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2011/08/31 日常

先日の土曜日にゲイタンヌーボーが行われました。
僕は当日の朝に新幹線に乗って、東京から大阪に向かいました。
ゲイタンの趣旨や内容については、すでに1回目の東京のこともありますし、よく知っていました。参加者については、今回の場合三分の一ぐらいが会ったことのある人だったと思います。
またTwitterで交流があるけどもまだ会ったことが無い人が数人いました。全員で50人近くの方が参加される会であったため、全員の方を把握するのはとても大変でしたし、少ししか話すことができない人もいたと思います。(まったくしゃべれなかった人もいますし)
今回のゲイタンでは、BBQをやって、水鉄砲を使って遊んで、スイカ割りをやって。。。という予定でした。
夜はスーパー銭湯に行って、大部屋でみんなで泊まりです。

翌日の日曜日は、大阪の観光をしました。このとき、初めて天王寺・通天閣に行きました。
BBQ では、途中で雨が降ってきてしまいました。
降水確率は30%程度で、まずまず降らないと思っていたのです。しかし結果的には非常に強い雨が降ってしまいました。後数時間でも遅ければなぁというところでしょうか。もちろん天気のそれは残念ではありましたが、結果的にはとても強い印象として記憶に残りましたし、スイカ割りなどを楽しむことができました。
みんなでわいわいやっていると、BBQはきっかけの場であり、雨が降ったとしてもコミュニケーションにはまったく支障はありませんでした。むしろみんなが雨宿りをするために一カ所に集まるので、むしろ会話がしやすくなったかもしれません。
夜になると、スーパー銭湯に行きました。しかしゲイ同士でスーパー銭湯というのは緊張しますねw
その後は宿坊というところに宿泊。修学旅行のように、大部屋に泊まるのはずっと楽しかったです。時間を使ってワイワイしゃべる環境はなかなかありません。だいたいそういうときはお酒に酔ってしまうので、長時間しゃべることはできないものです。
大部屋では、修学旅行の時には恋愛のトークだったように、今でもその手の話は尽きない者です。しかし僕はやっぱり夜は眠いのです。早々に布団に入ってしまいました。
翌日はリバティ大阪と天王寺。
僕は今まで天王寺に行ったことがありませんでした。僕には新世界はお勧めだと、友人からよく言われたのですが、その意味がなんとなく分かった気がしました。
リバティ大阪では、人権や差別に関する展示を見ました。(マイノリティがどうのこうの、、、という意味で見に行ったのではなく、とさつに関する展示があったことや、なかなか通常の観光では行かないという理由でここになりました)

と、二日間で大変に濃い日を過ごしました。ほんとに知恵熱出そうになるぐらいでした。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/08/30 考え(自分関連)

