2011/05/18 微エロ

需要と供給のミスマッチがよくあるという話を今までさんざん書いている。それは大抵において業界特有のミスマッチ、、、例えばそれは肉体的なことや年齢的なこと、容姿などのことであった。
こうした部分においてのミスマッチは、あくまでミスマッチの話であって、正解とか不正解という話ではない。
正解の有無があり得ることと、マッチングの事は別に考えなければいけない。
そして、正解の有無のある行為の一つとして、焦らしがある。
勘違いしてはいけないが、「焦らし」というのは、最後までの行為が約束されているからこその焦らしである。
途中で放棄されることが約束されているのであれば、それは焦らしとは言わない。
考えてみて欲しい、焦らすようなことをわざとするプレイというのは日常だと思う。気持イイを貯めるという感じだろうか。もちろん焦らしに失敗して、そのまま「その時」を迎えてしまうような悲劇だって生まれる。ここまでだと寸止めと表現される場合もある。
こういう行為で、とても重要なのは、寸止めであっても何回かの焦らしのあとには、必ず最終目的まで達成されるということである。もしこれが、焦らしのまま終わるようなことがあれば、それは焦らし行為自体が否定されなければならない。
もちろん事故として、例えば焦らしてたら疲れて寝ちゃうとか、じらすタイミングを間違えて達してしまうことなど色々あるとおもう。しかしそれは例外である。
じらす行為の結果が、なし崩しな終了だとしたら。それはもうどのように表現したらいいのだろうか。罪としては最悪な部類であるし、多大な損失を相手に与えている。そのような悲劇をうみ出してはならない。
もちろん最後までやらないけど、密接な接触が暗黙のうちに行われる場合もある。例えば飲みの席でのボディタッチなどはそうだろう。これを焦らしといってしまうには大きな問題がある。しかしボディタッチと、上記に挙げた焦らしには、明確な違いがあることを読者の方は理解していただけると思う。
だからあえて主張しておきたい。焦らして最後まで無い場合、そんなことをするヤツは地獄に落ちろ!と。
※メールでもご意見を受け付けております。
kaokao.hihi@ジーメールまで。
2011/05/17 考え(ゲイ関連)

※画像の色味が変になってます・・。
姫は大変だ!という話。
友人との会話の中で、彼氏に「お前はいつでも俺のそばにいてくれるだけでいいんだよ。だから働かなくていいから、つねに一緒にいてくれ。」などということを言われたらどうするか、という夢物語の話をしたことがあります。そんな感じのことを言われたらどうする?と。
その時に、その友人はそんな夢みたいなこと言われたい!。そしてもし言われたら、「あなたのためだけにたくさん着飾る!」と答えると言っていました。
絵に書いたような、模範的回答だったのでしょうか。僕は大変関心するとともに、方向性の違いや、恐怖感さえ覚えました。
いわゆる男性側、例えば僕の場合であれば、僕はあきらかに「常にそばにいてくれ」と、言う側です。少なくとも言われる側ではありませんし、もし言われても窮屈に感じてしまいます。
言う側として、欲しい回答っていうのはどういうものだろうか、と考えてしまうのです。
たしかに、いつも可愛い状態でそばにいて欲しいという欲求が無いわけではありません。しかし当然のことながら、見た目だけの魅力でもないわけで・・。
そして言われる側。結局言われる側としては、洋服とかアクセサリに浪費したいだけじゃん!と。もちろん、日々の努力は重要ですし、その努力におしゃれも含まれるのだと思います。しかし。しかし。と複雑な気持ちなのでした。
ちやほやするという話。
僕は、「みんなにかわいいと言う」という記事を書いているほどですが、基本的にみなさんを褒めます。褒めるという表現んでもいいですし、もう少し俗っぽく言うならばちやほやする。ということでしょうか。
「かわいい」と自覚がある場合には、ちやほやされてとても喜ぶ場合があります。僕もそうやって褒めるのが好きですし、喜んでくれれば僕も嬉しいです。
しかしこの手法には問題があります。
かわいい感じの人が複数人いる場合に、ちやほやが分散すると言うことです。例えば飲んでいる席で、冗談で「友達紹介するのはいいけど、もしそうなったら、俺は誰を一番ちやほやすればいいのかわからないよ」と。
大体の場合において、そのようなときは、「僕が一番じゃなきゃイヤだ」と、みんながみんな口をそろえていうのです。そしてたまらなくその瞬間はかわいいと思えるのです。
もちろん彼氏がそういう事をいうようなのはイヤなのですが、なんというか、たまにはそういう刺激もいいですね。というはなしでした。
2011/05/16 考え(自分関連)

