過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

  2012/11/12    考え(ゲイ関連)

こんにちは。そしてご無沙汰しております。
何となく毎月1回は更新したいと思っているのですが、書きたいと思う事があっても、若干プライバシーに関わることだったり、書くための時間を別途で確保するのをおっくうに感じたりと、なんだか更新の間隔が空いてしまいました。
これからもこんな調子で不定期でやっていきたいと思います。

さて先日、友人と会った際に元気がないと言われてしまいました。最近は友人と会うことが少なく、あまり他者とのコミュニケーションを行っていません。(だからネタがないんだけども)そういうこともあって、きっと友人たちとあったときのテンションが分からなくなったのだと思います。
あと、元々僕としては、一人静かにしているのも結構すきなんですよ。。
今回の記事は特にそのときにヒントを得たネタではなく、前々から書こうと思っていた事です。

– – – – – – –

過去の恋愛経験を聞くことは、次の新しい恋愛を示唆することが多いので、僕はとても重要な事だと考えている。

今まで恋愛の破局というのは、2つのよくあるパターンがあった。
振る方か振られる方かということである。

振るというのは、とても勇気のいることである。恋愛の今後について結論を出すのは、お互いの気持ちが離れていたとしても、それを宣言するのはなかなか大変なことでもある。
だからといって、自然消滅のような事がいいとは思えないし、中途半端な状態を維持するぐらいであれば、早々に結論を出すべきだと考えている。

逆にすぐに結論を出す人もいる。熱しやすく冷めやすいとでもいうのだろうか。こういう場合は、付き合うまでの決定が早い一方で、冷めてからの終止符という決断も早いように思う。

僕はおそらく振られる方だと思う。未練たらたらということではなく、僕自身は鈍感で、完全に破局を迎えているような恋愛でも、それに気づかずダラダラとしてしまうのかもしれない。だから過去を振り返ったときには、振られることが多かったように思う。

振られてからは、もちろんショックも大きいけど、良くも悪くも後に引きずることはほとんど無かった。それは僕の性格がドライだからかも知れないし、大きなショックを受ける程まで相手のことを大切に思ってなかったからなのかも知れない。
ただ僕は今まで振られたいくつかの時には、やっぱり相手に対して申し訳ないという気持ちが大きかった。告白して付き合うのも、破局を迎える決断を出すのも、なるべく僕自身がそれをするべきだと考えていた。その方が相手に余計なストレスを与えないだろうと、結構本金で思っているのである。

過去の恋愛経験を聞いて、振るタイプの場合は、あまり気にする必要は無い。場合によっては決断が早すぎる可能性はあるけども、時間の浪費という最も犯してはならないことを防ぐ事ができるからである。
逆に振られるタイプの場合、相手が振るタイプなのか、振られるタイプなのかを知っておく必要がある。振られるタイプと振られるタイプ。この組み合わせが僕はとても気をつけなければならないと思っている。

恋愛で性格が合うと思える人と出会うのは難しい。だからたくさんの人と知り合って、付き合って、たくさん失敗して特定の人を見つければいいだけのことである。もちろん難しいし大変なんだけども。
振る場合というのは、結論を出すのが早すぎるというミスはともかくとしても、その結果として無駄な拘束を生まない。

逆に振られる場合というのは、相手がそれを切り出さない場合、不貞を働くのであればともかくとして、そうじゃないのであれば、無駄な拘束を生む。
客観的に破局を迎えていたとしても、そのことについて結論が出ていなければ、新しい恋愛をすることは不可能である。それに心の入れ替えもできないだろう。
きっと相手も別れを切り出すのを待っているのかも知れない。そして自分も。そのような状態で、数ヶ月を浪費するような事があったら、貴重な期間をたとえ数ヶ月だとしても失う事になる。
僕は、「長く付き合あうべき人と早々に別れてしまう」事と、「すぐに別れるべき人といつまでも付き合ってしまう」事を比べるのであれば、早々に別れてしまう方がマシだと考えている。少なくとも、早くに別れてしまう場合には、次の恋愛を探すための行動ができる。
いつまでも結論が出ない場合には、実質破局している今の恋愛に拘束され、新しい恋愛を探すことができない。

どちらを選ぶのも残酷かも知れないが、結論が早く出るのがまだマシだろう。

もちろん別れる事を促すような意味ではない。ただもし「もうダメだ」という状態になったのであれば、それが修復が難しいと判断した時点で、早々に結論を出すことが、次の幸せを見つけることにつながるのではないかと思うのである。
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  2012/09/13    考え(ゲイ関連)

