過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

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  2011/05/21    考え(ゲイ関連)

ゲイの人で、ネガティブな人がいます。何があっても「俺(僕)みたいなもんが」という発想につながるようです。
楽しいことがあっても、一時的なことであり、すぐに例えば恋人であれば破局を想像し、遊びであれば終わりを想像するような。

一方で僕自身。僕は相当にポジティブです。あまり気にしない性格もそうですし、後ろを向く姿勢よりも前を向きたいというか、そういう考えだからなのかもしれません。
今までの恋人との別れも、もちろん別れは悲しくて不幸なことですが、次のいい人が見つかるチャンスだと考えるようにしていましたし、当時の若くてまだ市場でも存在感が会ったときのことを考えると、どうせ別れるような人と、貴重な時間を過ごすのは、長期的な不幸につながります。そのため悲しい別れであっても、なるべくそちらに気持ちを向けるのではなく、次・将来に目をむけるようにしていました。

僕の彼のようにネガティブな人というのは不思議です。例えば可愛くないから恋人ができない、とか、性格が悪いから恋人ができない。という考えはわからなくもありません。僕ももっとかっこよければ、、、もっと他の友人のように活発なコミュニケーションができたら・・・いつも想像しています。

僕はネガティブな性格は基本的に好きです。それは優しさにつながるからです。フラれることが心配なら、ふられないための努力をすると思いますし、「一緒にいてつまらないかも?」と思っているのならば、面白くするための努力をしてくれると思います。事実僕の周りにいるネガティブな友人は、そういう性格を持っているように思います。

しかしネガティブが基本的に好きだと考えるのはこの気遣いの部分までです。大体において、ネガティブな人は、この先の部分があるのです。そしてこれは僕であっても受け入れることがしにくい部分です。

端的なことを言えば、1000回の好きという言葉をかけても信じないネガティブさんは、1回の嫌いという言葉を信じます。僕にはこれがどうにも受け入れられません。もちろんネガティブな言葉のほうが相手にとって通じやすいのは事実だと思います。しかし、しかし、と思ってしまうのです。
「ネガティブゆえに相手のことを思いやる」ならば1000回の方を汲みとって欲しいと考えてしまいます。

いろいろな性格がある中で、ネガティブというのは、別にそれが嫌な部分とはなりません。少なくとも僕はそうですし、むしろ好きな部分です。しかしあまりにも行き過ぎると、恋人ではなく、友達止まりという事になるんじゃないかと、少し心配しています。

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  2011/05/20    考え(自分関連)

あまり特定の誰かを対象として、記事を書くのは避けたいと思っています。しかし今回はいくつかの、非常に面白いできごとがあったので、特定のという事になってしまうのですが、書いていきたいと思います。

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会話の中で、恋人と会う回数が少ないという話を聞いた。とても残念でもあり、仕方のないことであるが、学生の頃に会うという、僕からすれば非常に単純に思える一つでも、たくさんの制約がある。お金のことかもしれないし、何をするのかという時間の過ごし方かもしれない。学校や課題、アルバイトその他で忙しいというのもあるだろう。もちろん友人と時間を過ごすということも重要である。

「会えない、会えてない」そのように嘆く話を聞いて、なるほど忙しいんだろうなぁという印象を持っていた。しかしその一方で、絶対に会えないわけじゃないよね?という疑問も感じていた。

会うという欲求を満たすのは非常に容易であることが多い。だって、相手のところに行けばいいんだし。もちろんこの欲求を満たすのが難しい場合もあって、それは唯一距離が離れている場合だけである。

そして現実的に会うことが可能である場合。「どのようにすれば会えるのか」ということになる。例えば1時間かけて会いに行くことが苦痛であれば、相手にも少し来てもらうというのも案だろうし、なんなら相手に家まで来てもらってもいい。お金がかかるならば、かからない方法を探すのもそうだし、アルバイトをすればいいと思う。

