人見知り・コミュニケーションが苦手という話。

僕のことを書こう。先日のゲイタンを通して、このブログの読者に多少の変化があったかもしれない。今まで、書き手としての僕は読者を具体的に意識することはなく、僕自身の気持ちを全面に押し出していた。
もちろんこれからも、顔が思い浮かぶ読者とともに、顔の思い浮かばない大多数も今まで通り楽しんでもらえるようにがんばっていきたい。
今回、Times Online Sociology: Entry 015 G-noveau2011 in Osaka(後編)というブログの記事を受けて。
たくさん色々なことが書いてあるが、僕はその中で「人見知り」という部分を取り上げたいと思う。
僕も人見知り。と書くと、僕のことを知っている人は、また大げさに書いていると言われてしまう。そう。僕自身は誰かとある程度の時間をコミュニケーションを取りながら過ごすことは全く問題がないし、それは他人から見たときに、非常に楽しそうに見えるし、楽しんでいるように見えるハズ。
若干、もしくはそれ以上に僕の会話の方法は強引なこともあるので、そういうスタイルのコミュニケーションを苦手とする人は多いと思う。
僕自身は、こういうことを書くと理解いただけない可能性もあるが、非常に会話が苦痛である。きらいである。苦手である。多少それができるからまた問題でもある。もし見知らぬ人たちと会話をして、その場で仲良くなったとする。確かに最初の緊張とは違い、後半ではだいぶリラックスできるようになる。
しかし自宅に帰ってから、どっと疲れが出てくるのである。ひどいときには、またこういったコミュニケーションが続いた場合、ひどいときには熱が出て頭痛がするときもある。
これはもう僕の性格だと考えている。
その理由は、単純に怖いというのがある。色々な人からの意見を聞けるとき、それはとても有意義である。もちろん僕自身とはまったく意見が違う場合もある。そして考え方が違うことは僕の場合は非常に多い。
諭すようにしゃべる人もいれば、意見を述べるだけにとどまる人もいる。経験から述べる人もいれば、理想を述べる人も。厳しい意見もあるだろうし、賛同してもらえる場合もある。そのどのような手法・内容だったとしても、非常におもしろいことだと思う。
僕自身も同様に、様々な意見を述べる。それはもうこのブログに書いている通りでもある。
このとき、お互いの認識が一緒であれば問題無いし、ほとんどの場合がそうである。意見という意味では、何を述べてもいいし問題は無いはずである。しかしそのようにしていると、意見と人格が同一としてとらえられてしまうことも多くあります。もちろんそのほとんどが、同一なのは事実ですが、必ずしも持っている意見と、それに伴う行動が一致していることはないだろうし、意見は誇張されている可能性だってある。
もちろん誤解を与えないような、静かな意見を自身が述べればいいのだろうが、やっぱりそんなことはできない。それは性格の部分だと思う。
すると、僕が会話を始めるそばから誤解が生じる可能性がある。そしてそれは、もうずっと前からそうであった。いまだにそうである。
でも僕は自分のそれでもいいと考えている。だって今までだったらそんな「性格だからいつまでも一人なんだよ」なんて言われたら本当にその通りだった。でもいまはこんな性格でも恋人がいるんだからいーじゃん。っていうよりも、この性格のおかげで見つけられたんだと考えるようにしている。そう考えたら、こんな性格でもいいじゃないかと。
ちなみに参考で挙げたタツヤさん。その数日後の記事で、頻繁に訪問者がいたという記事が書いてあった。ううんどこが人見知りなんでしょうか。不思議です。
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