オレは自分のことはもちろん、他人のセックスの話が嫌いだ。
性的な話というのは、話をすることも聞くことも好きな人がいる。もしくは興味津々に細部にわたるセックスの話を聞きたがる人というのもいる。

オレはセックスの話をしたいとは思わない。一つは恥ずかしい。自分がどのようなプレイをしているのか。それが変態的であろうと、ノーマルであろうと。ライトであろうと、ヘタであろうと。細かにそういう話をするのは好きになれない。

聞く時もそう。性的な話を聞きたいとは思わない。せいぜい役割としてのタチとネコぐらいを知ることができればそれで満足である。決してどこか感じるとかの情報は不要だ。そして誰と肉体的な関係を持ったのかということも。

嫌いな理由は、生々しいというのが大きいように思う。

特に友人の性的な話は、それを想像するときに友人の姿が頭をよぎる。相手の事を知っている場合にはそれらが頭の中で交わるのである。決して快いものだとは思わない。だからセックスをしたということぐらいは会話に出てくることは普通と思う。しかしそれ以上のこと・・・例えばバックがすごく感じるだとか、こんなプレイがすきだとか・・・そういう事はむしろ伝えないで欲しいのである。

嫉妬もある。オレだって色々やりたい!そう思う事がないわけじゃない。だから自由に色々やっている話を聞いて、いいなー。と心の中では指をくわえてしまうのである。だからオレにそんな想像をさせないで欲しい。

セックスの話をするのはすごく難しい事だと思う。気持ちいいという話を聞けば、聞き手には嫉妬が芽生えるように思う。気持ちよくないという話や、セックスの失敗談はまあいいだろう。感じる場所や好きなシチュエーションとしての会話であれば、個別の事象にスポットを当てて会話を楽しめばいい。
決してセックスの始まりから終わりまでを語るようなことがあってはならない。
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  2012/08/29    日常

先日の 8/21(火)~8/26(日) まで北海道に行ってきました。
新潟からフェリーに乗って、北海道まで。各所を観光し、苫小牧から大洗(茨城県)に戻ってきました。

これといった事はありませんが、とりあえず同じ人と1週間を過ごすのはやっぱりいつもとは違うということでしょうか。

基本的に常に一緒にいるという行動は、日常とは違っていました。
フェリーには10時間近く乗っているので、その間何をして過ごすのか。例えば僕は一人で気ままに船内をうろうろしたり、時には甲板に出て景色を見たり、海の音を聞いたり。好き勝手に時間を過ごすことができます。
しかし今回は一緒だったので、甲板に出るときにも一緒に。ご飯を食べる時も、暇な時間をつぶすのも一緒。
たまには一人になりたいという気持ちも僕はあります。相手にはそれが無いのでしょうか。唯一一人になった時間は、朝に彼が一人で温泉に入るときと、お互い船酔いして、相手は横になっているのが楽だということで布団に。僕は座っているのが楽だったのでイスに。このとき部屋が違うので別々の行動となりました。
それ以外は火曜日から日曜日まで、常に一緒の行動を行っていたのです。

あまり詳しい日程は書いても意味がないので。いくつか記憶に残っていることを。

フェリー。船酔いが心配でした。行きの新潟→小樽の時には軽く揺れる程度でした。だから船酔いも全然平気だったのです。また設備も非常に快適で、とても楽しく時間を過ごすことができました。

一方で、帰りのフェリー。苫小牧→大洗では、まだ沖縄近辺にあるというのに、その影響で波のうねりがありました。そのため船は上下方向に大きく揺れていたのです。もちろん立って歩ける程度ですし、船上での生活には何ら影響の無い範囲の揺れでした。しかしまあこれがこれが気持ち悪いのです。四六時中そのようなペースで揺れ続けていたため、前日まではビールなどを飲んでいたこともあり特に問題ありませんでした。しかし翌日にはとても気持ち悪くなってしまいました。
ぎりぎり吐かずにすみましたが、本当に限界ギリギリまでいきました。あぶなかったぁ。

雨。毎度彼との旅行では、必ず雨が降ります。今まで降らなかったことがちょっと記憶に無いぐらいです。行程のほとんどで降る場合もあれば、朝や夜にさっと降るだけの場合もあります。しかし毎回降ります。ということで、今回もしっかりと雨に打たれました。特にバイクだったので、これはしんどいと思える要素でした。そして景色も雲や霧でハッキリ見えない時も多くありました。残念ですが仕方の無いことでもありますね。

