過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

  2011/12/14    ブログ

ぺらん子さんは、かなり異質な内容のブログだ。それはもう過去に何回か書いたと思う。
お笑い担当枠だったり、最近ではキワモノのコスプレにも挑戦されている。ネタも昔に比べて洗練されているように思う。

最近の記事( ぺらん子として過ごした1年 )の中で、ブログを始めた理由を「お金のため」と言っていた。
ネタなのか本当のことなのか分からないが、アフィリエイトということでは僕も思うところがあるので書きたいと思う。そしてもちろんぺらん子さんの記事は金銭は抜きにしてとてもおもしろいというのを添えておく。

僕がブログを始めたきっかけは、一番最初の記事に書いたとおり。日々の閉塞感が大きいのと、彼と安定し始めたかも?と思えるような日常だったので、それを綴ろうと思ったこと。ゲイの業界に身を置いてから、色々と考えていたことなどをまとめたかったこと。などなどである。もちろんお金のことはゼロであった。

そもそもアメブロで始めたので、アフィリエイトはかなり限られていたし、たいしたことはできなさそうだった。アメゴールドというような考え方も、ビジネスとしてはともかく、自分がそれに乗るようなことは大嫌いだ。

だから最初の方の記事で、アマゾンのリンクを少し張ったぐらいで、収益に関してはまったく意識していなかった。むしろアメブロでは強制的に広告が表示されるので、わずらわしささえ感じていた。

そしてFC2への移転。このとき僕はアメブロのデザインになるべく似るように、大幅にデザイン・レイアウトをいじった。そしていくつかの仕組みとともに広告の挿入ができることも知った。

もともと金銭的なことは考えてなかったし、もし広告を載せたところで、まったく効果がでないであろうことも想像していた。しかしそうはいっても、載せることにリスクは無い。だから google の広告を載せるようにした。(※そのため日々の記事の最後には広告が表示されていると思います)

今まで書いてきたいくつかのブログやホームページでもアフィリエイトに効果が出ない、出にくいのは常識として考えていた。そして当然自分のブログもそうであろうと。

なお、僕が利用している広告は2つあって、アマゾンの商品リンクとgoogleの広告。
アマゾンのは、オナホの話の時は商品を掲載したと思う。アグリっ娘というマンガを紹介したときも、アマゾンへのリンクが張られている。両方ともこのリンク経由で購入すると、僕の手元には10円ぐらいが入ってくる。

googleの方は日々の記事の下段に表示される部分。こちらはクリックされた数に応じて。1クリックで50円ないぐらいだろうか。

そして今までの結果。
例に漏れず「ほとんど」クリックはない。しかしほとんど無いだけでゼロではない。これにはとても驚いた。FC2では有料プランというのは無いのかもしれないが、他のブログツールでは、有料プランがある。たいていは安価で例えば300円/月とかで有料プランを利用できる。そしてその有料プラン以上の収益安定的に毎月出ている。

要するに、今までの広告収益は1年ぐらいやって3,000円ぐらいにはなったと思う。ちなみにほぼ完全に google から。

僕の書く記事が、毎月300円を生み出すなんてとても素晴らしいことではないか。これには僕も驚いた。だってぺらん子さんが書いているように、予想では1年間で300円とかを想像していたから。ちなみに増減もあるので、一概には言えないが平均的に月1,000円を切るぐらいだった。今は更新が少なくてアクセス数も少ないので、そこまでないです。

あまり金銭の話をすると、ブログを好きで読んでいただいている方からすれば嫌悪感があるかもしれない。僕もあまり露骨なそれは何となくイヤだ。
もちろん儲けても仕方が無いので、ネタになるような使い方をして、記事で紹介できたら楽しいですね。

  2011/12/13    考え(ゲイ関連)

飲みの場所で話をすると、おとなしくしているときや仕事の話をしているときは、僕はおそらくマジメだと思う。それは自分で言ってもたぶん違和感が無いし、周りもそのように受け取ることに異論は無いと思う。

