「 月別アーカイブ:2010年12月 」 一覧
2010/12/11 考え(自分関連)
少しの間、オレはアメブロを利用した。
率直な感想として、アメブロはとてもおもしろい。そういっておきながら、こうしてFC2に移動してきたのには理由ももちろんある。
いいところと、(オレが感じた)悪いところを挙げてみたいと思う。
いいところ
・ユーザーの交流が活発
・ゆるいSNSといった雰囲気
・たくさんの人がブログを見てくれる(これはやる気につながる)
・コメントがたくさんつく
・ブログ以外の遊び方もある
悪いと感じたところ
・距離感が近いので指摘が多い
・ブログだけをやりたい
・出会いをしたい訳じゃない(相手方が露骨な出会いを求める場合もある感じ)
以上のことから、普通にブログを書くのであればとても楽しいスペースだと思う。mixiなどでは、交流がないとすごく絡みにくい。なんとなく雰囲気ができているのでその人の空間に入っていくことに大変抵抗があると思う。オレも抵抗がある。
だけどブログが交流の中心であれば、何となく「いつも読んでます」とかの一言で、その空間に入って行きやすい。また mixiの場合は個々のつながりが強く感じることが多いが、アメブロのつながりは比較的緩いことが多い。それもまたコメントしやすいことにつながる。
オレの場合、始めた当初はそのように思っていた。固定的なファンというか読者というか、読んでくれる方もいたし、またコメントもたくさんついた。たいした文章を書いている訳じゃないことを知っていても、それでも勘違いしてもいいのではないかと思うほど。(しかも実際にある程度ランキングの上位にも行くからなおさらである)
これ自体はモチベーションのこともあり、大変いいことだと思う。しかし、ここで交流のしやすさが原因となって、どんどんと小言が増えてきた。
最初は遠慮がちに自分の意見をコメントで表明するだけであった。しかし徐々にそのコメントの表現はどんどんと強くなってくる。また、最初であれば「気に入らない記事は無視する」というスタンスで読者もいるが、なまじ交流があり、意識的に親しみを持ち始めると、無視するというよりは、「そんな書き方ないんじゃないですか」となるのだ。
オレは正直大変驚いた。今までかなりの期間、ブログという形で文章を書いてきた。そこではアメブロよりもずっと流動的ではあるが読者がいたし、内容について指摘を受けたことなど、ほとんど無かった(長くやっているので、少しはあったけど)。もちろんアクセス数の増減という形で、自分の選択したネタの評価は受けるが、それ以上のことは無かった。
怒りと共にコメントやメールをいただくと、大変申し訳ない気持ちになる。もちろんオレと同じ意見である必要は無い。意見の違いはかまわないし、それはぜひとも聞かせて欲しい。しかし、怒りと共に書かれたコメントにはうんざりなのだ。
こういった一連のやりとりをして、こうして公開された場所を利用しておきながら矛盾しているのだが、ひっそりとやりたいなぁと思った次第なのである。
まあ、もちろんランキングも相変わらず利用しているので、特に何かが変わる訳じゃないんだけど、アメブロよりも(オレに対して身近だと考えている)読者は減ることになると思う。
これからは、身の丈にあったスタンスで、ひっそりとゆっくりと記事を書いていきたい。
2010/12/10 カップル(彼関連)
彼との食事について。恋人になってから結構な期間がたつので、食事については重要である。
外食での好みについてはまたの機会にしたい。
今回は自炊の話。
みんなご飯はどうしているだろうか。オレは基本的には完全に自炊である。できれば昼食も夕食もコンビニ弁当などではなくて、作った料理を食べたい。
総菜などは最低限に抑えたいし、冷凍食品などもってのほか。そしてこれはどれだけ忙しくて時間がなかったとしてもなるべく守りたい。もし本当に時間の無いときは、食べないという選択と、かなりの時間をかけて相談する。