大雪山脈というところに行きました。家に戻ってきてから調べましたが、ここはずいぶんと遭難事件の多い山脈のようです。30代より上の年代には分かると思いますが、遭難者が「SOS」と叫んでいる声を録音した事故があったと思います。これもこの山脈だったそうです。またちょっと前にもツアーで登山した方々が遭難した事故もありました。

夏に行く山はそのような怖い側面を見せてはいませんでしたが、冬山はとても怖いということですね。

またこの山は高山植物の観察ができるということでした。調べたところ、高山植物は気温にも関連するそうで、もっと暖かい地方であればもっと高い山じゃないと高山植物に巡り会うことができないそうですが、北海道にある山だということで、あまり高くない山でも高山植物を見ることができるそうです。

よく見る植物と違って、高山植物は種類が少ないので、これは何という種類なのか。というのがすぐに照らし合わせることができるため、今でとは色々と違う楽しみ方ができたように思います。

バイク。今回は北海道をバイクで走りたいということが始まりでした。北海道は開発が最近になってされたからなのか、道がとにかく直線でした。そして車の往来も少ないのですごく走りやすい。スピード違反についてはさんざん注意されていたので法定速度を守って。眠くなるという事はありますが、とても快適でした。
いわゆる田舎道は、車の往来が少なくても、そのぶん道幅が狭かったりしてストレスがかかります。それに道が変な方に蛇行してたりとか。

その点北海道の道はまっすぐだし広いし。本当に運転のしやすいところだと思いました。
※今回走ったのが、小樽・旭川・富良野・苫小牧なので、その辺の道路の感想です。

スピード違反の検問に2回?見かけましたが、そんなに頻繁に検問やっているような感じはしませんでした。もちろん僕たちは無事故・無違反でした。

ホテルやペンションはまだまだ模索し無ければならないところが多くあるように思いました。
いわゆるシティホテルは、どこも甲乙つけがたく、良くも悪くもおしなべてサービスの質などは一緒です。ペンションは今まで3回利用したことがありますが、価格はだいたい同じ感じなのですが、サービスの内容はペンションによって大きく異なります。そのため自分たちに合ったサービスに出会うのは本当に難しいように思いました。
僕も彼も、「暖かい・家庭的」という言葉で形容されるような、オーナーさんなどが積極的に交流してくるようなのは苦手なのです。放っておいて!って。

バイクの運転三昧と、船酔いの印象がとても強かったのは事実ですが、とても楽しい旅行でした。
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  2012/08/14    考え(ゲイ関連)

以前。誰の前でだったか話をしたことがある。よりを戻すということの意味が分からない。と。

別れてからしばらく経過して、また同じ人と付き合う。だったら最初から別れなければいーじゃんと。

自分が振った相手の場合、戻る可能性があるなら振るっていうことがあまり自分のこととして考えられない。
自分が振られた場合は、戻りたいという気持ちは分かる。だからその場合はよりを戻すように働きかけるかもしれない。しかし振った相手の気持ちになって考えたとき、「よりを戻すぐらいだったら最初から別れないよなぁ」と考えてしまうのです。

よりを戻す場合に、その期間がどれぐらいだと適切なのだろうか。3年なのか1年なのか。半年なのか3ヶ月なのか。そしてその適切な期間というのが明確に決められないのであれば、やっぱり僕は正しくよりを戻すことは難しいのでは無いかと考えてしまう。

付き合う理由はともかく、別れる理由というのは致命的である事が多い。だからそれが根本から解決していない場合、再度付き合ったとしても、同じ理由によって別れる事になるのではないか。
数年が経過することによって別れるほどの理由になる部分が解決しているようにはとうてい思えない。

金銭のいくつかは、仕事などの変化によって容易に改善・改悪することがあると思うので、それを理由としたのであれば、なんとかなる事もあるかもしれない。しかし浪費とかだとすればなかなか解決しないだろうし、性格の不一致などでも変わることはなかなか無いだろう。

と、理屈の上で考えてしまえばそのようになってしまうのだけど、実際にはそのように画一的に考えることは適切では無い。

今まで何人かの友人のそれを見ていると、よりを戻すいいパターンというのは確かに存在するように思える。
ただし共通するのは嫌いになって別れるというわけではないと言うことだと思う。