しかし仕事を離れてのそういう時、僕はまったくいい評価をされない。必ず遊んでそうだと言われてしまう。

なぜ僕が遊んでそうという評価を受けるのかは全く分からない。例えばそれは、人見知りをせずに色々な人に声をかけることができているからなのかもしれないし、楽しそうにしている部分を見てなのかもしれない。

しかし実際のところ、僕はこのブログに書いている通りの性格だし、ツイッターでつぶやいている通りの性格である。若干めんどくさくて、自分勝手な感じ。

遊んでそうという評価がいい評価だとすれば、それはとてもうれしいことだと思う。しかし実際には、その言葉にはいいこと意外の評価が含まれているのではないか。
楽しそうとか、トークがおもしろいとか、そういうことであれば。しかし実際には「ヤルことしか頭にないんでしょ」みたいな印象。

表現のパターンというのは、どうしてもワンパターンになりがちで、トークがあまり好きではない僕にとって、いくつかのおもしろくするための王道のパターンがある。だからついそれを多用してしまう。だからこそ、すべての人が僕のことをそのように評価することにつながっている。だからトークのパターンを変えた方がいいのかもしれない。

色々な人の話のパターンを聞いて、とても参考になることがある。それが笑いという意味のおもしろさではなくても、人柄が出るようなおもしろさというのだろうか。しかし僕の性格とは違う部分もあって、なかなかその手法をパターン化できていない。
あと、僕の尊敬する人が笑いのパターンの人だったから、その人を真似てしまっているということも大きい気がする。

もちろん遊んでそうという評価だとしても、それは活発とかそういう意味で、いい方に受け取ればいい。実際僕が遊んでそうだとしても、本当に遊んでいなければ全く問題ないわけだし。
どのような印象を持って欲しいのか。という部分についてコントロールする気は無い。だけど、やっぱりいい印象の方がうれしいので、がんばろうと思いました。
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  2011/12/12    考え(ゲイ関連)

束縛について、まだ僕の意見を表明していなかった気がする。ということでこれについて。

僕はかねてより、おとなしくてマジメな人が好きだということを書いた。友人などはいないぐらいの方がいいと思っている。

それを非常に端的に表現するのが、「飲み会などに参加しない人がタイプ」と言うことである。すると、結構な確率で言われることがある。「束縛するんですね」と。

結論から言ってしまうと、僕は束縛することが大嫌いである。だから何をしてはいけないという形での束縛は絶対にしないし、今までもしてこなかった。誰かの何かをコントロールしようとする気は全く無いし、それは何かにつけて僕が表現している一貫した主張でもある。

しかし交友関係が広ければ心配なのは事実である。だから答えは一つしか導けない。
交友関係が無い人、場合によっては築けない人と付き合えばいいのだ。そうすればその人が自由に行動する=誰とも知り合わないということが成り立つ。

だから難しいとも思っている。じゃあ僕とどうやって知り合うんだ。と。それも含めて、かつての僕は誰かと付き合うことを諦めた。第一なにもアピールしなければ、絶対にモテない。だからどうしても活発になってしまう。かわいい子だったらなおさらだし、僕のようなブサイクだってがんばっている。だからおとなしい子というのは絶滅してしまう。

たまにいるかもしれないおとなしい子も、おそらく僕の所属するようなコミュニティでは知り合う事さえできないだろう。だから僕の思っている理想像と付き合うことはほぼ不可能であった。

結果的に、束縛と同じ状態になっているかもしれない。ただ重要なのは、それは僕が望んではいるが、強制はしていないということ。誰かと楽しく過ごした方が楽しいという大多数の人の意見だってあると思う。そしてそれは事実でもある。しかし一部の人は、そういうことが大嫌いで、一人で過ごしている方がよっぽど楽しい思う人もいる。そういう人との方が僕は気が楽でもある。

なお、束縛というほど強制じゃなくても、お願いという自主性にゆだねる方法を取ることはよくある。「ダメとは言わないけどイヤだと思っている」そのように主張するだけで、たいていのことは相手が受け入れてくれるのは経験談から。
ただ以前にも記事で書いたけど、いくつかの重要なお願いのほかは何も言わないように気をつけている。

だから僕は束縛をしないタイプだと主張しても問題ないと思っている。
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  2011/12/11    考え(ゲイ関連)