話を聞いていると、(その時も話をしたのだが) 学校を優先する→時間が空く→バイトする→お金ができる→彼と会う というプロセスであった。しかしその発想は逆で、彼と会う→お金が無いからバイトする→時間がないから効率よく時間を使う→学校もちゃんとする という流れじゃないのだろうか。

少なくとも、矢印の最後が彼であった場合、彼がもし「自分のことを優先してくれない」と嘆いたときには言い訳のしようがないし、少なくとも「会うための努力をしている」などとは言えないのではないか。

しかし重要なのは、そうした時間の使い方を学ぶのは、今だということ。今は優先順位やその他のやりたい事などたくさんあって、かならずどこかにしわ寄せがでる。それが家族かもしれないし、友達かもしれない。もちろん恋人かもしれないし。だけど少なくともそうやって時間の使い方を学ぶというのは、非常に重要な事だと思う。ぜひ頑張ってください!そして頑張れば会える環境にあるわけですから、会えないと嘆くわけじゃなく、会うための(本当の)努力をして欲しいと思っています。
※ここまで書き上げて、追加で報告がありました。どうやら彼と相談をしたようです。現実的に会う回数に大きは変化は無いようでした。しかし、そういう一つ一つはとても重要だと思います。いい方向への変化を、今後も期待しています。
ちなみにこちらも参考にしてください >> 笑顔、ときどき涙。

そしてもう一つ。ネガティブな言葉は言い換えて使おう。という話。
自分にとって、好きか嫌いかで判断することは多いと思う。僕自身も、大抵のことは好きか嫌いで判断している。僕の彼はよく普通という判断をするが、僕はこの曖昧な基準が「嫌い」で、ほとんどのものは、好きか嫌いに区分してしまう。

そして自分が好きだと考えているものについては、どのように表明しても構わないと思う。例えばデブが好きです!なんだかとてもポジティブだし微笑ましいではないか。誰も敵にならないし、趣味嗜好の違う人であっても少なくともその意見には同意を得られるだろう。まさか、「デブは○○だから、好きになるのはおかしいです」なんて事にはならないだろう。

一方で、「デブは嫌い」そのように表明したらどうだろうか。余程のことでなければ、そうやって主張する必要も無い場合がほとんどだと思う。そしてもし表明してしまえば、その発言の責任はいつまでもつきまとうことになる。それに受け手も「自分の体型を棚において」とか、よっぽど自分はいい身体してんだろうな、とか。なぜかこういうときには、顔にも及んで、人のこと言える顔かよ、とか。デブ好きな人に失礼じゃん、とか。
とにかくドロドロしたものが渦巻くことになるのだ

こういう時に、非常に単純なことをするだけで回避できる。痩せてる人が好き。そのように言い換えればいいのだ。嫌いなタイプを言うのではなくて、好きなタイプを言えばいい。かくいう僕であっても、年上が嫌いなどとは一度も書いたことがなく、年下が好きとか、かわいい子が好きという表現しかしたことが無いのである。
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※今日はなんか大人っぽい感じになっていますか?w

  2011/05/19    考え(自分関連)

最近、立て続けに何人かの人と会いました。ブログでの交流やTwitterでの交流を通してです。もちろん僕は彼氏がいることを表明していますし、彼のことが大好きです。それとは関係なく、やはり新たな友人関係の広がりは、僕自身とても刺激を受けています。特にblogを始めてからは、今までとは違うコミュニケーションの広がりに驚きを感じています。

今まで出会った人のほとんどは、年下~同年代でした。特に年上を避けていることはないのですが、おそらくTwitterやこのブログで表明している内容から、年上の方は若干遠慮されているのかもしれません。

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今までの出会いの中で、非常に興味深いいくつかのことがあった。今までの出会いでは、主に年下であったが、例えば待ち合わせの仕方一つとっても、少なくとも僕が常識だと考えていたことのほとんどは役に立たない事を知った。