例えば出張などで、それが長期になる場合、遠距離恋愛をすることももちろん可能だけど、出張を理由に別れを判断する場合もあると思う。そのときに別れてしまっても、また戻ってきた場合や、相手も一緒に出張先に来た場合など。そういうことであれば、よりを戻すということは可能だと思う。遠距離恋愛をいやがって、そういう判断をすることはあり得るだろう。

何かに注力するために別れを選択する可能性もあり得ると思う。20代後半ぐらいの、仕事においてはとても重要だと思えるような時期に、恋愛に時間を使うのであればそれを断ち切って仕事に打ち込みたいと考える場合もあると思う。わざわざ付き合っている人と別れてまでっていうのはあるけど、時期や恋愛の状況によってはその選択もあり得るだろう。

そしてこれらを理由に別れた場合、理由さえしっかりしていればお互いは嫌ってないことが多い。だからよりを戻した場合に幸せになる可能性があると思う。1、2年ののち、別れを選んで何かに打ち込んだ結果が出たとき、大きくなっているかもしれないし、失敗や挫折にうちひしがれているかもしれない。しかし別れたときとは違って、きっと成長していることだろう。

嫌いで別れたわけじゃ無いから、成長している相手を見てさらに魅力的に感じることはあるだろうし、自分も一人になった時期に成長しているはず。だからよりを戻すというのは、嫌いになって別れていない場合には有効なのでは無いかと僕は思う。
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  2012/08/01    考え(ゲイ関連)

ちょっと前にカミングアウトに関する考え方を書きました。そのときは今後時間をかけて何人かの友人に伝えていくというものでした。

そして実際、ここ最近で何名かの方々にカミングアウトをしました。
参考:カミングアウトに関する記事です

元々僕自身としては、緊張するようなシチュエーションを作り、あらためてゲイ(バイ)である事を伝えて・・・。などいう考えは無く、もともと恋人がいる事を普段から言っていますし、その人とある程度の期間付き合っていることを性別は特に主張しませんでしたが、伝えていました。

その上で、最近は結婚しないの?などと言われることも多くなってきたこともあり、そういう時に相手によってはついでに答えるようにしています。

元々カミングアウトをすると決めてから、言おうと思っている、思っていた人は何人かいました。妹、友人3人(女性2人、男1人)です。過去のブログに書いているように、ある程度都合をつけて、妹と友人2人には伝えることができました。

あとは男性1名の友人に伝えるだけです。そしておそらくそれは、年内中に完了するのでは無いでしょうか。

しかし僕が考えていたこととは予想外のことが起きました。というのも、今まで数名に伝えてから、もともと分かっていたことではありますが、やはりなんの問題も無く受け入れられています。そのため、恋人の話や結婚の話になったときに、もともと言うつもりじゃなかった人にも言ってしまうような機会が出てきてしまったのです。

それが先日ありました。大学生ぐらいからの友人で、いまだにつきあいのある友人が何名かいます。その友人たちとは、今でも友人としてだけでなく、ビジネス上のつながりもわずかながらあります。

そのため今までの友人と、親密の度合いも影響も違うと考えていました。親密の度合いでいうと、今までの友人の方がより親密だと思っていますし、影響という意味では友人であれば、受け入れられなければ、良くも悪くもそれっきりということが可能です。ビジネス上の取引があるとそうはいきません。嫌悪を示されても、責任は当然果たします。しかしそれが継続的な取引に影響を及ぼすことを拒否できません。

みんなが結婚の適齢期ということもあり、そしてそのメンバーの中で1人は最近結婚しました。僕は長く付き合っている恋人がいる事を伝えており、その他の2名は、それとなくうまくやっているような話を聞きます。

そして最近ではことあるごとに、「恋人さんをつれてきなよ」と言われるのです。海外オフィスも持っている友人なので、ぜひ事務所にも一緒に遊びに来てとか。
そういう流れの中で、いつまでも「いやいや人見知りだから来たがらないです」と断り続けるのもどうかと思っていました。
※ちなみにウソは嫌いな僕なので、恋人の性別以外はすべて本当の事を言っています。なので人見知りで来たがらないという事実は本当です。

そこで先日みんなで会ったときに、ついでに言ってしまいました。「連れてこないの?」「連れてきても良いんですけど、僕の恋人男なんですよ」「まじで!つれてきなよ!」「うーん。それに人見知りで来たがらないってのもホントですからねぇ。今度声かけてみますよ」「ぜひぜひ」