ゲイタンヌーボーが行われました。
BBQを行い、記録的なゲリラ豪雨に見舞われ、水鉄砲を使いスイカ割りを行って、楽しい1日を過ごしました。
その中でとても驚くことがありました。
一つは、僕に直接話しかけてきてくれた人がいること。僕はブログをこうして書いていますが、その話題の数々は、決していろいろな人に受け入れられるような話を書いていません。どちらかと言えば、自身がこれからの30代を迎えるに当たって、なるべく有意義となるように、より思慮深くなれるようにという気持ちから20代の経験をまとめるように書いてきました。(このことは他の記事でも書いていますので重複していましますが・・)
だから今まで特にゲイタンを通してもそうですし、ブログを通じて知り合った方でも、ブログの文章から得られる印象と、僕自身の印象は大きく異なり、そしてそのギャップを、(良くも悪くも)乗り越えていただくことが最初のステップとなっています。
読者の方も、ブログを通じて知り合っていることが非常に多く、会ったときには、改めて読んでいることをアピールするのも、僕自身がブログを書いていることを主張するのも変な話です。
もちろんブログが中心ではない、何かの会で知り合った方の場合、その方が僕のブログを知っている可能性というのは非常に低いのが現実ですし、事実です。
そんな中で「かおさん。いつもブログ読んでます」といって話しかけてくれる人がおり、そしていくかの記事についての感想を言ってくれました。僕にはこれが大変驚きました。もちろん同様のことは今までにも何度か合ったと思いますし、都度そのたびに驚いていました。
しかし最近は、ブログを書き始めた頃とは違い、やや記事の濃度が薄くなっているような気もしていて、その中でのことだったので、驚いたというのが一つ。
さらに、今回のゲイタンヌーボの参加者で読んでくれる人がいるんだー。。。っていう不思議な感覚でもありました。
またとてもうれしいことに、僕のブログの記事をとても丁寧に読まれていて、尊敬やあこがれという表現が適切ではないかもしれませんが、なんというかそういう姿勢で話しかけてきていただいたというのは、とても驚きで、うれしいことでもありました。
他の方との会話の中でもびっくりしました。
僕はゲイタンの終わった日、ゲイタンで手配していただいた宿にみんなで泊まりました。このときもちろんまだ酔っていたのもあるのですが、Twitterの記事を書きました。(支離滅裂であるという指摘を受けました<もちろん自覚もありますが・・>ので、近日中に書き直します) を書いていたとき、「ブログやっているんですか?」という質問を受けたのです。この記事の最初にも述べたようにぼくは「かお。」ということで自己紹介はしていましたが、ブログのことは特に何も言っていませんでした。その中で「なんて言うタイトルですか?」という質問で「過去の日常です」と答えたところ「マジですか!知ってる!」という流れだったのです。
読んでもらっているというのを直接自覚できるというのは、とてもうれしいことだというのに気づきました。
書き始めた頃から僕は一貫して、「自分勝手」を重視してきました。コメントはあってもいいしなくてもいい。読んでくれる方はいてもいいし、いなくてもいい。もちろんいてくれればうれしい。そのようなスタンスだったのです。もちろんそれは今でも継続して考えていることは事実です。が、そうやって直接自覚できるのは、ただうれしいだけでなく、とてもうれしいということに改めて気づきました。
だからもし、皆さんが僕以外でもブログを書いている方とお会いするときは、ぜひ積極的にブログのことを話題に出してあげるといいかもしれません。
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2011/08/29 考え(ゲイ関連)

好きという気持ちを伝える方法には様々ある。一般的とは言わないけど、ゲイの世界にはその伝え方に男女の場合とは違う方法があるように思う。
一般的に男女の場合、好きとか付き合うっていうことは、数回のデートの後に伝える事になる。そしてもちろん、プロセスの中でのデートというのは、付き合うことの合否を決めるのにとても重要な役割を果たすし、重要なステップであると考えるべきである。
会話が楽しいかどうか。というのはもちろんのこと、エスコートや誘導の方法、プランの内容まで色々と精査されるのである。もちろんすべてが成功である必要は無く、価値観をそこですりあわせることが重要だと考えている。
しかし男性の恋愛の場合、もう少し直接的でゴールまでの道のりは近い。また特にゲイコミュニティの中でのコミュニケーションの場合、オールなどで一晩を健全・不健全に過ごす機会も多く、それもまたゲイの恋愛を象徴しているように思う。
自分が相手のことを好きだとアピールする場合、それを表現する方法は様々である。男女の場合はトーク力が重要かもしれないし、男性の場合には容姿も棄てがたい部分である。そして自分が好意を寄せる相手に、常に隣にいるという方法を取ることもあれば、逆に好意を寄せている人とのコミュニケーションを遠慮がちになってしまう場合もある。
ゲイの場合には遠慮がちの場合は、非常に厳しい結果が待っている。コミュニケーションを取ることができなければお互いに脈なしと判断されてしまう場合がほとんどである。人にもよるが、いわゆる「待ち」の状態になってしまう。だから永遠に仲良くなることなどできない。
積極的にコミュニケーションを取る場合。これもまた難しい。タイプというのはそれぞれである。たとえば僕がすごく好きな人に積極的に話しかけたとしても、相手が僕のことをタイプじゃない場合。そのときはどうすればいいのだろうか。逆に相手が積極的に話しかけてきてくれても、僕がその人をタイプじゃない場合もありえる。
いちいち気にしていたら会話などできない。だけどいちいち気になるのも事実である。
僕自身の場合はスイッチが切り替わるときがある。好きとか嫌いが関係なく、好き勝手話せる場合や人。逆にどうしても、、、そして絶対意識してしまってうまく話せない場合がある。もちろんうまく話せないというのは、気の利いたことやおもしろい会話ができないか、場合によってはまったく会話ができないという意味で。
相手が僕のことを、普通に話をすることも嫌悪している場合、さすがにそれはすぐに分かる。このときには会話がほとんど成立しない。
だけど、好いてくれている場合と、嫌っている場合の態度はすごく共通しているように思う。よそよそしいことと、話が続かないこと。このときに、僕はもっとがんばってアピールをするべきなのか、それとも早々に見切りをつけるべきなのか。
逆もそう。話しかけてきてくれるのに、うれしさとは裏腹に会話が続かないことがある。あんまりベラベラしゃべって印象を悪くしたくないし、緊張しちゃって何を話ししていいのか分からない。どうでもいい人の場合には、適当にあしらえばいいだけだし。
と、僕自身の場合には考えてしまう。
逆にそういう場面を目撃したとき。もっと押せばいいのにとか、それ以上積極的に押しても無意味だよって、当事者じゃ無いから必要以上のことまで読み取ってしまう。
男女の場合に、強い押しはたまに報われることがあるのに対して、男性のそれはほぼ報われないのが非常に残酷に思う。
そうなんだけど、やっぱり自分の好きって言う気持ちと相手の好きっていう気持ちがすごくぴったりの時にうまく行くのが一番幸せだよねっていう話。
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2011/08/28 考え(自分関連)