若い子は待ち合わせの仕方が下手だ。それは魅力でもある。
僕は仕事でも待ち合わせは非常に簡単に行われる。時間と場所と連絡方法ぐらいがあれば問題ないのではないだろうか。新宿駅東口に○時。ついたら携帯の番号に連絡をください。そんな感じだろうか。今までそれで問題が無かったし、むしろその方法は洗練されているのではないかとさえ思っていた。

しかし若い子の場合。そのような待ち合わせの方法は全く通じない。そもそも連絡からして大変である。”もし” 会ったらどんなことするんですか、とか。僕のイメージってどんな感じですか?とか。がっかりしてもすぐに帰ったりしないでくださいね、とか。
会うにしても、「○時に間に合うようにしますが、その前には○○があるので、少し遅れるかもしれません」とか。一回着替えてから行くのでやっぱり○時にしてもらえませんか、とか。会ったらどこに行くんですか、とか。改札っていっても、たくさんあるからもうちょっと細かく決めたいです、とか。

スマートに、すっと目的をただ果たすのは問題があるようなのだ。会う約束をする。という単純に思える行為一つをここまでふくらませて、楽しんでさえいるようにできるのは非常に面白いと思う。もちろんただ心配ということもあるだろう。しかし僕にはそれらが、とても新鮮であった。

心の表現が稚拙に思うことが多い。もちろんそれも魅力だ。
僕が学生だったころ、少なくとも今の僕よりもよりもずっと色々考えていたし、色々迷っていた。なんとも表現できない状態だった。さながら絡まった糸とでも言うのだろうか。ほどけるならば、ほどきたかったし。何か芯になるものを常に探していた。この時期に、うまく心をほどくことができなかったのは、それを示してくれる大人がいなかったからというのも、もしかしたら理由の一つかもしれない。

そんな自分の状態を振り返るためにも、会った人たちには色々な質問をした。それは非常に単純な事だったと思うし、過去の自分に問いかけて欲しいことだったかもしれない。
そして帰ってくる言葉に、僕自身は正直納得できないことも多かった。

わかる。わかるんです。たしかに学生の時に悩んでいたことも、今悩んでいることも、そうそう大きな違いは無いように思う。ただ当時に比べて結論が出しやすくなるための経験を積んでいるかもしれないし、またそれが固定観念になっているかもしれない。
そもそも世の中では、矛盾するいくつかの意見が並列することはあっても、まったく新しい考え方というのはそうそう出てこない。

当たり前のことなんだろうがいくつかの質問に対する回答は、十分想像できる範囲であった。しかし、その奥にある、なんとも引き出すのが難しそうで、また本人も無意識的ななにか。この部分が光って感じるのが、迷いだったり当時の僕も持っていた気持ちなのかもしれない。

若い子の、肉体以外での魅力、というのはひょっとしたら、それを感じるのは非常に難しいかもしれない。しかし、自分の投影としてというか、当時得られなかった気づきを、会話を通して得られるというのは興味深いことだとおもった。
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  2011/05/18    微エロ

需要と供給のミスマッチがよくあるという話を今までさんざん書いている。それは大抵において業界特有のミスマッチ、、、例えばそれは肉体的なことや年齢的なこと、容姿などのことであった。

こうした部分においてのミスマッチは、あくまでミスマッチの話であって、正解とか不正解という話ではない。

正解の有無があり得ることと、マッチングの事は別に考えなければいけない。

そして、正解の有無のある行為の一つとして、焦らしがある。
勘違いしてはいけないが、「焦らし」というのは、最後までの行為が約束されているからこその焦らしである。
途中で放棄されることが約束されているのであれば、それは焦らしとは言わない。

考えてみて欲しい、焦らすようなことをわざとするプレイというのは日常だと思う。気持イイを貯めるという感じだろうか。もちろん焦らしに失敗して、そのまま「その時」を迎えてしまうような悲劇だって生まれる。ここまでだと寸止めと表現される場合もある。