そんな流れでした。その後でちょっとだけ、「びっくりした」と言われましたが、まあそれぐらい。今までで一番何も無いカミングアウトとなりました。もちろん仕事もそれ以外も今まで通りです。

ちなみにびっくりしたっていう後で、「性別は特に言わなかったですけど、それ以外本当の話なんで別に気にしてないんですよ。ただ結婚しないのっていう質問にだけは正直答えづらいですねw」という会話をしました。
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  2012/07/18    考え(自分関連)

先日ニートについて、僕の考えを書きました。そしてその理由として、自身がニートであった時期があると書きました。
今まであまりその部分については主張してきませんでしたが、改めて僕の性格の根幹にも関わる事かもしれませんし、書いておきたいと思います。

一番最初にそのような状態になったとき。それは中学生の時でした。学生の時にニート・・・ということはありえないので、単純に不登校でした。2年生のときの1年ぐらいだったかな。

人間関係を形成する、もしくは集団生活という重要で貴重な体験を僕は1年間も得ることができませんでした。また当時は登校拒否と呼ばれ(今では不登校と表現が変わったような記憶があります)
そのきっかけは特になく、もちろんいじめでもありませんでしたし、勉強がついて行けないとかそういうことでもありませんでした。※ただし持病のぜんそくの調子があまりよくなく、他者と行う行動の一つ一つがしんどいっていうのはあったような気がします。それが集団生活のなかで、周りに合わせることを苦痛に感じていたかもしれません。

友人たちも教師もいい人たちばかりでした。もちろん当たり前のように、悩みや不安も人並みにありました。
しかしあるときに僕は学校に行かなくなりました。

当時は今よりもずっとそういう人がめずらしい存在でした。ある程度時代が進むと、例えば保健室登校といったような、教室には通えないけど、学校には行ける、教室ではなく保健室に通うという形態もでてきたようです。
ただ僕には保健室に行けるなら教室いけるじゃん。って思ってしまいますが、案外これが効果的なようです。

中学生の時のこれは、僕にとってとても大きな不安でした。特に将来に対しては、ほとんど絶望を感じていました。中学のその時点での大きな挫折は、例えば高校受験がうまくいかないことをほぼ確実に暗示しているように思いますし、中卒での労働なんて現実的だとは思えません。
そして集団生活は切り離すことができず、それがうまくできないと知った僕は、就職という道も絶望であれば、進学も絶望でした。
※ただ不思議なのは、「何も手につかない」というウツ的な状態にはならなかったような気がします。また、もし当時に、今と同じようにインターネットがあったら、僕は今のような状態にはたぶんなってないでしょうね。

それもあって、未だにヒマというか何もすることが無い状態というのはある種の恐怖を感じます。仕事でも趣味でもなんでもいいので何かに時間を使えるというのは、とても大切な事です。

というのが最初のニート。

次が、社会人数年目のことです。厳密にはニートと違いますが、僕は元々から起業したいと思っていました。そして大学を卒業して数年間働いた会社を辞めたのです。

辞めてからすぐに起業の準備にとりかかり、実際に起業しました。自分で会社を経営していたのは、1年半ぐらいですが、このとき最初の半年ぐらいは、ほぼニートのような状態でした。幸いなことに友人関係にも恵まれ、事務所などを格安で借りることができました。だから引きこもるような状態や、ニートなどとは厳密には違うと思います。

しかし僕としては、先の見えないそのような状態は、精神的にはあまり区別がつかないように思います。少なくとも僕はそう思っていました。
※ちなみに会社は、売却先が見つかったので特に問題無く終わりにすることができました。

日々色々と忙しくしていたり、友人関係の交流を行っていました。充実はもちろんしていましたが、会社や将来に対する不安というのは、当然のように大きくあり、それらは無視できないほど大きな物でした。

僕にとってとても重要な事は、日々がヒマなのか忙しいのか、ということではなくて、将来に対して、、、それは近い将来のことでも、遠い将来のことでも、、、ある程度見通しがつくかどうか。というのはとても大きなことです。

たとえ忙しい状態だとしても、将来に対する展望が見いだせない場合にはモチベーションが維持できません。
一方である程度将来に対する展望が見いだせても、楽しいことができていないとそれもまたモチベーションの低下にもつながっています。それらのバランスはとても難しい事だと思っています。