恋人がいます。という話を聞くと、必ず「どれぐらいの期間つきあっているんですか?」という話を聞く。

だいたいの場合は1年以下であるし、マレに続いている例を聞いても2年以内ぐらいが非常に多い。それ以上というのは本当に少ない。

そんな中で4年付き合っているという話を聞いた。このときに大変驚いたのは、「4年○ヶ月」そのように答えたのである。

4年というのは、僕にとっても人ごとではない。たぶん僕たちもそろそろ4年目?5年目?に入る。しかし○ヶ月という部分どころか、○年目というのさえあやふやである。1年ぐらいであれば、確かに○ヶ月という部分を覚えているのは分かる。しかし2年以降はもはや季節、、、僕たちの場合であれば夏、、、などの季節感を覚えているぐらいで、付き合った日も月も覚えていないのではないだろうか。もしくはあやふやになるのではないか。

また誰かに期間を聞かれても、4年目です。とか、そろそろ5年になります。程度で十分ではないか。なぜ○年○ヶ月と回答するのか。

これをもし乙女という言葉で表すことができるのだとすれば、たいへん興味深い。僕も彼も比較的そういうことには無頓着で、だいたいの時期は覚えているけど、詳細な日付は覚えていないし、○ヶ月の部分については、おそらく付き合い始めたのが8月の終わりだから、、今は12月だし計算して、、、なんてことを一瞬でやっているのだと思う。

常にその期間が頭の中に入っているのは、とてもすごいことだと僕は思った。

ちなみにまだ短い人の場合。
半年というのは、一つの区切りになり得るため、すごく緊張してしまう。特に1-2ヶ月ないしは3ヶ月ぐらいの頃というのは、すごくドキドキする。
もちろんそのまま幸せになる可能性というのはあり得るけど、場合によっては破局が目前に迫っている可能性だってある。

今までいくつか聞いた話では、やっぱり我慢の限界を迎えるという例が多かったように思う。さんざん我慢して、突然すべてを放出する人もいた。少しずつ指摘してお互いの限界を迎えるという人もいた。

逆にもはや家族みたいなものなので、我慢するしかないっていう人もいたし、相手にはなんの不満も持っていないという人もいた。

長期でのつきあいというのは、我慢よりも慣れというのが正しいことなのかもしれない。ただ無頓着だから長期なのか、神経質だから長期なのか。それは僕には分からない。
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  2011/12/10    考え(ゲイ関連)

僕は相手の携帯は絶対に見ない。何にせよ、人のプライバシーをのぞき見ることに妙な誘惑というか魅力というか強い好奇心というか。というのがある。

僕ももちろん例外ではない。ただ、少しだけ僕は他の件で、容易にプライバシーを暴くことができるので、プライバシーには興味が無いという気持ちも若干ある。
例えば僕の仕事では、メールやホームページの履歴について管理することがある。誰がどのページを見ているのか。誰がどのようなメールを送っているのか。もちろんこれらは業務利用という前提があるが、もしプライベートなことをしていても、僕はそのことを知る立場にある。

そしてそれを知ったところで、僕にはなんのメリットも無いし、誰も幸せにならない。大儀名文は仕事に関係無いことをしないさせないことだし、漏洩を防ぐことであり、誰がどのページを見ていたのかを知ることは本質ではない。

だからこそ携帯のチェックも同じようなことだと思う。見ようと思えば見られるかもしれない。しかしそんなことはしない。
すごく誘惑されるのは、相手が携帯を家に忘れた場合。葛藤があるし、そこにあるんだし。。。といって、誘惑が無いわけではない。しかしそれをしないのが暗黙のルールではないかと考えている。

後ろめたいことがあるのか無いのか。それと携帯のチェックは関係が無いと思う。例えば「かわいい」という表現が、前後の言葉で意味は異なるだろうけど、かわいいという言葉だけが一人歩きしてしまい、あらぬ誤解を生じる可能性もある。
誤解を生じる表現のすべてが問題だと言うのであれば、確かにその通り。しかしその誤解というのは、非常に曖昧である。