こういう行為で、とても重要なのは、寸止めであっても何回かの焦らしのあとには、必ず最終目的まで達成されるということである。もしこれが、焦らしのまま終わるようなことがあれば、それは焦らし行為自体が否定されなければならない。

もちろん事故として、例えば焦らしてたら疲れて寝ちゃうとか、じらすタイミングを間違えて達してしまうことなど色々あるとおもう。しかしそれは例外である。

じらす行為の結果が、なし崩しな終了だとしたら。それはもうどのように表現したらいいのだろうか。罪としては最悪な部類であるし、多大な損失を相手に与えている。そのような悲劇をうみ出してはならない。

もちろん最後までやらないけど、密接な接触が暗黙のうちに行われる場合もある。例えば飲みの席でのボディタッチなどはそうだろう。これを焦らしといってしまうには大きな問題がある。しかしボディタッチと、上記に挙げた焦らしには、明確な違いがあることを読者の方は理解していただけると思う。

だからあえて主張しておきたい。焦らして最後まで無い場合、そんなことをするヤツは地獄に落ちろ!と。
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※メールでもご意見を受け付けております。
kaokao.hihi@ジーメールまで。

  2011/05/17    考え(ゲイ関連)


※画像の色味が変になってます・・。

姫は大変だ!という話。

友人との会話の中で、彼氏に「お前はいつでも俺のそばにいてくれるだけでいいんだよ。だから働かなくていいから、つねに一緒にいてくれ。」などということを言われたらどうするか、という夢物語の話をしたことがあります。そんな感じのことを言われたらどうする?と。

その時に、その友人はそんな夢みたいなこと言われたい!。そしてもし言われたら、「あなたのためだけにたくさん着飾る!」と答えると言っていました。

絵に書いたような、模範的回答だったのでしょうか。僕は大変関心するとともに、方向性の違いや、恐怖感さえ覚えました。

いわゆる男性側、例えば僕の場合であれば、僕はあきらかに「常にそばにいてくれ」と、言う側です。少なくとも言われる側ではありませんし、もし言われても窮屈に感じてしまいます。
言う側として、欲しい回答っていうのはどういうものだろうか、と考えてしまうのです。

たしかに、いつも可愛い状態でそばにいて欲しいという欲求が無いわけではありません。しかし当然のことながら、見た目だけの魅力でもないわけで・・。

そして言われる側。結局言われる側としては、洋服とかアクセサリに浪費したいだけじゃん!と。もちろん、日々の努力は重要ですし、その努力におしゃれも含まれるのだと思います。しかし。しかし。と複雑な気持ちなのでした。

ちやほやするという話。
僕は、「みんなにかわいいと言う」という記事を書いているほどですが、基本的にみなさんを褒めます。褒めるという表現んでもいいですし、もう少し俗っぽく言うならばちやほやする。ということでしょうか。

「かわいい」と自覚がある場合には、ちやほやされてとても喜ぶ場合があります。僕もそうやって褒めるのが好きですし、喜んでくれれば僕も嬉しいです。
しかしこの手法には問題があります。

かわいい感じの人が複数人いる場合に、ちやほやが分散すると言うことです。例えば飲んでいる席で、冗談で「友達紹介するのはいいけど、もしそうなったら、俺は誰を一番ちやほやすればいいのかわからないよ」と。

大体の場合において、そのようなときは、「僕が一番じゃなきゃイヤだ」と、みんながみんな口をそろえていうのです。そしてたまらなくその瞬間はかわいいと思えるのです。
もちろん彼氏がそういう事をいうようなのはイヤなのですが、なんというか、たまにはそういう刺激もいいですね。というはなしでした。
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  2011/05/16    考え(自分関連)

