「一年おめでとうのチュウ」を受けて
一部引用をさせていただきながら、オレの意見を述べたいと思います。なおこれは完全な私見であり、一方的な暴論です。おそらくこの記事は読み手を不快にさせるということを最初に注意しておきたいと思います。読まないで欲しいとは言いませんが、話半分ぐらいに考えてもらえると大変助かります。

一年おめでとうのチュウ「国境、非在、あるいは百年の祈り」 以下引用
> もっとも、りふ子の言い分もわからないではない。僕は、ともすれば
> 「りふ子のこと愛してるからずっと一緒にいようね」と言うよりも、
> 「もしふたりが別れたとしても後悔しないように、ゲンのことだけ
> じゃなくてじぶんのことも考えなさい」という言葉が口をついてしまう。
> 「愛してるからずっと一緒」という言葉は、その瞬間の気持ちを表現する
> 方法としては真実かもしれないが、失敗に終わった夫婦生活を目の当たり
> にして育ってきた僕としては、うまくいかなかった可能性をあらかじめ
> 考えて人生設計を組み立てていかなければならないと考える。
この気持ち。非常によく分かります。かつては僕もそうでした。・・・今でもそのような考え方が抜け切れていないので変えるように注意しています。
この手の話題の時に、ありがちなんだけど何も夢物語の話をしたいとか、理想の話をしたいわけではありません。僕はどちらかと言えばより現実的で責任のとれる、また確実性の高い話をしたいと常々考えています。だからこのときに「うまくいかなかった可能性をあらかじめ考える」ということにとても理解できるし、共感できます。最初に読んだとき、まるで自分自身の言葉を代弁されているのかとさえ感じました。
とりあえず「もし別れたら~」などのネガティブな言葉を取り上げて、言葉がよくないと言うことではありません。むしろ愛と責任を強く感じているからこその発言なんだろうと考えています。
ご本人も書いていますが、その発言の根底の部分。「失敗に終わった夫婦生活を目の当たり(略)」この部分というのは相手はそれを知らないはずです。つまり、うまくいっている夫婦生活を目の当たりにして成長してきただろう相手にしてみれば、ネガティブな発言に至る真意をまったく理解できない可能性が高いのです。
どちらがどうだと言うことではありませんが、相手がもし成功している夫婦生活を見て育ち、今の考えの基となっているのだとすれば、そこで失敗の例に合わせる理由は特に無いような気がします。むしろこういう場合には成功体験に合わせた方がいいのではないか、と。
また「自分のことを考えるように」というのは一種の保険とも捉えることができてしまうように思います。
相手が自立してるんだから、自分がいなくなっても大丈夫だろうということになりかねず、それは結局のところ自分に対する(別れるための一種の)保険とも受け取られかねませんし、そのように受け取る人がいても、責めることはできないのではないでしょうか。一般的にはこういうのをざっくりと「後ろ向きな発言」と表現するのでしょうか。
せっかく自分の愛や想いの強さからの発言なのにその真意が伝わらないどころか、逆に受け取られてしまうのがこの種の発言なのではないかと考えています。
じゃあ。どうするのか。
僕は結構前から考えている言葉があります。
「自分のことも考えなさい」と言った後に、「でもオレはいつまでも一緒にいたいと考えているよ。」と。これが相手にも自分にとっても最も責任のある発言だと、今の僕は考えています。
※ちなみにたとえば相手が疲れているだろうことが予想できるときに「会いたい」そのような場合、「疲れているから今日は無理だよね?」という発言だと、相手にとって「会いたくないんだ?」というニュアンスを伝えてしまう場合があります。でも会いたいっていう事を常に言うのが問題なのも事実ですよね。
だから僕は上記例と同じ手法を使います。「今日は疲れているから会えないよね?」その後に「でもオレはそっちが大丈夫なら会いたいよ」と。
※もう一つ付け足し。ゲンヤさんのブログに「かわいそうだ」というコメントを僕はしました。ということで、お互いの気持ちが強いのに、このようなすれ違いが起きてしまう。そして個人的には幸せな環境に合わせたいという意味ではりふくんに近い考えなのかも?ということ。さらに、好き同士が好きを理由にけんかするのはなんだかなぁっていう感情をうまく記すことができなくて、かわいそうという一言だけをコメントしました。