そして大変申し訳ないことに、これは彼に対してもそうであって欲しいと考えている。つきあい始めの頃。彼はバイトが終わって帰ってくるのが23時半ごろだった。そしてこの時間から彼は冷凍食品を暖めて、予めタイマーで炊きあげたご飯をたべていた。
時には一緒に食べようということで、オレの帰りが遅くなるときには、冷凍食品を暖めて一緒に食べたこともあった。
こういうときであっても、なるべく冷凍食品じゃない方がいいと考えていた。
オレは幾度となく、帰ってきてから冷凍食品食べるなら、オレが簡単なの作っておくよ、と。そして一緒に食べるのは良いけど、オレが作ってもいいから冷凍食品はやめてほしい、と。いや。わかってるんですよ。オレがめんどくさいヤツだってこと。
しかし冷凍食品が嫌いなものは仕方が無い。オレは冷凍食品や総菜の出来合いなモノが嫌いなのである。最初のころはこういう事だったので、正直な所料理はオレの方がうまかったし、マメだった。彼に教えればすぐうまくなることは分かっていたんだけど、さすがに初期の段階でそこまでの口出しはできない。結果として食事に関してのお互いの好みのことはすごく心配でもあった。
いくつかの料理のポイントを彼に伝えると、かれはすぐに、そしてすごく料理の腕が上達した。もともとキッチリしている性格の彼は、レシピ本の通り重さを量りながら、書かれている分量を確実に入れていた。
今となってオレはキッチンに立つことがほとんど無くなってしまった。おかげで調味料の位置もわからない。彼はすごいことに、冷凍食品や総菜をほぼ完全にやめてしまった。今では一人の食事の時にもちゃんと作っているようである。オレの役割は、包丁をたまに研ぐことぐらいだ。
そしてオレは・・・相変わらず総菜とか冷凍食品は買ってないんだけれども、彼とおなじような料理は全然作れない。むかしは脂っこいものだったり、肉肉しい食べ物はオレの方がうまいという自負があったんだけど、最近ではオレの胃がそれを受け付けないので作らなくなってしまった。
ただ、焼き鳥とかのおつまみ系はいまだにオレの方がうまいと思っている。
だけど、すごくくやしいんだけど、オレの作れない(そして当時は彼も作れなかった)料理が、どんどん上達している。
奥さんの料理がうまいと男性は女性遊びをせずにまっすぐ家に帰ってくると言われている。そしてそれをオレは、はからずも実践している。
2010/12/09 フェチ/好み/タイプ
フェチ。おそらくこの言葉については万人の解釈があるように思う。フェチは確かに人それぞれだが、何をもってフェチとするのか。非常に難しいと考えている。
それは性的な興奮を伴わなければフェチとは言わないのか。その手前の段階というのもあるような気がする。
オレはフェチが多い。フェチというよりも「好きな状態」というのか、何とも表現しがたいが・・。
まず歯である。歯がきれいなのが大好きだ。コレは初期の頃に小池徹平くんの記事で少し触れた。いずれがっつりと記事を書きたいと思っている。
次に胸。女の子の大きな胸から小さな胸も好きだし、男の胸もすき。そしてお腹周りと腰回り。これも男女の区別なくついつい目がいってしまう。そして足のライン。細いのがいい。
大きいのはこれぐらいだが、細かいところではもう少しある。手とほっぺと唇も第二希望としたい。
で、オレは昔から自覚しているのだが、「男女ともに存在するパーツが好き」ということである。これは後天的に身についたのではなく、どうやら本能のようだ。逆に性器については、いわゆるフェチとしての要素は全くない。
例えばもっこりとか別にどうでもいいし、ヒゲとかもあまりである。
そしてこの共通パーツ好きというのは、デメリットとメリットがある。デメリットは、やはり「本当の興奮」を得られないような気がするのだ。下着大好きな人は、犯罪を犯してまでそれを入手しようとする。このときの興奮は、社会的に許されないとしてもおそらく相当なものがあるのだろう。
一方でオレは、社会的な制裁を受けてまでその趣味・フェチを実現する必要は無い。