Twitterでつぶやくことがないという話を聞いたことがある。それは非常によくわかる話でもある。日々変化など無いし、いわゆるくだらないことをつぶやくことに、あまり積極的になれないというのも非常によくわかる。
じゃあ。
くだらなくない日々・・・楽しいイベントに参加しているときにはつぶやく量は多くなるのだろうか。もしくは楽しいイベントに参加したあと、たとえば翌日とか、みんなと別れてからとか。に、つぶやく量は増えるのだろうか。
確かにTwitterを見ているといくつかのパターンがあるように思う。
今日は○○の日!とつぶやくことから始まって。電車に乗ったとか、合流したとか、これからどこに行くとか、○○さんが○○してるとか。そういういわゆる現在をつぶやくことはある。
ここで思うことがある。何もない日々につぶやくつぶやきが、くだらないことならば、何かがあった日につぶやくのは結局何かが合った日につぶやくくだらないことなのではないかと。
結局くだらないことを、常につぶやいているのだとしたら、僕は何もない日のくだらないつぶやきを見ていたい。
僕自身の話。
僕は確かに毎日くだらないことをつぶやいている。しんどいとかっているネガティブなこともあれば、これから外出とか、今日もがんばったから帰る!とか。もう誰かに指摘されるまでもなくくだらないことをつぶやいている。
そして何かのイベントの日。僕はまったくつぶやかないのである。楽しいからつぶやかないとかって言うと、色々と誤解を生みそうなのでそうは言わない。
だけど、何かをしている時はあまりつぶやこうとは思わない。
特に僕の場合、これから○○してきます的なつぶやきはどうにも抵抗意識を持ってしまうぐらい。
みんなでくだらないことをつぶやいて、一緒に楽しみませんか。
※驚くことにTwitterのアカウントを持っていない人がいる。そんなもったいない。ぜひアカウントを作って僕のことをフォローしてね!
2011/08/27 日常
2011/08/26 考え(ゲイ関連)