だから何も無かったとしても、見る・見られるのは双方にとって幸せにはなれないような気がする。

と、そういう話をしたときに、すごく驚いたことがあった。僕は送信メールを見られたときの誤解が怖い。そして友人は、もしくは大多数は受信メールを見られたときの誤解を恐怖しているということである。

タチ・ネコというポジションの違いかもしれないし、単純に性格の違いなのかもしれない。しかしそこには大きな考え方の違いがあるような気がする。
僕の場合は、おそらく受信メールのすべては誤解を生じないと思う。むしろ「色々な人から嫌われてるっぽいけど大丈夫?」なんて心配さえされてしまうかもしれない。それもまた誤解だと思うけど。一方で送信メールは別の誤解を生むだろう。

他の人は、おそらく受信したメールには、色々な口説かれているっぽいようなメールが来ているのかもしれない。だから受信メールを見られるのがイヤだといっている可能性がある。
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  2011/12/09    考え(ゲイ関連)

方々で、30代はモテるという話を聞く。僕自身はそのようにはどうにも思えないが、確かに30代ぐらいの落ち着いた人が好きだとかっていう話は聞く。そして落ち着き始めるというのは、20代後半からは確かにある。

だから落ち着いている人がタイプだとすれば、20代後半からは30代の人を選ぶのはとても賢明な選択だと思う。というのは今まで書いた話。

少し前のことではあるが、30代の当事者の人が、そのモテの話を少し僕にしてくれた。
確かその人は、30代半ばぐらいだったと思う。36ぐらいかな?僕はいつもの通り、30代からの苦労話というか、30代になって、どういう方向性がより素晴らしいのか、というアドバイスを聞くつもりで色々と訪ねてみた。

しかし返ってくる答えはすべて意外なものであった。

話の端々に、20代の延長でもてているような。そのような発言が多かったのである。僕はいわゆる成熟というのが非常に重要だと考えていた。しかしまだ30代はそのようなことを考えずとも大丈夫だという感じ。

僕にはこれがとても驚きであった。
例えば、運動をしなくても(もしくは軽い運動で)腹筋が割れているのが20代だとしたら、運動と食事をがんばるのが30代。そして(ここからは予想だが)腹筋の割れ以外に活路を見いだすのが40代以降だと考えていた。

つまり20代のまま30代を迎えることなど、僕の考えからはほど遠いし、ましてやそれでは40代に生き残ってはいけないだろう。そして残酷なのは、そのままであれば確実にしわ寄せがくるということ。腹筋の例に戻せば、何もしないというのは、中年への簡単な一歩である。

本人はそれでもいいと思う。何もその人のことを批判的に考えているのではなくて、おそらくその人は本当にそのように考えているのだと思う。容姿から判断するに20代もきっともてていただろうし、そのまま30代ももてているのだと思う。もちろん肉体的な衰えはわずかで、精神的には大きく成熟し。だから相対的にかつてよりも魅力が増しているのだろう。

だから僕はその意見が怖い。僕はそれが当てはまらないと考えているから。

そして周りはもっと残酷。例えばそのときの会話でその後の話。「○○さんはああ言ってたけど、実際体型とか肌とか、細かく見るとオジサンだよね」と。そう。だから結局30代は強制的に、違うステージに運ばれてしまうのである。

でも僕には本当にとても参考になった。そういう考えがあって、しかもそれをちゃんと実践できているわけだし。
きっと言っていること以外の努力はたくさんしているのだと思う。

僕にはできないことだからこそ、うらやましいと思うし僕も負けてはいられないと思ったのである。
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  2011/12/08    考え(ゲイ関連)

僕は世の中には知らない方がいいいこともあると思っている。例えばドラッグ。はまるとかはまらないとかじゃなくて、知らなければ欲求も生まれない。だから何事も経験だ。なんて安易に言うけど、ドラッグは必要無い。
並列的に例示するのはアレだけど、たばこもそう。合法的だからなんら問題は無いが、それでもやっぱり知らなければ欲求が生まれない。アルコールは微妙だけど、覚えなくてもよかったかな。