だって歯は誰でも見ることができる。お腹周りとか腰回りも水着の時に見られる。
おっぱいは酔ったと・・ゴホッゴホッ
2010/12/08 考え(自分関連)
もうずいぶん前のことである。オレが中学生ぐらいの頃。
その頃オレはバスを利用していた。
空いている座席がなく、パラパラと人が立っているぐらいの混雑状況。時間は夕方だったように覚えている。
会社から帰るのか、会社に帰るのか。そのような時間に、一人の男性がオレの前の座席に座っていた。
見た目からは、40代といったところだろうか。ヒゲが少しあり、スーツをびしっと着こなしている。一言で表すならダンディという感じ。
タイプなど関係なくしても、確かにかっこいい感じであった。
バスに乗り慣れていないのか、ボケっとしていたのかわからないが、バスが停留場に着くと、その人は突然立ち上がりバスから降りようとした。
その時、オレの足を軽く踏んだのである。おそらく踏んですぐに気づいたのだと思う。ちょっと踏まれたと思った瞬間にはもう足は離れていた。
「失礼」
一言謝罪をすると、その男性はバスを降りていった。
オレは中学生であったが、謝罪がスマートだったことに非常に驚いた。
その後オレが社会人になって、そしてそれは自分にも当てはまることだが、謝罪というのは、ごめんなさい・すいません・申し訳ありませんなどの一般的な言葉がある。
失礼、といって謝罪になる場面などほとんど無い。だからとっさの時にも、すいませんとは言えるが、失礼、などという言葉は出てこない。
しかしとっさの時に、そしてか軽い謝罪の時に、スマートに失礼と言えるのであれば、とてもカッコイイことではないだろうか。
まだまだオレにはその言葉を使いこなすだけの力量は無い。しかしいずれはその言葉を使いこなせる様になりたいとオレは考えている。
2010/12/07 日常
先日のことです。土曜・日曜と1泊2日で箱根に行ってきました。
温泉はあまり好きではないので、温泉が目的と言うよりも完全に観光が目的でした。
箱根にした理由というのは、特にありません。ただ定期的にどこかに旅行に行くようにしていて、9月に北海道。7月は静岡。3月は広島・・・と行っています。もちろんまったく適当で、来年あたりは京都や石川にも行きたいと、場所とか雰囲気で決めています。彼は特に希望は無いのか、ほぼ俺の希望となっています。
今回の箱根も、遠くに行くのは休みのこととかもあるので大変です。ということで、近場にしました。
箱根は、彫刻の森美術館やガラスの森美術館など、なぜか美術館が多い。美術品については、俺は一部のものしか見ないのだが(ちなみにスーパーリアリズムと、トリックアートというジャンルが好き)、彼がめずらしく彫刻の森美術館に行きたいと言っていた。
施設の評価は他の方にゆずるとして、俺は彫刻系はあまり好きではないかなぁという感想。
また、箱根ガラスの森美術館というところにも行ったが、こちらもイルミネーションがメインなのか、昼間に行くよりも夜の方がいいのではないか。その部分においては彼と意見が一致した。
総じてこういうときに思うのは、移動の時に俺は旅行を感じ、現地を感じるということである。広島や北海道では路面電車の記憶が強い。今回も箱根登山鉄道(すげー混んでた!)での移動やロープウェイ、ケーブルカー、路面バスなどが強く印象に残っている。そこまで乗り物好きというわけではないのだが、駅には現地の普段の生活を感じられる部分が好きなんだと思う。
旅行にいった先々で、ポストカードを見かける。誰が買うんだよ!と今まで思っていた俺だけど、最近はこのはがきを使って誰かに手紙を書きたいなぁと考えるようになった。事実彼と一緒に彼の実家には手紙を書いているのだが、これについてはまた別の機会で紹介したいと思う。
いつも思うのだが、「次は一緒にどこに行こうか」と考えることができるのはとても幸せだ。
あまりたくさん書き連ねても仕方が無いのでこの辺で。たのしかった!