星のなかぐろ 今日はこのブログを受けて。

彼の書く記事の中に以下のような文があった。

> 僕が小学生や中学生の頃に、
> 「もう一生会えないのなら、生き別れと死に別れは何が違うんだろう」
> とふと考えたことが何度もありました。
>
> もちろん、あの頃の僕には大きな違いなんてなかった(ように思えた)んです。
> 一生会えないならどっちも一緒じゃんか、て。

僕も今まで少ないながらの、いくつかの別れと死別を経験してきた。幸いなことに、大切な人であったり、祖父・祖母以外の身内の死はまだ未体験でもある。
そして時には、彼と同様に、もう会わない・会えないという意味で、別れと死別を同一に考えていた時期もあった。

恋愛における別れというのは、僕自身の未熟さから、あまりここに書くようなことは思いつかないのが正直なところである。
そして、上記に挙げたリンク先には、僕と意見と非常に近いので、僕の意見としてのそれはリンク先をご参照いただければと思う。

死別については、とても残酷であると自身の経験から思う。僕の場合では、祖父の亡くなったときの僕の年齢は、確か26とか27歳の頃だったと思う。確か祖父がなくなったときには、すでに彼と知り合っていたと思うし、今の職場で働いてもいた。
この年令になると、祖父や祖母と同居していれば別として、疎遠になるのは普通だと思う。そして僕自身も、相対的に相当に会っていたとはいえ、それでも疎遠であった。なくなる1年位前までは、1ヶ月に1回ぐらい会っていて、亡くなる3ヶ月前ぐらいからは全然会ってなかった。

もちろん仕事が起動に乗りつつあり忙しくなったという理由もあるし、死の直前の1年程度というのは、生きていく上でのクオリティの低下も甚だしく、「遊びに会いに行く」という行為が適切なのかも正直わからなかった。会うたびに一緒にお酒を飲むのだが、その量は徐々に減り、最後のころは、コップに数滴たらして、「ほんとにただ付き合う」程度であった。※ただしそれでもトイレは自分でできたし、食事も自分でできたので特に何か介護が必要な状態ではありませんでした。

そして最初に戻るのだが、やはり死は無になる。幸せなことも・不幸なことも死から先には何も無いのだ。

恋人と別れたとき、僕が今まで関わることのできた僅かな時間が終わったにすぎない。きっとその元恋人は、僕以外の誰かと時間を共有し、場合によっては僕と過ごした時間以上に充実した時間を積むかもしれないし、そうじゃないかもしれない。しかし死別と大きく違うのは、この、充実するかもしれないししないかもしれない。だけどそこは “有” であるということである。

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ちなみに、
> もう一度会えたら、最後に言えなかった「幸せにね」を心の底からきちんと伝えたい、というお話でした。

僕はこの最後の文章に、背中に汗がタラリと流れる、妙な気持ちが芽生えたのでした。

  2011/05/15    考え(ゲイ関連)

年上が好きだという人と話しをすると、魅力的な年上がいない、少ないという話を聞く。一方で、魅力的な年上は、すでに恋人がいる。という話も聞く。だから少ない魅力的な年上で、フリーな人というのは貴重だと。みんなが群がるので競争力も高いと。

大変興味深い話だと思う。

かつて書いたと思うが、30代というのは、精神的な魅力と、まだぎりぎり残っている肉体的な魅力の両方を持ち合わせているように思う。30も半ばをすぎたあたりから、肉体的、性的な衰えというのは抗うことが難しい。もちろん精神的な充実はますますあると思う。しかし30代前半であれば、この精神的な部分と肉体的な部分がちょうどいいバランスなのではないか。

そしてそれを魅力として捉えるということは、何ら疑問ではない。

同年代の友人を見て、たしかに30代というのは非常に魅力的だ。友人としても面白い。例えばそれは社会的な地位と責任からくる考え方や態度かもしれない。もちろん肉体的な衰えからくる、無茶をしない落ち着きかもしれない。
お酒を飲んでいても、会話をしていても年下の子がそれらに魅力を感じるのだとすれば非常によくわかる。