しかしただ一つ言えるのは、行動しながら模索しながらのそれと、何もせずに悩むだけのそれとでは、だいぶ違うことです。少なくとも色々な事を模索できるというのは、脱出する可能性があります。しかしこの模索のための第一歩が相当に大きな壁となるのも事実です。

だから僕は、無理はするべきではないと思いつつ、だけど現状は必ず打破しなければならない。そしてそれは、本人が最初に振り絞る大きな勇気しかないと思っています。だからこそ厳しいこと言うのも応援することも僕はおこがましいと思いつつも、つい口に出てしまうのです。
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  2012/07/04    考え(自分関連)

僕は様々なことについて、配慮の無い言動が目立つ。と、自分でそれを認識していても全く免責されるわけでもなく、それについては申し訳ないと思うことが多々ある。まあ性格というか、思ったことは口に出してしまうので仕方が無い事でもありますが。

さて、そういう配慮の無い僕だけど、ニート(アルバイトなども含め何もしていない状態)についてのいくつもの言動は、さらに配慮が無い。働かないの?このままのつもり?お金はどうしてるの?といった、おそらくそのようなことは触れずにおくのが、大人としての礼儀かもしれないし、本人がその状態について、どのように考えているにせよ、僕がそれをずけずけと聞くのが正しいことでは無いというのは十分に分かっている。

しかし、僕はそれについて、たとえ配慮の無い発言だと思われたとしてもそれについて、かなり突っ込んだ発言をするし、それをする資格も責任もあるのではないかと考えている。
そう思う理由は単純でただ一つ。僕自身もかつてそういう時期があって、かなり悲観していたからである。

今ほどニートなどの存在を社会が受け入れなかったときにもそういう人たちは存在した。ぎりぎりフリーターとかプーという表現で、ある程度限られた、ある意味では特異な存在であった。アルバイトだけで生計を立てることが難しいだろうことは、みんながわかっているけどそれから脱することなどは難しいことも事実であった。
唯一それらが肯定的にとらえられた時は、おそらくバブル経済の時では無いだろうか。あのときは完全に労働者優位で、くだらない企業に就職するぐらいであれば、アルバイトをしながら希望する企業に就職することが可能であったし、そう思える時代でもあった。

おそらく誰しもが、順調に人生を歩むことなどは難しい。例えば僕もそうだし僕の付き合っている彼もそう。幼少期から、知り合うまでの人生の事を聞けば、きっと話すのも辛いような、過酷な時期やそのように思う出来事というのは誰にだってあるだろう。

もちろん辛いだけじゃ無くて楽しいことも無尽にあるはずだからそれらだけに焦点を持つのも変な話だとは思うけども・・。

今のニートを自称する人たちは、ある意味で自由でうらやましい。
社会もそれを昔よりは受け入れているし、僕もそういうことは全然気にしない。だけど何となく自身の経験からも考えると、それで大丈夫なのだろうか、と。そしてもし自分に何かできることがあるなら手助けをしたいと、本気でそのようにも考えている。それがもし自分が配慮の無いいくつかの言葉を投げかけることが必要ならばそれもまた仕方が無いだろう。それらから避けて通ることもできないわけだし。

ただしニートの状態にもいくつかって、コミュニケーションがそもそも苦手という場合と、仕事はしたいけどあんまりいいのが見つからないとか、飽きっぽいとか。
コミュニケーションの場合は、結構深刻だと思うし、そういう人は働くことよりももっと先にしなければならないことがある。順番を守ってゆっくり解決していくことが必要だろう。
コミュニケーションが苦手な人は、この解決の順番を間違えると、それがまた挫折の体験に結びつくような気がするので、これは非常にデリケートな事だと思っています。

ということで、一緒にがんばりましょう。
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※そういえば僕がどういうニートだったのか書いてなかった。またの機会に。

  2012/06/22    未分類

まだ妹と友人の1名にしかカミングアウトをしていません。今まで結果的に女性が多かったのですが、ここ最近までしっかりと仲良くしている人はそんなに多くなく、結果的に女性に言うことが多かったように思います。次は男性の友人かなぁと思っています。

さて、今までの数回のそれを通じて、僕自身はあまり言うことに抵抗がなくなりつつあります。もちろん慎重でなければならないのは事実としても、ずっとずっとすんなりと通じてしまうことがほとんどのように思います。

もともと僕の友人であるぐらいですから、ちょっとやそっとのことでは、きっと動じないという事があるかもしれません。僕の友人たちであればきっと僕に突拍子のない何かが起きたとしても、それをきっと受け入れてくれるのでは無いかと思っています。