この世界では長期的な恋愛を実現することが難しいことは確かずいぶん前に書いたと思う。しかし最近は、比較的長い恋愛をしている人が多いのではないかと思うこともある。
ただし若い頃というのは、次から次へと恋人ができるし、場合によっては付き合っている最中にも候補として、次が待っている場合もある。
そういう恋愛なので、Aさんと付き合っているのかという認識だったらいつのまにかBさんに変わっていたということはあり得る話である。そして僕はその事実を知らずに、Bさんに変わっているにも関わらず、まだAさんと付き合っているのか。ずいぶん長いな。と。
また付き合っているかどうかを知る手段が昔に比べて増えた。昔はそれを知る手段はほとんど無かった。結局は本人の自己申告である。しかし最近はTwitterやmixiそのほかで申告すれば、それは当事者だけでなく、そのページを閲覧できる人が、その事実を知ることができる。
その辺が昔と違うところである。だからAさんもBさんもCくんもみんな恋人いるのかー。っていう印象を持つ可能性もある。
しかしそれでもやっぱり、様々な年齢の人たちが、それぞれ恋人と楽しそうにしているところを見ると、すごいなぁとかつての自分と重ねて、考えてしまうのである。
長期的な恋愛が難しいのはいろいろな理由がある。もちろんそれは制度としてのこともあるかもしれない。だけど、やっぱり肉体的なそれと、お互いの主張も大きな原因ではないかと思う。
いろいろな人がいる。たとえば毎日連絡が欲しいという人。たとえば常に一緒にいたいと言う人。インドアで常に室内がいいという人。外で遊びたいと言う人。お酒が好きだったり旅行がスキだったり。音楽だったり、映画だったり。
趣味については、長期的な関係を築くことにおいて重要なのだろうか。知り合うきっかけにはなるかもしれない。でも長い関係を築く場合にはどうなのだろうか。
ちなみに僕と彼の場合は、趣味はまったく一致しないし、好きなもの・こともほとんど一致しない。
長く続く人たちのパターンというのを知りたいが、まったく分からないというのが本当に正直なところ。ただし、いくつか当てはまりそうなことがあって、それが20代後半ぐらいから、長期的に付き合う可能性が出てくるというものである。
たとえば僕の何人かの友人で、もちろん当時もあまり続かなくて、今もあまり続かないという人はもちろんいる。
だけど何人かの友人は20代半ば~後半ぐらいになって、恋人を見つけ、少なくとも数年間の恋愛をしている人がいる。こういうのはとても気になる事例である。そしてこれは僕にも当てはまっている。
たとえば僕のことを言えば、年齢があがるにつれて、遊びにくくなったというのは事実である。昔は頻繁に(肉体的なことは別としても)お酒を飲んだり、ご飯を食べたりしていた。その結果として恋人をないがしろにしているような印象を与えてしまったかもしれないし、付き合っている人の存在は遊ぶという意味では重荷だったかもしれない。そういう考えが態度にでて・・・というスパイラルを生んでいた可能性はある。
また、それを実現できるだけの時間もあった。今は仕事も忙しいし、新しい刺激よりも既存の関係を深めることが重要だと考える自分もいる。でも当時は違った。
あとは何よりも、落ち着きたいと自分自身が考えるようになったというのもある。
友人たちがすべてそのパターンなのかは分からない。ただ、落ち着きたいという気持ちは個人差があるにせよ、やはり年齢とともに強くなっていく傾向があるように思う。そして肉体的にも精神的にもそのバランスがよくなるのがその年齢ということではないか。
ただし難しいのは性格に関する部分。僕がそうであるように、落ち着きたい。長期的な恋人が欲しいと思っても、性格はなかなか変わらない。だから性格に関する理由で独り身の場合、それを解決するのは非常に難しいのではないかと思ってしまうのである。
友人で、完全に自立している人がいる。仕事もそうだし、いろいろなものすべてに。たとえばすでに家を買って持っているし、ごはんも自分で作っているし、ペットも飼っているし。
こういう場合、男女の恋愛でもありがちな、自立しすぎている故に恋人が見つからないという可能性はあるのだろうか。とても興味深い。
そしてこの友人は最近になって恋人ができたみたい。僕が上記に挙げたようなパターンに当てはまるのか大変興味があるのです。
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※上記で挙げた友人は1ヶ月もしないうちに破局になってしまいました・・・。
2011/08/25 考え(ゲイ関連)