上から順に、上野の森美術館で撮影した紅葉、大涌谷の黒卵、仙石原高原のすすき、大涌谷からの富士山
2010/12/06 親/家族
オレは父も母もいて、また夫婦仲良くすごしている。父はやや古い考え方で、大黒柱という考えを持っている。今となってはもうなんとも思わないが、学生の頃は苦労することもあった。
ゲイの友人たちは比較的片親であることが多いような感じがしている。もちろん病気などによる死別の場合もあれば、単純に離婚の場合もある。少ない例ではあるが、父のアルコール癖や女性にだらしないなど、壮絶な家庭環境の場合もある。
例えば職場だったりとか、ノンケ友人の事を考えると、片親である場合というのはそんなに無い。20人いて1人とか2人とかそのぐらいだと思う。しかしゲイの場合、なんとなくではあるが、10人に1人とか2人ぐらいいそうだ。少なくともパッと思いつくゲイの友人の場合、友人は10人も思いつかないものの、片親の人が少なくとも3人はいる。過去付き合った数人も思い出してみると、やはり片親が半分ぐらいだったように思う。
先天的なこととか後天的なこととか、父性がどうだとか。ゲイになった理由はそこにも一端があるのかもしれないが、それは正直なところよくわからない。ただ母親に育てられた場合、たしかに男っぽい人を求めるのは、なんとなくあるような気がする。
しかし片親の場合、あきらかに違うことがある。それは愛情に飢えていること、愛情を信用できないことである。これはかなり強く感じる。
例えば愛情というのは、形で表現することも多いが、そうじゃないことも同様に多い。オレの両親は愛し合っていることを知っているし、長年連れ添っているわけだから愛情以上の何かが存在しているだろうことも想像できる。祖父についても、同様であった。長年の夫婦生活というのは、自分が親や家族と一緒に過ごした時間以上を結婚相手と連れ添うというのは、オレには想像もつかない。
親や祖父たちは、日々「愛してる」などと、ささやくこともないし、勝手に外出しても「どっか行ったみたいよ」などと関心が無いようにさえ見える。これをもって愛情が薄れているわけでは無いだろう。そんなことは当たり前だ。
愛情の表現方法というのは、初期・中期・後期で変化するのかもしれない。
愛情を信じられない人の場合、ちょっと連絡が無いだけで不安になったり、浮気を疑ったり。「大切にしてくれない」と不平不満が始まってしまう。連絡をしないだけで嫌いを疑わうという感覚はちょっとオレには理解ができないところである。たとえ連絡をしなくても好いているという信頼を彼に持つというのは、愛を信じることなのかもしれない。
もちろんゲイの世界は誘惑が多いので、不安になったり疑うこと事の気持ちはわかる。だけど愛情は疑っている間はそれ以上深まることはなのではないか。
ひょっとしたら、愛を疑う人同士だったらうまくいくのかもしれない。しかし少なくともオレは、連絡を取らない愛情表現も度を超えない範囲であると思っている。それを疑う理由にされたら正直キツイ。
この愛情の感覚の近さっていうのは、意外と恋愛で重要な気がする。愛情は注がれていないと見える時でも、常に相手から注がれているものです。見えるものばかりでなく、感じること・信じることを意識するようにしていきたいと思う。
2010/12/05 ブログ
読んでいただいているみなさま。改めまして「かお」です。いつも当ブログを読んでいただきありがとうございます。
この記事を書いている今(12/03)二日酔いでダルダルです涙。ああぁ。あぁと。お酒についての思いは尽きません。最近は後悔ばかりです。忘年会のシーズンということもあって、飲みが増えているんですよ・・。楽しいのはいいのですが、ほどほどにですね。
この記事が掲載されるころ、オレは彼と箱根です。土曜・日曜と泊まりで。日常のことを書くのは苦手ですが、箱根の件については後日ちょっとチャレンジしてみようかな?