もちろんこれから失敗やそれを後悔するようなこともあるかもしれません。が、それもまた大切な経験なのでしょう。

飲みに行こう。そのように言って、いつものように誘いました。「今回は友人を一人連れて行くかも」そのように伝えて。

本当は彼と一緒に会って、そのまま紹介してしまおうと考えていました。しかし彼が「それはイヤだ」と言うのです。
もし受け入れられない人だったらどうするの?とか、いきなりそんなのは困るとか。当然そんなに一緒にいても話をすることが無いからしょうがないとか。

とりあえず「俺の友人だし嫌悪されることは無いから、それはたぶん大丈夫。でも受け入れることのそれについては、本人の考えもあるから、否定的かどうかは別だけど、意見があるのはしょうがないし、別にそれでもいいじゃん。いちいち待ち合わせとかも面倒だから最初から一緒で」そのように僕は主張していました。

ただまあ確かに彼の心理的な負担も、一緒にいる時間が長いことへの抵抗も分かるので、先に会って伝えてから彼と合流することにしました。

ある程度の、一通りの話が済んだ後でその事を切り出しました。「今日これから友人が来るって言ってたよね。んでこれから来る子は恋人なんだ」と。
友人は驚いているような表情をしたように思います。「えーそうなんだ」ということも言ったかもしれません。

続けて、「で、その恋人の子なんだけど、男なんだよね」と。
あとはいくつかの会話でした。※もっと感情のある会話をもちろんしましたが、とりあえず要旨だけ。
「あれ?ゲイだっけ?」→「いや。俺はバイだよ」
「だって前に彼女さんの話してたじゃん。ほら付き合って長いとか、頭がいいとか言ってたじゃん」→「あーたぶんそれは、今の子を女性に置き換えて言ってただけだよ」
「えー人見知りだから来てもどんな話すればいいんだろ」→「大丈夫彼も人見知りだから無視しとけばいいよw」

と、大変驚いたり、戸惑っている?ような感じもしましたが、とりあえずは普通の感じでした。

後は彼と合流し友人からいくつかの質問。
親の事とか、結婚の事とかだったかな?

と、今回のカミングアウトも特にこれと言ったこともなく、無事に終了しました。
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  2012/06/14    考え(自分関連)

未成年のとき、精神年齢と実年齢の関係で、実際の年齢よりも精神はもう少し先を行っていた気がする。18歳ぐらいのときは、社会的に認知されている未成年というくくりなんだけど、実際には20代と発想や考え方は大きく違わなかった。唯一経験の量だけが僕を未成年としていた。

20代の前半になると精神的な年齢と実際の年齢がかなり一致していたようにも思う。すべてが充実し、チカラみなぎっていた。

そして徐々に、25を超えた当たりからだろうか。精神年齢はその当たりで足踏みを始めたように思う。そして実年齢はどんどんと進む。
この差はどんどんと広がるばかりのように思える。

何を持って精神年齢とするのか。それについては色々あると思う。まだまだ若い!などと言うことではなく、色々な考え方がそれ以上にはならないように思えて仕方が無い。
例えば若かりし頃、他人の様々な表現や行動にイライラしている時期があった。それは僕自身に限らず、おそらく男性には比較的多い時期なのでは無いだろうか。それが露骨に他者に向けられれば反抗期とかそのような表現になるかもしれない。

ある程度の経験とともに、様々な考え方や行動を受け入れられるようになって、相対的にイライラすることは少なくなる。そのように落ち着くのは、10代後半から20代前半ぐらいだろう。

友人に話を聞いても、僕と年齢差がある場合、僕と知り合ったぐらいの年齢に友人がなった。例えば相手が20歳、僕が25歳で知り合ったとする。その5年後は、相手が25歳で僕が30歳だ。

このとき、20歳の友人からみれば、25歳の僕はずいぶんと大人だと思っただろう。場合によってはおっさんだと思っていたかもしれない。確かにこの5歳の差は大きくて、学生になったばかりなのと、社会人を何年かしている。という違いがある。生活様式の違いは、態度にも表れるだろう。

しかしじゃあその友人に話を聞いたときのこと。「25歳になって、俺と知り合ったときの俺の年齢だけど、当時俺に抱いていた考えと、実際に自分がその年齢になってみてどお?」と。

