を間違えた。降りるときのミスは、ナビの音声を無効にしており、「音声に従わなかったことが原因」だと一応改善点を考えた。そしてそれは彼もナビの音声案内を聞くべきだということを言っていた。
そして帰り。音声の案内に従っていたら、向かう方面を間違えた。結果的にすぐに気づいて降りたので100円~200円前後の損失で済んだが、それでもやっぱり時間も金銭も無駄な、そして絶対に間違えようのない道になっているのに、なぜ間違えるのか。ということらしい。
もし僕自身が反省することがあるならば、一つは時間に余裕を持つべきだということ。そもそも普通のホテルに宿泊しておけば、いくら遅れても大丈夫だったはずだし。ペンションならもっと近場にしておけばよかっただけの話である。そこまで考えを巡らせられなかったのは完全に僕の責任である。
それからもう一つ。ツーリングは行かない方がいいのではないかということ。どうしても二人でのツーリングは、僕のミスが彼にも影響を与える。二人乗りであれば、彼には実質的な影響は与えないが、2台で行くからどうしても実害を与えてしまう。
そして僕はミスはほとんど気にしないが、彼はミスにもだいぶ気を遣う。僕が前を走るのに、僕がミスを気にしないというペアは絶対に相性が悪いと思う。彼が前ならいいのかもしれない。そもそもミスが起きないように慎重にするだろうし、万が一ミスが起きても、僕は全く気にしないし。
しかもそれが現実にうまくいっている先例がある。それがスキーや電車等の交通機関を使う旅行である。
スキーは、彼が主導で色々決定している。僕はそれに従うだけである。ミスはほとんど起きないし、もしミスが起きても、僕はまったく気にしない。今まで何度となくスキーをしたがそれで問題が無かった。問題を含んでいる可能性さえ考えたことも無かった。
旅行もそう。交通機関を使って行く旅行は、基本的に彼が主導で、そして今まで問題はほとんど起きなかった。
しかしバイクが問題。バイクは前回のトラブルの時もそうだった。そのときは僕が彼に運転の乱暴さを指摘して険悪になった。今回は僕が道を間違えて。
バイクごときで二人の関係が崩れるとはみじんも思わない。しかし大きなトラブルに発展する前に、小さなトラブルで食い止めることは非常に重要だと思う。幸い今のところは、バイクというアイテムさえ無ければすべてが順調である。バイクがあるから悪いのだ。もしバイクを持っているせいでそのようなことが起こるなら、僕は当然彼との継続を優先する、だからいつでも処分する考えだ。
これがネガティブなことに読み取れるかもしれない。しかしそうではないと僕は考える。
バイクというアイテムがあったおかげで、ミスに関する彼の強い気持ちを知ることができたし、計画を立てそれを徹底して実現するという彼の性格の一面も知ることができた。さらにそれが、大枠だけを考えておき臨機応変に、というよりも適当な感じで枠組みの中で自由に行うという僕の行動とは相性が悪いことも知った。
そして個別に考えるとその行動様式は相性が悪いが、行動や決定においては僕が彼に従属的に従うことは、とても相性がいいことも分かった。
何年も一緒に過ごしても分からないことは無数にある。でもだからこそ、こうやって小さなトラブルの中から、大きな教訓を得られることに、得られたこと、それを生かすことが重要だと思っている。
とりあえず今シーズンはもうバイクでの遠出は寒くてできないでしょうから、来シーズンにどうなるかですね。
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※次は10/15(土) チキチキ♥ゲイタン体育祭 を行います。
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2011/10/12 日常

あれ?ブログを始めてからそろそろ1年じゃない?突如そう思ったのが 10/5のこと。すっかり忘れていた。1年はやっぱりあっという間だった。そしてブログを始めてからの1年は変化の多い年であった。
1年前の10/12。忘れもしない。
僕は日々の閉塞感から、何か新しいことをやりたいと常々考えていた。そしてそれが、最初の記事に書いてあるように、今までの自分を振り返って、自分の過去のことや、ゲイ業界に対する思いを書こうと決めたのであった。
最初はアメブロで書いていた。そして表現方法でやや直接的な事も多かったためか、アメブロの規制にひっかかることも多々あった。
コメントもたくさん頂いた。特にアメブロでは毎日たくさんのコメントがあふれていた。
いくつかの厳しいご意見も頂いた。僕としては、それらすべてに真摯に向き合ってきたつもりである。
FC2に移ってからは、表現方法ではあまり気にする必要がなくなった。そもそも規制もあまり無いようだし。コメントや読者さんとの距離感も、アメブロとは違い、適切だと思えるようになった。
1年間、ほとんど休み無く書き続けることができたのは、もちろん自身の努力もあるし、書きたいと思う事がたくさんあったというのもある。そしてなによりも、読者の方が数多く居てくださったというのは、すごく重要で大きな要因だったように思う。
そして書きたいと思える事は、だいぶ書くことができた。過去のことについては、おおざっぱではあるが書くことができたと思うし、僕は満足している。あとは将来のことを少し書いて、年内にはこの形式での更新方法には区切りをつけたい。
年明けからは、更新のペースを落とし、日常の報告に留めるようにしようかと、現段階では考えている。
ブログを書くようになってから、交流をする範囲がまた少し増えた。もともとコミュニケーション能力が高い方ではないし、社交的でもないので、ブログの更新が落ち着いたら、少しこの辺も落ち着けようかと思っている。「彼と二人で細々生きていきます」みたいな感じ。
ブログの更新は、ネタがあるときは全然苦痛じゃないが、やはりネタが減ってくると、苦痛とまでは行かなくても、大変ぐらいには思うようになった。そして自分が積極的に書きたいことを書いている頃と違い、ランキングなどでも確実に反映されてくるし。
ただし日常を描く事の多いゲイブログの中で、考え方や実態を書く僕のブログは一定の役割を果たすことはできたのではないだろうか。という何となく自分勝手な思いはある。
よく他のブログでは、ブログを書くと考えが整理されるということが書いてある。僕の場合はあんまりそんなことはない。どちらかと言えば、自分の中で整理できてからの方が書きたいと思うので。そう言う意味では、整理できていることから順に書いていくと、徐々に整理されていることが頭の中に無くなってきた。だから後半の方の記事では、いくつか、今読み返しても、あまり納得のいかないような、若干漠然とした記事もある。(別にそれも自身はイヤじゃないですが)
それにしても、よく続けられたなっていう気持ちもありますが。
変化の多いこの業界で、僕は相変わらず彼と仲良くできている。何回か書いたが、次の変化は彼の就職。この頃にはまた、何らかのご報告をすることになるかもしれません。就職後も引き続き幸せでいられることを、切に祈っているけど。
どのぐらいの読者の方が、この1年間で書いた過去の記事を読んでいただいているのかは全くわからない。常に新しい読者の方に入れ替わっているのかもしれないし。昔からずっと読んでいただいているかもしれない。途中から読み始めて、過去記事をすべて呼んでいただいてる可能性もある。
どのような読者の方であっても、読んでいただいている方々のことは常に意識しているし感謝している。僕はエゴにまみれているので、ブログもまずは自分が楽しいことが一番。しかしその次には、読者の方に楽しんでいただけることも重要。
とりあえずこの形式での更新は、年内を一応の区切りとしようと考えています。あと早いものであと2ヶ月ですが、引き続き応援をお願いいたします。もちろん来年も細々と更新は続けますよ!
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