過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

むかーしむかし。

   

むかしむかし、あるところに。努力の大嫌いなかお。という少年がおりました。その少年は、とにかく努力することが大嫌いで、楽なこと、好きなことばかりをして過ごしていました。

特に運動が嫌いで、食べることが大好きだった少年なので、年齢を重ねるごとにぶくぶくと太り、さも見にくい身体になってしまいました。

それでも努力の嫌いだった彼は、見にくく太ったその姿を見ても、なんの努力もせず、怠惰に毎日を過ごしたのでした。

見かねた周りの友人たちは、「もっと運動しないと」とか、「食事を制限しないと」などとアドバイスをしたのですが、彼はまったく耳を貸しません。
さらにタイミングの悪いことに、一部の友人は「そんなに太ってないよ」とか「太っててもいいじゃん」とか「健康的で魅力的だよ」などという甘い言葉をかけるのでした。

彼は自分にとって都合の悪い言葉には耳を貸しませんが、甘い言葉にはすぐに甘えたのです。まだ大丈夫。それを何回も自分にいいきかせ、さらに努力をしない毎日を迎えたのでした。
※結末はみなさんのご想像にお任せいたします。

と、もし僕が努力をしなければ、きっとそのような毎日を送っていたのではないだろうか。という話。

僕がいつも頭の中で思い出す話がある。

あるところで病気の人がいた。手術をすれば治るかもしれないが、重篤になるかもしれない。そのような病気だったそうである。その人はなんとか手術をせずに治す方法を必死に探したという。もしくは最悪手術をするにしても、確実に治るように。
そうやって、病院や医者を捜している間に、その人は重症になり帰らぬ人となった。

と。そういう話。

結局、何かに向かうときに、最善の方法を探していたのでは手遅れになる場合も多い。次善の方法ですぐに行動を起こすことが重要な時もある。
しかし何か行動を起こそうとするときに、アドバイスの場合もあるし否定的な意見を受けることも多い。そしてそれが、自身の決定を惑わすことになる。

最初の話。努力をしないことが問題なのは言うまでも無い。しかし大丈夫という周りの言葉をどのように受けるのか。という問題もある。大丈夫という言葉をかける人は、本心かもしれない。しかしそれは、手遅れへの道を進むために背中を押してくれていると考えることもできる。

もちろん、身体に関することはあらゆるものを犠牲にしてまで何かに向かうというほどのことでは無い。だから適度というのは確かに存在する。しかしそれは何もしなくていいということでもない。そして何かをしなければならないのであれば、少しでも早く、、、たとえその方法に間違いが含まれていたとしても、、、何かをしなければならないと考える。

さらに。ここから僕の彼への不満を少し書く。
彼は一言で言うならゴールがない。果てしなき努力とでもいうのだろうか。たとえば一時の、一番太っていた頃に比べれば、今の僕は相対的にマシになっていると考えている。たとえば十分満足できる点数という意味で70点は取れたのではないだろうか。しかしもちろんそれは僕自身も当然認識しているが、80点でも90点でも100点でもない。そんなことはもちろん分かっている。それを知っているのと同じように、70点ぐらいの満足度の位置にいることも知っている。

しかし彼からすると、この努力=結果は、0点もしくはそれに近いほどの低い評価になる。もちろん結果が出ていない状態で、努力だけに点数をつけるのはおかしい。だけどちゃんと結果もでている。脂肪での56kg がジムでトレーニングして筋肉をつけての53kgであれば、肉体的にはかなり見た目も印象もは違う。

にも関わらず、全然ダメだと評することの意味を僕は考えてしまう。

とりあえず僕は甘い言葉に惑わされることなく、慎重にことを進めるばかりに手遅れにならないようにがんばっていきたいと思う。
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