「かわいい子が好き」と、幾度となく書いている。そしてこのかわいい子というのには、パターンが存在している。たとえば中性的だったり、たとえば体毛だったり、たとえば声の高さだったり身長だったり。そのうちの一つがコーヒーのこと。
かわいい=中性的=ネコ ぐらいの想像は簡単にできると思う。もちろん短絡的なことは分かっているけど、僕のタイプの場合のなんとなくそういう傾向というか。ちなみに、ゲイは残念なことに喫煙者は比較的多い(最近はそれでも減ってきてるけど)、あと、身長はやっぱり高い子も多い。
コーヒーが飲めないというのはよく聞く。カフェオレのような、コーヒー牛乳のような甘い、苦くないものであれば、当然問題無いことが多い。だけど純粋なコーヒーというのは、苦手だという子が多い。
僕自身はこれが不思議でもある。だって仕事とかでコーヒーが飲めないっていう人は、男性の場合であればあまり見たことが無い。まあ確かにそんなにコーヒーを一緒に飲む場面というのも多くないし、飲みたくないから口をつけないのか、嫌いだから口をつけないのか判断もつきにくい。
ゲイの出会いは、喫茶店から始まることも多い。ちなみにもう一つは、ベッドの上から始まる場合かな??
スターバックスだったりの喫茶店を利用するとき、何を飲むのか。僕はまったくその手のことが詳しくないので、だいたいはホット・ブレンド・アイスコーヒーといった、なんだかすごくオジサンの注文をする。
しかし人によっては、コーヒーが飲めない場合でも、何とかというとても甘い、生クリームたっぷりのコーヒーテイスト飲料を注文している。
僕にとっては不思議でもあるし、かわいらしさを感じるところでもある。喫茶店での注文ごときにかわいらしさを感じられても困ることだとは重々承知の上でやっぱり、「苦いからコーヒーやだー」と言っているのを見るのは萌えでもある。
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2011/08/24 考え(自分関連)

何かのタイミングで、「昔遊んでたでしょ?」と聞かれることがある。なにもそれはこちらの世界に限らず、プライベートでも言われることがある。「遊んでそう」と。
僕のどのような部分を見てそのように言われるのか全然よくわからない。
まず「遊んでいた」という部分はいい意味なのか悪い意味なのか。よくありがちな、ナンパな感じを指しているのだろうか。もしくは積極的にいろいろな人とコミュニケーションを取りながら楽しく過ごしていることを指すのか。
もし僕自身に、そのように楽しく過ごしていた自覚が少しでもあるならば、遊んでいたといわれて、何らかの反応を返せると思う。しかし僕自身はそのような自覚が全くなく、遊んでいたと言われると、どのように返答していいのか困ってしまうのである。
たとえばいろいろな人と知り合って、場合によっては性的な関係を結ぶことをゴールとして積極的に交流していたのか。もちろんそんなことは無かった。もともと性格的にそんなことは(したいと思っても)できない。それは容姿も関係あるし、性格も関係ある。だいたい僕はコミュニケーションが苦手だし。
おそらく遊んでいるような印象を与えてしまうのは、僕の会話の方法にあるのだと思う。僕は会話の内容は本当にいい加減である。言ったそばからそれを忘れるし、言われたそばからそれを忘れる。話題も転々とするし。
どんな話を聞いてもそれなりに反応できるので、ある程度の時間であれば、なんの問題も無くその時間を(場合によっては楽しく)過ごすことができる。
遊んでいる人に共通するような何かがあるのか。僕には正直分からない。だけど、少なくとも遊んでいる人は性的な方向性を最終的なゴールにするのだと思う。
それと僕を比べた場合、確かに僕の場合はゴールに性的なことは無いかもしれない(あるかもしれない)。でもそれ以外の部分においては、遊んでいる人と似ているところもあるのかもしれない。(もちろん僕にはよく分かりませんが)
コミュニケーションが上手という意味で、遊んでいるのだろうという印象を持たれるのであれば、それはうれしいことでもある。僕が苦手だと考えているコミュニケーションが評価されているわけだし。
しかしそうじゃなくて、なんでもとにかく性的なところに結びつけようとする、どん欲な姿勢が遊んでいるという評価につながっているのだとしたら、それはもう心外だし、事実とは大きく異なっている。
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2011/08/23 考え(ゲイ関連)