日曜日は軽い気持ちで書く。というルールにしています。ということでとりとめもない話を続けます。
ペタについて。
最近ペタを返すことが出来ていません。申し訳ないという気持ちと、読者減っちゃう~なんてヨコシマな考えが半分です。時間のある時に頑張りますのでよろしくお願いします。ちなみにペタってみなさんどれぐらいあるのでしょうか?オレは最近はだいたい150ぐらいをうろちょろしています。
コメントについて。
コメントの付きやすい記事とそうじゃない記事があるようです。そしてなんとなく傾向があるようですね。特にフェチ的なことはみなさん、まぁコメントしてくれるw
すぐに公開されないので他のコメントを伺うことが出来ないのに、やっぱり考えることは同じということでしょうか。
返信が遅くなりがちで申し訳ないです。だいたいコメントは翌日中に返信と共に公開するようにしていますが、最近は返信が間に合ってないのでとりあえず公開だけしているパターンも多いです。
内容や文体からだいぶコメントをすることに抵抗があるようです。よくわかります。大丈夫です。オレはそんな野蛮ではありません。コメントの内容もあまり深く考えずに適当にどうぞ。オレはたんなる普通のおっさんです。コメントはとても励みになっていますよ。
写真
写真苦労しています。出かけたときになるべく撮るようにしていますが、いまいちですね。似たような写真が多いのは、1日で撮影しているからです。
ミラーレスというカメラを奮発して買おうかなと思っています。普及品と一眼との中間みたいです。腕は変わりませんが、何かが変わるのではないかと期待しています。まあボーナスでないみたいだから、どっかからお金を手当しなければなりませんが涙
彼が書く記事
記事を書くようにお願いしています。なんでもOKと言ってあるのでどんな記事を書くのでしょうか。何書いていいかわからないと申しております。何か書いてほしいことがありましたら連絡ください。彼にお願いしてみます。
ネタ。
オレにも何か書いてほしい事はありますか?まだネタはありますが、もし質問や書いてほしいことがありましたら、記事にしたいと思います。それ意外でもリクエストがありましたらどうぞ。
感謝!
そして最後になりましたが、いつも読んでいただきましてありがとうございます。固定的な人が読んでいただいているのか、日々違う人が読んでいるのか、オレからはわかりません。だけどアクセスが多くあるのは本当にうれしいですし、とても励みになっています。
彼からはつまらないと罵られ、読みにくい、記事が長い、偉そうなどと色々と問題点も多いのですが、まだもう少しこの調子で続けていきます。文体は「です・ます」を使うように変化させるつもりです。そういうことでしばらくの間は過去に書いた「である体」と最近書く「です体」とが入り交じることになります。
2010/12/04 考え(ゲイ関連)
オレは初対面の時心がけていることがある。初めて会うときは誰でも緊張しているだろう。それはオレも同じだ。
そんな緊張している中で、そして初対面の挨拶の時に(もしくは限りなく初対面に近い状態の時に)、「かわいいですね」と言うのである。もちろん場合によっては「カッコいいですね」でもいだろう。
これをあいさつと組み合わせ、「こんにちは、かわいいですね」となるのだ。
これはオレが結構昔から主張しているあいさつである。合コン的なことが会った場合にはほぼ必ず使っている。
このあいさつは少しのデメリットがあることは事実である。しかしそれ以上のメリットがあることを理解して欲しい。
デメリットとしては、まず「遊んでいる」と思われやすいことである。それはわかる。いきなり相手の何も知らない状態でかわいいなどと、どの口がいうのだ。そのように思われてしまい、どうせみんなに言ってるんでしょ、と。この部分については相手に悪い印象を持たせてしまうかもしれない。
しかしメリットも大きい。
ウソであろうがホントであろうが、他人を褒める言葉を使って損はない。相手をかわいいと褒めているんだから、悪いことではない。
またこういう言葉を改めて言うのはとても恥ずかしいだろう。少なくともオレは恥ずかしい。だからたくさん使って慣れておく必要がある。
本当に好きな子の時に、たくさん使って慣れておくことによって、自然に口から出てくるようにきっとなるはずだ。
相手だってまんざらではないはずだ。ほめられて悪い思いなどしない。遊んでるとか、みんなに言ってると頭では分かっていても、きっとうれしいはずである。
第一、かわいいとかカッコイイというのをみんなに言ってもなんら悪いことではない。そりゃぁ「好きだ」とかそういうことを誰彼かまわず言っていたら問題だ。しかしそうじゃないならどんどん使うべきだろう。
そのように主張するとたまに言われることがある。じゃあブサイクの場合にはどうすればいいの?と。
このような問をしてくること自体が愚かである。本来の目的は「かわいい」と言い慣れることである。すなわち相手の容姿は正直関係ない。だからオレはたとえブサイクだとしても「かわいいですね」と言う。もちろんかわいいの一言を言う時に非常に勇気の必要な容姿であるパターンも存在する。その時には無理することはない。今回は中止!それでいいと考えている。
ごくまれに、うぬぼれる勘違いさんがいるが、それもまたかわいいと受け止めよう。若いうちはその勘違いもまた魅力だ。年をとってからは通常気づくはずだが、そうじゃない人はオレの範疇外である。
ということで、ぜひともあいさつの一言に、かわいい、かっこいいをおりまぜて欲しいとオレは考えている。マジで相手の反応変わるよ!