友人は「全然当時のまんま」と言っていた。僕自身も非常によく分かる。当時20代の考えのまま今を迎えているわけだし。

しかし肉体とともに、しっかりとした加齢をしていくのは僕にとってとても重要である。肉体的な年齢については、だいぶこのブログを書き始めた頃よりも受け入れることができ、また立ち位置なども把握できるようになりつつある。
しかし今度は精神的なそれが立ちはだかってきた。

精神はなんだかずいぶんと遅れているようなきがしてならない。昔のようなミスは相変わらずだし、年齢や経験を重ねることによって成熟しているようにも思えない。さらに困ったことに、それが今後改善されるのかも自身が無い。

今後はこのことについて、もっと考えていかねばならないと今の僕は考えている。
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  2012/06/04    考え(ゲイ関連)

誰専という人がいる。一言で表現するのであれば、顔にはこだわらず誰でも良いと言うことである。もちろんそれが、性格重視ということであればとても素晴らしい事だろう。しかし実際にはそうならないのがまた難しいところである。

誰専というのは、結局のところ好みのタイプが無いということである。今まで書いてきたように、僕のように顔や体型、年齢に対して病的な程までにこだわる人がいる一方で、それらについて何にも考えない、こだわらない人がいる。そういう人を誰専と言うだけの話である。

何においてもこだわりが無いのは、素晴らしい事が多くあるとともに、大きなマイナスも存在している。好きと思う基準は、緩くてもあった方がいい。僕はそう考える。だってその人の何が好きなのか。それについて明確に答えられないのは、寂しいことじゃないだろうか。またイヤなことや、受け入れることが難しい局面を迎えたとしても、好きな部位との兼ね合いという比較もできるだろう。性格は絶対受け入れられないけど、顔がタイプだから何とか我慢するとか。

すべてにおいて、平均的に好きだという人がいるかもしれないが、だいたいは、好きな部分もあるだろうし、なおして欲しいと考えるようなイヤな部分もあると思う。そういうもんだ。

誰専というのは、僕のそのような考え方とは相容れない。だって誰でもいいんだから。タイプが無い場合の妥協や我慢というのはどこを言うのだろうか。そして好きな部分というのはどういう部分を言うのだろうか。嫌いなところが見えたときにはどうやって平衡を保つのか。

さらに重要な事がある。誰専というのは浮気に結びつきやすいという部分。例えばこだわりがあれば、こだわりに見事に合致する他人が出てきた場合についての心配については、もはや仕方の無いことだと思う。だって公称しているタイプの人なんだから、倫理的な事は置いといても、感情が動くのは仕方が無い。しかし多くのこだわりを持っている人は、その人と巡り会う確率を考えても非常に少ないだろう。だから必然的に感情が動く回数が減る。

誰専というのは誰でも良い。だからかっこいい人もそうじゃない人も。誰でも何かの拍子に感情が動く場合があるだろうし、そう考えることも不思議じゃ無いと思う。だからいつ、どこで、だれと、何をきっかけとして間違いが起こるのか分からないのではないか。

もしそうやって間違いが起きて、それを自身が知ることになった場合。ますます微妙な感情が芽生えるのである。どうしても自分と相手を比べることになるだろう。そうなったとき、こだわりのある人の場合。自分と恋愛に発展したのが、その人のこだわりの基準を超えたからである。そして間違いが起きた場合、自分がそうであったように、その相手も基準を超えている可能性が非常に高い。それをもって納得できるとは思わないが、とにかくそういう事だと考えられる。自分よりもかわいい・かっこいいということを理由にあきらめたりはしないだろうが、納得はできないだろうが。それでもとにかく系統というか、そういう基準が置けるのは理解の一助になるのでは無いか。

誰専の場合、間違いの起こる相手がいわゆる規格外の場合もあるだろう。そうなると自身としては、なぜその人は自分と付き合っているのか分からなくなる。あんな人でもOKだったら、自分じゃなくていーじゃん!みたいな感じ。
少なくとも僕自身がそのような立場になったら、とても我慢ができない。自分よりもかわいい・かっこいいなら何となく理由がわかるとしても、よりにもよってアレかよ!と。もっと相手選べよ!と。(もちろんそれは自分がかわいいとかかっこいいとかを言っているのではなくて、相対的なものです)

だから誰専というのは、タイプが無いという意味で誰とでも付き合える=間口が広い=付き合いやすいそのように思うかもしれない。しかし実際には、付き合うことは容易かもしれないが、それが続くのか。という事については、疑問が残るのである。
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