と、いくつかの極端な例は多いが、好奇心の方向性はとても重要で、もし意図しない状態で体験するようなことになったとしても、本当に体験してもいいのか判断することは、場合によっては体験しないという決断をすることも大切だと考えている。

その知らない方がいいことで、意図しない形で体験してしまったことが一つ。
それがいわゆるフケ専というジャンル。

友人に連れられていったお店で、「おじさんに見える若い人」と、とうに定年は迎え、年金生活であろうことが想像できる、おじいちゃんの二人が仲良くしていた。

まず僕はここで2つ+(プラス)の衝撃があった。
一つは、白髪のおじいさんをゲイが集まるようなところで見かけたこと。
一つはカップルなのか友人関係なのか分からないが、非常に親しげな二人組ということ。
その後に知った話では、若く見える方はそれでも30代後半?40代?だったということ。

もちろん年齢がいってからの恋愛について、僕自身がどうのこうのいうつもりは無いし、それは常識的に理解している。ゲイは数人に声をかければ必ず介護職ないしはそれに近い人がいるから、そういう方面からも高齢者の恋愛の話は聞いたことがあるし。

しかしそういうことと、自分と接点が生まれることはまったく別な話。まるでフィクションだったのが、現実になってしまうような。このとき生じた複雑な感情をどのように整理したらいいのか、表現すればいいのかまだ分からないけど、とにかく衝撃だったこと。

フケ専というジャンルがあることは知っていた。しかしそれは40代だとか50代の人がタイプだと言うことなんだろうと理解していた。まさかそこまでだとは思わなかった。
この場合、例えば40代50代の人がタイプだというのであれば、それはまだ理解できなくはない。ダンディっていう言葉もあるぐらいだし。
しかし年金を受給しているだろう年齢の魅力はどこにあるのだろうか。性的なこと?肉体的なこと?精神的なこと?老害などという言葉があるように、そこに魅力を感じにくいと考えている人が多いのではないだろうか。

そして若く見える人について、僕は20代後半だと思っていた。昭和中期のような格好をしているその人は、おそらく年配の人に好かれようと、そういう格好をわざとしているのだと考えたのである。そういう格好をしているわけだから、年代もいまいちよく分からず、だからこそ、若いという判断をしたし、髪型やちょびひげなどで惑わされなければきっと若いと僕は思っていた。

しかしその人は僕よりもずっと年上だったようである。これもまた衝撃だった。結局話をすることが無かったが、終始衝撃の連続であった。

会話がすごい。
おじいちゃんは頻繁に咳き込んでいた。アルコールを飲んで。お通しを食べて。隣にいる若い人は、そのたびに背中をさすって、大丈夫?と声をかけていた。そして「自分もぜんそく持ちだから、咳がでるのはつらいよね。」というねぎらいの言葉までかけていたのだ。
こんなことはなかなかできることではない。

そのほかカラオケでもその人は歌が好きなのか、場の雰囲気を盛り上げようとしてなのかは分からないけど、積極的に歌を入れていた。さらに他の人が気を利かせて昭和の歌を歌えば、都度コメントをしていたし、必ず褒める言葉をかけていた。

このような気遣いができる人はそうそういない。
見た目のタイプというのが俗っぽい今の判断基準で大きなものだとすれば、いずれはそういう、精神的なことであったり、相手へのっやさしさで勝負を挑まなければならないのかもしれないと思った。
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  2011/12/07    フェチ/好み/タイプ

男女で共通しているパーツに興奮を覚える。
特徴的なパーツはもちろん興奮の材料だし重要な役割はあるがそれでも一番ではないような気がする。

かねてから書いているように、歯がまずは一番。次にはどうだろうか。体型っていうのもあるけど、腰のくびれとか腹筋周りのすっとした感じは好き。
背中とか首筋の、いわゆる性的な部分とは直接結びつかないような場所が気になって、(もちろん下着のチラっと見える要素なども含めつつ)後半になって、いわゆる性器そのものが興奮の材料となるのである。

そしてとても象徴的なのが、胸。男性も女性も持っている器官だが、見た目が大きく違う場所。それが胸なのである。

僕は女性のふくらんだ胸は大好きである。別に大きい必要は全然ないけど、とにかく女性らしさの部分で、唯一に近いぐらい惹かれる。
もちろん男性の胸も、それをどのように表現したらいいのか分からないけど好きである。