ノンケ(同性愛じゃない人)がスキという人が一部いる。だけど大半のゲイにとってノンケは特に意識されない存在ではないかと考えている。
確かにスキがあればボディタッチをしたりだとか、着替えを見ることができて喜んだりはあるかもしれない。それは別にノンケに限ったことではなく、ゲイである以上、同性のそういう姿にはついつい目がいってしまうものである。
しかしノンケということでブランド化しているようなことが一部あり、それはおそらくそれぞれの立場からくる意識の違いではないかと考えている。ゲイにとって、セックスができることは、非常に重要である。隙あらば狙っていると言っても過言ではない。
そこでノンケという存在は、基本的には性的な関係になることは非常に難しい。しかしだからこそ、とりあえず試してみたいという気持ちが存在するのではないかと思う。それがノンケがモテるという話につながるような気がする。
実際の恋愛をするとしたら、ノンケとの恋愛は非常に困難であることが想像できる。まずは相手が付き合ってくれなくちゃいけないし(それはすごく困難?)またもしつきあえたとしても、その先のこともたくさんある。
ノンケをスキになるということは、そういう数々の困難を乗り越えなければならないし、色々と難しい部分がある。
それはゲイが女性から告白されて、すごくいい子だったとしても、そうやって付き合う恋愛が幸せなのか。っていう問題と同一だと思う。セクシャリティというのは、やはり非常にデリケートなこと。
もちろん相手のセクシャリティは関係なくスキになることもあるし、それを伝えたら案外うまく行くこともある(実際そういうカップルもいるし)。だから全部が全部っていうわけじゃないんだろうけど、ノンケという存在はやっぱりゲイにとって、なんとも難しい存在だと思う。
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2011/08/22 考え(ゲイ関連)

このブログを書き始めてから、今までのこと、、、過去の経験からの話をずっと書いてきた。
そのため、これからのことについては、あまり話題にすることが無かったし、また書きたいと思うようなことも非常に少なかった。
さらに、まだ書き始めて1年も過ぎていない状態なので、記事を書いたときと現在の僕の考えに違いが生じるようなことはほとんど無かった。
しかし最近になってカミングアウトについて考えるようになった。そしていざ具体的に考えるようになって、元々持っていた考えとは大きく考えが変わるだろうという気持ちが芽生えるようになったためいくつか書き留めておきたいと思う。
カミングアウトについて、今までは基本的にはすればいいと考えていた。それは少し前にも書いたように対象をいくつかに分けて、それぞれ僕だったらどのように行動するのか。ということであった。
※参照
カミングアウトについて 3
カミングアウトについて 2
カミングアウトについて
しかしカミングアウトについて、その分類だけではどうにも難しい場合があるのではないかと考えるようになった。
– – –
誰しもが複数のコミュニティに所属していると思う。家族・身内、地元の友人、会社、取引先、友人、、、ひょっとしたらさらにその中でも複数に細分化されているかもしれない。
たとえばブログで知り合った人とコミュニティが形成され、Twitterで知り合った人とのコミュニティは別になるかもしれない。さらに細かくなって、その中でもたとえば僕が恋人がいると言うことを知っているグループと知らないグループに分かれるかもしれない。
僕自身は多人数との交流が苦手と言うこともあって、コミュニティやグループが細かい。たとえば共通の友人A,B,僕といれば、Aと僕のグループ、Bと僕のグループ、、、という感じ。このような状態に特に意味は無いのだが、僕はやっぱり少人数との交流の方がラクに感じるので、Aと遊び、Bと遊ぶ。決してAとBと僕の3人ではない。
しかしグループやコミュニティが細分化されると問題が生じる。一番大きいのは日程的なこと。みんなで遊べば1回で終わるのに、分割されるので2回分時間を作らなければならない。
またグループやコミュニティによって立っている前提が違う場合、会話のネタにも困ることがある。僕の場合、Twitterにはブログのことを書いているが、もし書いていなかった場合、「あれブログ書いてたの?」ってなるだろうし、ブログにTwitterを載せていなければ「あれTwitterやってたの?」と。
ブログの読者の方からすれば、Twitterは「ふーん」っていう感じかもしれないし、その逆もまたしかりである。
こうしてコミュニティが細分化されてしまうと、時間もかかるし、何をしゃべってもよくて、何をしゃべってはいけないのか、非常に難しいことになってしまう。
そう。だから僕はコミュニティをなるべく統一させたいと考えている。それは最近になって特に強く感じるようになった。昔から一緒に遊んでいる仲のいい友人もゲイコミュニティの中に混ざってもいいんじゃないかと思うし、お酒を飲むときに一緒になればまたおもしろい会話も出てくるのではないかという期待もある。
もともと35歳ぐらいが、なんとなくの目安で、僕のことだからそういう時期は必ず早まるから、実際には33歳ぐらいかな・・・と思っていた。だけど、なんだかもう伝えてしまってもいいような気がしている。といっても伝えようと思っているのは今のところは2人だけなんだけどね。
ということで、この2名に関してはそう遠くないタイミングで伝えてしまおうかと考えています。また動きがあれば、このブログで紹介したいと思います。
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