しかしいくつかの問題もある。一つは30代、もしくは20代後半ぐらいだと、やはりまだ年上を好む場合がある。例えば僕の年齢で、年上がいいってなると、結構な年齢を覚悟しなければならない。なんだけど、僕の友人はそれでも年上の、、、もはや幻想だとさえおむのだが、、、追いかけている。これにはとても不思議な感覚である。

またニートやもしくはそれに近い友人もいる。いろいろな事情はあるにせよ、いたずらに年齢を重ねた場合については、魅力の醸成が正しく行われているのか、難しいところである。

僕の何人かの同年代の友人は、とても魅力的なのにフリーな人ばかりだ・・。これもまた市場のミスマッチなのだろうか。
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※すいません。明日は気合を入れた記事を書き下ろす予定です。今日はいろいろ予定があったため、こんな感じで失礼します。

  2011/05/14    考え(自分関連)

冒頭部分はプライベートな話から。
昨日、友人とお酒を飲んだ。非常に秩序立てて進み、最初から最後まで当然のようにすべてコントロール下にあった。我を失うことなど無かったし、支離滅裂な事を言うような状況にもならなかった。
記憶もしっかりしており、飲んだ量も非常に適切であったと考えていた。もちろん量に関することだけじゃなく、たくさんの興味深い話もしたし、一つ一つの話題には学ぶところも多かった。
要するに、飲み過ぎずに、たのしいひとときを過ごしたのである。

そして今朝。見事に二日酔いの症状が出ていた。正確に言うと、胃もたれのひどい症状であったが、これは軽い二日酔いの症状に酷似していた。
あの程度の量で、事実非常にすべてが順調に終始したのにもかかわらずこのような結果となってしまったことに大変驚いている。

弱くなった。という言葉・表現でこの状態を表すにはさすがに問題があるのではないかとさえ思ってしまう。正直反省のしようもない・・。

さてここから今日のテーマ。

毎度おなじみではありますが、「国境、非在、あるいは百年の祈り」のげんやさんが大変な事になっているようです。僕自身が彼に向かって何かを発言することなど、非常におこがましく思うし、また適切でも無いような気がしています。

しかし自分を振り返ったときや、また友人からいくつかの興味深い意見を聞いたこともあって、関連する事として記事にまとめておきたいと思います。
※げんやさんがどのように大変な状態なのかはわかりませんが、詳細については、ブログをお読みいただければと思います。

かつてげんやさんと会ったとき、目標があると言っていた。僕自身にはその壮大(と思える)目標のほんの少しさえも理解するのは難しかったのだが、それでも大変記憶にのこっていることがある。どのようなニュアンスで言われたのか覚えていないが、確か「一箇所に住み続けることが想像できない」というような話だったと思う。僕は生まれてからこのかた、東京にしか住んだことがない。しかし彼は、実家で過ごした幼少期のほか、大学、社会人、、、と、数々の場所で生活をすでに積んでいる。そういった経験や、今後彼がやりたいと考えていることなどが、上記発言に至ったのではないだろうか。

自分自身を振り返ってみたとき、30歳になるよりも少し前、この時期は社会に出てから、最初の大きな転機を迎えることではないかと思っている。
人生において、最初の重要な岐路に立つ時期なのかもしれない。もちろん僕自身はまだ、俯瞰できる状態にはないが、少なくとも、そしていろいろな友人の話を聞く限りでは、最初の重要な選択の時期だと考えている。

僕自身が人生を少しでも自分がやりたいと思えることを実現するために、20代半ばまでは、経験することが重要だと考えていた。そこには、ある程度の一貫性は必要であると考えつつも、新しい分野への開拓、挑戦ということについても積極でありたいと考えていた。