色々な話を聞くと、女性の身体にはまったく興奮しないという話を聞くことがある。僕は本能として、反応しそうな気がするんだけど、女性のそれにはまったく反応しないらしい。事実確かに女性と初めて行為をするようになったとき、結局反応しなくてできなかったという話は、ゲイにとっては珍しいことではない。だからたぶん反応しないのは本当のことなんだと思う。(ちなみに男性は些細なことで反応しなくなるので、最初や最初の頃の反応の無さがすぐにゲイに結びつくわけではありません)

そういう人の場合、胸はどのように考えるのだろうか。もちろん膨らんでいればそれだけで、違うモノとして理解はできる。実際その通りだし。だけど器官としては同じ気がする。僕の場合はあまりふくらみのそれは気にならない。
むしろ乳首の大きさは、男女で全然違うので、そこは正直なところ違いを意識せざるを得ない唯一に近い部分だと思う。

お尻のラインというのもなんだか難しい。男性の場合のそこは僕はあまり興奮の要素にはならない。女性がグラビアなどでお尻のラインを強調しているのは、とてもすばらしい光景だと思う。しかし同じことを男性がしてたとしても、もちろん同様にすばらしいとは思うが、なんというかそこまでの興奮は無いように思う。

何となく、女性の場合は静止でも絵になるのに対して、男性の場合は動きが感じられた方が、躍動感があった方がより自然に興奮的な要素として見られるのかもしれない。

かわいいという要素は、男女に共通である。でもきれいっていう要素は男性を見る視点では生まれない。逆にかっこいいというのもそう。
だから女性的~男性的という数直線があった場合に、僕はその中間が好きになるって言うことだと思う。
女性的-----[-----+-----]-----男性的 僕が好きになる範囲
きっと僕の恋人は
女性的----------+[----------]男性的 彼が好きになる範囲

ってことなんだと思う
タイプとしての範囲が広い・狭いというのはあると思うが、もし連続的な部分ではなくて、距離の離れたタイプを好きになるというのはあり得るのだろうか。

もはや疑問はつきないのである。
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  2011/12/06    考え(ゲイ関連)

「無し」と僕はよく言っていること。もうちょっと誤解のない表現をすれば、脈無しっていうこと。
この「無し」の人にいつまでもつきまとう=口説くのは、非常に悲しいことになる。

逆に「有り」と僕が表現する対象。つまりは脈有りってことだろうか。は、適度なペース、距離感、ふるまいに注意しつつ交流することが大切だと思っている

僕はさんざん書いているように、モテないという発想が根底にあるので、しつこい好意はゼロだし追いかけるような事はしない。むしろもうちょっと押せば何とかなりそうなのに、最初の段階のイヤそうな表情で、すぐにあきらめてしまう。

しかし世の中全体的なことを言えば、脈無しからの逆転というのは無数にあり、それが成就するとすれば、かなりすばらしい恋愛になるのではないかと、勝手に思っている。

まんざらでもないお互いが、お互いの様子を見ながら恋愛に発展する前の段階を踏んでいるとき。これはもどかしくもあり、またほほえましくもある。男女においても、男性同士においても例外ではない。まんざらでもないと考えているだろうと容易に想像できる態度で接している両者は、まだ付き合うといえるほどの段階ではないのだろう。
しかし順調にいけば、そしてどちらかが転機を迎えて積極的になればすぐにお互いの距離は縮まる。

一方でその中間もある。第一印象や、何回かの交流では好きでも嫌いでもないというような感じ。
とても自然な友人関係を築いて、それが何かちょっとしたきっかけで恋愛関係に発展することもあると思う。もちろんどちらかが、少しでも積極的にならなければ進展は見られないが、それでも友人関係というフィールドから、恋人候補に上がるというのは、とてもすばらしいことだと思う。リスクとリターンなどと言ってしまうのはアレだが、それでもやっぱりバランスがとてもいいのではないだろうか。