2010/12/03 考え(自分関連)
コンプレックスというのは誰もが抱えていると思う。一見すべてが幸せに見えるような人であっても、例外などないだろう。
しかし、である。何をコンプレックスと感じるのかはもちろん本人の自由だ。しかしオレは言いたい。オレから見てあなたのそれは別にコンプレックスじゃありませんよと。
つまり、本当のコンプレックスというのをみんなは勘違いしているのはないだろうか、という話である。
オレはコンプレックスというのは、努力でどうにもならないことだと考えている。
ありがちなパターンとして、自分が納得出来ないところをコンプレックスとする場合がある。もちろんその気持はよくわかる。
しかし、最初からその人の条件として持って生まれたものと、あとから努力で変えられることを勘違いしてはいけない。
例えば、「頭が悪い」というのをコンプレックスにするとしよう。頭が悪いというのは、基本的には努力の問題である。もちろん努力を最大限にした時の、上限での限界というのはある。しかしこれは才能という言葉で表される。
努力を怠っている人ほど、頭が悪いことをコンプレックスにしているのではないか。
さてゲイの世界。年齢をコンプレックスにしたり、身長の高低をコンプレックスにするのは、もうこれは仕方ないだろう。肌の感じや、考え方ではなく、純粋な年齢がゲイの中ではかなり評価の対象になるので、若々しさを保つという部分は努力できるが、年齢を戻すことは完全に不可能である。身長の高低もそう。シークレットブーツなど履かなければならないし、低くすることは不可能だろう。
しかし例えばデブとか、ガリなどの体型の部分。これはコンプレックスにするのはそもそもおかしい。努力で変えられるからである。もちろん体質もあるので、ガリがデブになれないとか、その逆とかはあると思う。しかしデブは普通体型には出来るだろうし、ガリも同じだと思う。努力の先の部分がコンプレックスとなるのであって、努力をしていない状態をコンプレックスとするのはおかしい。
上記2つの例は比較的理解しやすいと思う。
しかしコンプレックスには更にもうひとつのパターンが存在する。
それが、本人の努力には限界があるが、周りの力を借りて克服可能なものである。
すぐに思いつく例が2つあり、顕著な例としては体毛だろう。オレは年下のかわいい子が好きだと常々書いている。そしておそらく年下の子も、かわいらしさに一定の需要があることは自覚があるとおもう。
この時に案外体毛の濃さがネックになる。それはオレが気にする以上に本人が気にする場合が非常に多い。例えばメールの最初の頃に、「僕って体毛濃いけど大丈夫ですか?」みたいな感じ。むしろオレの方があんまり気にしないぐらいである。(もちろん無い方がいいことはいい。)
そして体毛は脱毛という方法で克服が可能である。もちろん全身の脱毛はコストも時間も覚悟も必要だ。だけど例えば手っ取り早く顔だけであれば、見違えるようになる。そのためのコストもせいぜい10万前後である。
そしてここが重要である。お金を払えば解決すると。最初に挙げたコンプレックスはそもそも克服ができない。二番目は克服できるが努力が必要。
しかしこの最後に挙げたコンプレックスはお金次第で克服可能というのが素晴らしいではないか。もちろん美容整形によって顔のコンプレックスも克服できるかもしれないが、これはリスクも、また割り切れない色々なことがあるので、オレは推奨しない。顔は克服できないコンプレックスとなり得るとさえ思っている。もちろん現実的に払える範囲でなければならないのは事実である。男性が女性になったり、その逆は、リスクも莫大なお金もかかると思うので、これを悩みやコンプレックスにするなら理解できる。