そして20代半ばを過ぎると、30代・40代、場合によっては一生の仕事にできる事の準備期間であると考えていた。その考えは今でも変わらず、当然今の仕事は一生続ける事になったとしても本望であると考えている。
具体的には、例えば僕の場合だと、20代半ばで挑戦という意味での転職は最後にし、30代前半までに多くても2回程度の転職とともに、その職場では一生を捧げるぐらいの気持ちであった。そして実際には彼と知り合った直後(26歳のころ)に、今の会社に転職をし今にいたっている。今のところ転職は考えていないが、もしするとしたら、次の転職は本当に最後になるだろうし、最後にしたいと考えている。

この考えのもと、当時の僕がもし今の会社に転職ではなくて、もし遠く離れた場所での転職だとしたら。転勤になったとしたら、、、。これは非常に難しいことでもある。

友人の話。僕の友人に、恋人にするなら20代後半から30代の人がいいと言っている人がいる。僕自身は、その友人の年齢や、肉体的・精神的に満足できる可能性の高い、25歳~ ぐらいがいいのではないか、という話をした。するとその友人からは思いも寄らない返事が帰ってきたのである。
「20代半ばは、仕事でのチャレンジやキャリアアップを優先するから、捨てられちゃうかもしれない」と。事実その友人は、かつてそれに近いことがあったようで、それを警戒しているという話である。
しかし自分のことに身を置いて考えると、たしかに当時の僕であれば、キャリアややりたいことを優先し、恋人との関係は少なくとも2番目になってしまうかもしれないと。逆に今のように30代になって、落ち着いてきたときには、プライベートの充実を考えるようになるので、恋人のことも大切にするだろうと思う。少なくとも20代の半ばから後半にあったような、大きな変化はないだろうと期待できる。

そして最初の話に戻る。
げんやさんも、おそらく大きな選択肢の中に身を置いているのだと思う。彼がブログに書いているように、きっとすべてが、いい方向に回ると思うし、そうであって欲しいと思う。努力のほかに、引きの強さや運の強さを感じるげんやさんのことだから、きっとすばらしい将来が待っているだろう。
もちろん外野から何か協力できることがあれば、それは惜しまないつもりだ。
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  2011/05/13    考え(自分関連)

正解のない話や、意見の分かれやすい話は飲みの席ではしないほうが無難であるという話を昨日の記事の冒頭に少しだけ書いた。ブログでも書くときに気をつけたほうが良い話題というのが存在しているようである。

具体的に挙げるのが非常に大変ではあるが、大きくグループ分けすると、トラウマになりやすい事柄については、書かないほうが無難であるようだ。
例えば、お金・愛・家族・容姿・生活・仕事などだろうか。

むしろブログでは、宗教や政治の話を書くほうが、問題が起きにくいのではないかと思うほどである。宗教や政治は、通常であれば、自分のスタンスという理論で話をすることができる。これが重要で、激高することなどなかなか無いだろうし、だいたいにおいて、自分の意見を変えることはできなくても、他人の意見を理屈として理解することは可能であることが多いのではないか。

一方で、トラウマになりやすい話題というのは非常にやっかいである。自分の体験をもとに相手の意見を否定するために激高しやすい。そしてそれは充実していない人が充実している人を攻撃するときに非常に強く現れる。

何も一歩引いて冷静に、などと言うつもりは無いのだが、なぜそこまで怒りが湧くのが非常に興味がある。(といっても、大体はそれ以上突っ込めないし、ギリギリ対応してくれる人でも「そういう人もいるってことを理解してください」とか、「他人の気持ちがわからない冷たい人なんですね」という、もはや意見でもなんでもないことを言われてしまう)

僕の書いている記事で、性的な事、彼の事、昔の事を除くとあとはもう上記に当てはまってしまう。僕は性的なことも彼のことも昔のこともとても書きたいし、書きとどめておきたい。しかしそれと同じぐらい、今の僕の考え方を形成するに至った過程、つまり家族や容姿、愛やお金についてもたくさん書きたいことがあるのだ。
もちろんそれらは、僕の一方的な意見であり、理解されないことも多いだろうし、デリケートな内容であるために苛立たせる事になるかもしれない。それでも僕は書きたいし、そもそもそいういった記事を書くためにブログを始めた。