さて、悲劇の部分。
お互いが無しと考えているか、一方的にアリと無しに分類されてしまっている場合。例えば僕は大好きだけど、相手は僕のことが大嫌い・苦手というような。
この場合に、何かしらが得られる結果を出すことが可能なのだろうか。もし無しということを実感することになったとしても、そこから何が得られるのか。そして逆転はあり得るのだろうか。

僕はとても難しいことだと思っている。まずは僕自身はこのパターンの場合は手を出さない。すぐにあきらめる。だからこの場合の結果がどうなるのかは想像できない。また外部からの問題もある。必死に仲良くしようとしているところを目撃されるだろう。噂として出てくるかもしれない。そういうときに、おそらくみんなが思う共通の認識は「きびしいでしょ」と。

健気に相手の後ろを追いかけるのは、とてもすばらしいことだと思う。しかしそこで成就しないことが確実に近いとすれば。それはどのように考えるべきなのだろうか。

僕が初期の頃に書いた記事で、身体を武器に誘惑してくる場合があるという話を書いた。「身体が目的で会ってもいいよ」みたいな感じ。
これは僕がタチとしての役割を担うから、相手が武器にできることだと思う。逆に僕が、身体を目的に・・・なんていうのは、おこがましい。むしろ距離が離れるだろう。
ご飯などで、少し高価な場所に誘うというのは、年齢を考えても武器にできるかもしれない。
しかしそこまでする必要のある、口説きたい相手というのは存在するのだろうか。
なかなか難しい話だと改めて思う。
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  2011/12/05    考え(ゲイ関連)

今まで、ある一定の年齢を超えて独り身の場合、それは必ず訳ありだということを書いてきた。そしてそれは今でもそのように大半は思っている。

しかし、そのように意識するようになって、一部の人は、魅力的であるが独り身であるというパターンも少なからず存在している。その理由について、いくつか考えてみたい。

まず前提として、やはり僕は20代半ばから後半。30代の前半ぐらいに落ち着くことは非常に重要だと考えている。その時期を逃すということは、やむを得ない理由があるだろうことは想像できるけども、それでもやっぱり、、、という発想が出てきてしまう。

しかしそうは言っても全員がその時期に必ず恋人を作ることは不可能なので、一部あぶれている人がいるのも事実。ただしあぶれている人にはある程度のパターンがあるのではないだろうか。っていう気持ち。

僕の友人には、とても魅力的な人が多い。何度となく言っていることでもあるが、僕のこの特殊な性格にちゃんと付き合ってくれる人・向き合ってくれる人というのは、異常者かよほど心が広い人だろうと容易に想像ができるのである。そして僕はそこに十分に甘えさせてもらっている。

そんな魅力的なそれぞれの友人であるが、なかなか恋人ができたという話を聞かない。むしろいない期間の方が長いのではないだろうか。

それぞれについて、具体的にどのような理由で恋人がいないのかは分からない。もちろん話を聞いているとだいぶ理想が高そうだし、性格的にマッチングが難しい可能性なども考えている。しかしそれらを考慮にいれても、もう少し付き合っててもいいんじゃない?と。

そして最初の話に戻る。
訳ありという表現をしていた、一定の年齢を超えた人のことであるが、魅力のないというネガティブな側面での訳ありということが今まで想像していた中心であった。しかし実際には、魅力的な人だが、タイプや性格の理想が大きく違っている人というのも存在していた。

例えば僕からみて非常に「かわいい」という友人がいた場合、その友人は「いかつい人」と付き合いたいと願っているとする。すると、この業界ではタイプの選別が激しく、やはりかわいいというのは、いかついに変更するのは難しいように思う。そういうミスマッチはあると思う。だから魅力的でも付き合えないという可能性。

しかしだからといって結論は変わらないと僕は考える。年上が好きだ。そのように言う人は、やっぱり、普通の人はもう誰かと付き合っている可能性が高い。残っている魅力的な人は、その人の理想が高いために付き合っていない可能性がある。

そうなると結局20代後半から30代の人と付き合うのは、とても難しいのではないかと思ってしまうのである。

そうやって書いているが、僕もいつ振られるのか分からない。もし振られたら、完全に訳ありに分類される。これはとても怖い事だ。
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