しかし特にヒゲにおいては、容易に克服できる。こういうコンプレックスをコンプレックスとしているのであれば、早々に解決して欲しい。例えば背を高くしたいとか、体型もガリガリぐらいにスリムになりたい、という希望を実現するためにもし100万前後で解決するならむしろ安いぐらいである。そりゃーイケメンになれるならもっと何倍も払っていい。
こうしてお金で解決できる事をコンプレックスにしてはいけない。もしコンプレックスにするのであれば、数万円を用意できない自分か、克服に一歩踏み出すための勇気がない自分に対してである。
あ、ちなみに他人の努力で治せることのもうひとつは歯です。これはオレが歯フェチなので。キレイな白い歯はかなりの好印象に繋がる。そしてこれは現実的な費用で実現可能である。
※12時追記。以下のようなものをいただきました。アクセスいただいている皆様のおかけです。
これからも頑張っていきますので引き続きよろしくお願いします。
2010/12/02 考え(自分関連)
ツメをどの程度切るのか。自分のことだし日々のことなのでそれぞれこだわりや考えがあると思う。あえて言いたい。そのこだわりは一度捨て、今回の記事で主張するオレの意見にぜひとも同調・賛同して欲しいのだ。
最初に結論。やや深爪ぐらいにしっかりとツメを切ろう。
全員、あまねくそうするべきだとは言わない。ゲイであればタチ。ノンケであれば男性諸氏すべてが対象である。
今回はちょっと細かく記そうと思う。ツメをどこまで切るのか、というのはそれぞれだと思う。で、オレが今回主張する切るべきツメというのは、ツメの先端の白い部分を無くすぐらいである。
人によってはこの状態を深爪と表現するかもしれない。※くれぐれも血が出る程まで切ったらダメですよ!
オレはかつて、ツメの白い部分を数ミリ残すように切っていた。それ以上ツメを切ると痛いし、日々の生活の中でツメが必要なとき、(シールをはがしたり、缶のプルタブを開けたり)それができない事で問題が生じてしまう。
ツメは適度な長さが便利であって、必要以上に切ってもメリットは全くないと考えていたからである。おそらくそれは事実でもあると思う。
あるとき、友人のツメを見て「深爪じゃないの?痛くないの?」と聞いたときに驚く答えが返ってきた。「人をひっかくよりいいじゃん。それにエッチするときは短い方がいいんだよ」と。
オレは大変大きな衝撃を受けた。
今までツメに関しては自分のメリットしか考えていなかった。しかしその友人はツメのメリットを他人に向けていたのである。なんという大きな視野だろうと。こんなことで単純だと言われてしまうかもしれない。しかし単純なことだからこそ真理が含まれていることはよくあるのだ。
その時、オレはまだ性的な経験は浅く、若さが全面に押し出されるような行為しかしていなかった。だからツメの長さよりも優先し、意識しなければならないことがあった。しかしこの件があってから、ツメが短いというのは確かにメリットがあることを知った。
相手の身体に触るとき、指の腹を使うのが基本だと思うが、ツメが当たらない方がソフトに触ることができる。
色々な穴をほぐすとき。ツメが短い方が痛いと言われることが少ない。それは女性を相手にしても、男性を相手にしても共通である。そしてオレはこれを強調したい。
あなたがタチならば、当然そういう行為があるだろう。このときネコはタチと違って多少の負担を強いることになる。ならばせめて指をいれてほぐすときぐらいの負担は軽減させてあげたい。
別に今のままで大丈夫だと思っているかもしれない。しかし、しかしである。大変デリケートな部分を少しでも傷つける可能性を排除できるなら、あなたがツメをしっかり切る理由を妨げはしないだろう。