このように、書くことに制約が出るのは正直なところ大変驚いている。というよりも、もっとコミュニケーションが成り立たないと思っていた。コメントなどつかないだろうし、読む人もごく限られると思っていた。(過去の経験から良くても一日10人ぐらいだろうと目算をつけていました)

これからも色々なご指摘をうけると思うが、なるべく当初のスタンスを崩さずに頑張っていきたいと自分の心に誓うのです。

※ちなみにフェチとか軽い性的な話は、誰もが受け入れる良い話題だと思います。唯一、彼が嫌悪しそうで心配ですが。
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  2011/05/12    考え(自分関連)

僕が好きで読んでいるブログでは、社会的にも微妙だと思われている問題について、たまに言及しているのもある。僕はこうしてブログに書いているように、色々なことを考えているが、政治の話を書こうと思ったことは一度もないのであった。

よく宴席では政治の話や宗教、スポーツの話は避けたほうがいいといわれる。考え方や視点によって、正解がないことがその理由のようである。おそらくそういった話題、、、好みが大きく出る分野はひと通りそうではないか。学生の頃であれば、幸せの要素にお金が必要かなどの、結論が出ないことであったり、テーマがあまりにも巨視的=マクロ的なテーマは比較的そうなりやすいと思う。

ブログでは議論などではなく、比較的一方通行なことが多いので、そこまでデリケートに考えなくてもいいのかもしれない。しかし僕はなんとなく腰が引けている。たぶん主義主張がそこまでしっかりしていないということも大きい。

石原都知事の同性愛に対する発言が、我々の業界では問題になっている。ちなみに僕自身は、彼からレッテルを貼られやすい立場の数々が好きなので結構つらい。たとえばアニメやゲームなんかは顕著であるし、ゲイの業界では当時の合法ドラッグなども規制の対象となった。
アダルト表現の規制もまた厳しくしたいという考えを持っているようである。
その他僕の理解するところでは、歌舞伎町の掃討などもあったように思う。もちろん僕自身が従事している、パソコンなどのITに関する仕事は、おそらく彼の理解を超えているところにあるのだろう。

この場合、本当によく言われるのだが選んだのは有権者(都民)であると。これが非常に恐ろしいことだと僕は思っている。有権者は、期待で投票はするが、結果を見て投票することはできない。それは任期満了後もしくは再選した時の話である。そして石原都知事は今までの結果については、評価された、もしくは他の候補者に比べて相対的に票を得たために当選したのであって、「選択の責任」というのがどこまで強いのか非常に疑問を感じている。
もちろん選挙制度や世代別の投票率などを考えて、石原さんと同じような考え=年配者の意見が通っているということも当然にある。

票田として考えても少数の業界団体や、マイノリティを規制することによって、次の選挙ではその所属グループからの票を得られなくなるだろう。
おそらく最大のグループである、老人を敵にまわすようなことはないので、結局この選挙は老人と若い人の戦いなのかもしれない。

※こういう時に世代別の得票数は非常に面白く参考になります。今回の都知事選挙では、僕と同世代の30代であってもかなりの人が石原さんに投票したようです。今回のこの結果が民意だとは思いたくありませんが、大衆は常に選択を失敗するものです。民主党とか?これ以上世間が窮屈にならなければいいと願っています。

非常に難しいと考えるのは、ゲイという立場で社会的な発信をどこまで行うべきか、ということである。ある意味では業界団体としての発言を社会に行っていくことも大切だろうし、政治家として、代弁者を行政の場に送ることも重要だと思う。ただ世の中はやはり数の理論は大きいようにも思う。

一方で、我々が今の時代でここまで世の中から受け入れられているのは、数々の先輩諸氏の努力によるところも大きい。だから社会が変わるのを待つという姿勢ではなく、何らかの行動は示したいところでもある。
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