星のなかぐろ 今日はこのブログを受けて。
彼の書く記事の中に以下のような文があった。
> 僕が小学生や中学生の頃に、
> 「もう一生会えないのなら、生き別れと死に別れは何が違うんだろう」
> とふと考えたことが何度もありました。
>
> もちろん、あの頃の僕には大きな違いなんてなかった(ように思えた)んです。
> 一生会えないならどっちも一緒じゃんか、て。
僕も今まで少ないながらの、いくつかの別れと死別を経験してきた。幸いなことに、大切な人であったり、祖父・祖母以外の身内の死はまだ未体験でもある。
そして時には、彼と同様に、もう会わない・会えないという意味で、別れと死別を同一に考えていた時期もあった。
恋愛における別れというのは、僕自身の未熟さから、あまりここに書くようなことは思いつかないのが正直なところである。
そして、上記に挙げたリンク先には、僕と意見と非常に近いので、僕の意見としてのそれはリンク先をご参照いただければと思う。
死別については、とても残酷であると自身の経験から思う。僕の場合では、祖父の亡くなったときの僕の年齢は、確か26とか27歳の頃だったと思う。確か祖父がなくなったときには、すでに彼と知り合っていたと思うし、今の職場で働いてもいた。
この年令になると、祖父や祖母と同居していれば別として、疎遠になるのは普通だと思う。そして僕自身も、相対的に相当に会っていたとはいえ、それでも疎遠であった。なくなる1年位前までは、1ヶ月に1回ぐらい会っていて、亡くなる3ヶ月前ぐらいからは全然会ってなかった。
もちろん仕事が起動に乗りつつあり忙しくなったという理由もあるし、死の直前の1年程度というのは、生きていく上でのクオリティの低下も甚だしく、「遊びに会いに行く」という行為が適切なのかも正直わからなかった。会うたびに一緒にお酒を飲むのだが、その量は徐々に減り、最後のころは、コップに数滴たらして、「ほんとにただ付き合う」程度であった。※ただしそれでもトイレは自分でできたし、食事も自分でできたので特に何か介護が必要な状態ではありませんでした。
そして最初に戻るのだが、やはり死は無になる。幸せなことも・不幸なことも死から先には何も無いのだ。
恋人と別れたとき、僕が今まで関わることのできた僅かな時間が終わったにすぎない。きっとその元恋人は、僕以外の誰かと時間を共有し、場合によっては僕と過ごした時間以上に充実した時間を積むかもしれないし、そうじゃないかもしれない。しかし死別と大きく違うのは、この、充実するかもしれないししないかもしれない。だけどそこは “有” であるということである。
ちなみに、
> もう一度会えたら、最後に言えなかった「幸せにね」を心の底からきちんと伝えたい、というお話でした。
僕はこの最後の文章に、背中に汗がタラリと流れる、妙な気持ちが芽生えたのでした。
2011/05/15 考え(ゲイ関連)

年上が好きだという人と話しをすると、魅力的な年上がいない、少ないという話を聞く。一方で、魅力的な年上は、すでに恋人がいる。という話も聞く。だから少ない魅力的な年上で、フリーな人というのは貴重だと。みんなが群がるので競争力も高いと。
大変興味深い話だと思う。
かつて書いたと思うが、30代というのは、精神的な魅力と、まだぎりぎり残っている肉体的な魅力の両方を持ち合わせているように思う。30も半ばをすぎたあたりから、肉体的、性的な衰えというのは抗うことが難しい。もちろん精神的な充実はますますあると思う。しかし30代前半であれば、この精神的な部分と肉体的な部分がちょうどいいバランスなのではないか。
そしてそれを魅力として捉えるということは、何ら疑問ではない。
同年代の友人を見て、たしかに30代というのは非常に魅力的だ。友人としても面白い。例えばそれは社会的な地位と責任からくる考え方や態度かもしれない。もちろん肉体的な衰えからくる、無茶をしない落ち着きかもしれない。
お酒を飲んでいても、会話をしていても年下の子がそれらに魅力を感じるのだとすれば非常によくわかる。
しかしいくつかの問題もある。一つは30代、もしくは20代後半ぐらいだと、やはりまだ年上を好む場合がある。例えば僕の年齢で、年上がいいってなると、結構な年齢を覚悟しなければならない。なんだけど、僕の友人はそれでも年上の、、、もはや幻想だとさえおむのだが、、、追いかけている。これにはとても不思議な感覚である。
またニートやもしくはそれに近い友人もいる。いろいろな事情はあるにせよ、いたずらに年齢を重ねた場合については、魅力の醸成が正しく行われているのか、難しいところである。
僕の何人かの同年代の友人は、とても魅力的なのにフリーな人ばかりだ・・。これもまた市場のミスマッチなのだろうか。
※すいません。明日は気合を入れた記事を書き下ろす予定です。今日はいろいろ予定があったため、こんな感じで失礼します。
2011/05/14 考え(自分関連)

冒頭部分はプライベートな話から。
昨日、友人とお酒を飲んだ。非常に秩序立てて進み、最初から最後まで当然のようにすべてコントロール下にあった。我を失うことなど無かったし、支離滅裂な事を言うような状況にもならなかった。
記憶もしっかりしており、飲んだ量も非常に適切であったと考えていた。もちろん量に関することだけじゃなく、たくさんの興味深い話もしたし、一つ一つの話題には学ぶところも多かった。
要するに、飲み過ぎずに、たのしいひとときを過ごしたのである。
そして今朝。見事に二日酔いの症状が出ていた。正確に言うと、胃もたれのひどい症状であったが、これは軽い二日酔いの症状に酷似していた。
あの程度の量で、事実非常にすべてが順調に終始したのにもかかわらずこのような結果となってしまったことに大変驚いている。
弱くなった。という言葉・表現でこの状態を表すにはさすがに問題があるのではないかとさえ思ってしまう。正直反省のしようもない・・。

さてここから今日のテーマ。
毎度おなじみではありますが、「国境、非在、あるいは百年の祈り」のげんやさんが大変な事になっているようです。僕自身が彼に向かって何かを発言することなど、非常におこがましく思うし、また適切でも無いような気がしています。
しかし自分を振り返ったときや、また友人からいくつかの興味深い意見を聞いたこともあって、関連する事として記事にまとめておきたいと思います。
※げんやさんがどのように大変な状態なのかはわかりませんが、詳細については、ブログをお読みいただければと思います。
かつてげんやさんと会ったとき、目標があると言っていた。僕自身にはその壮大(と思える)目標のほんの少しさえも理解するのは難しかったのだが、それでも大変記憶にのこっていることがある。どのようなニュアンスで言われたのか覚えていないが、確か「一箇所に住み続けることが想像できない」というような話だったと思う。僕は生まれてからこのかた、東京にしか住んだことがない。しかし彼は、実家で過ごした幼少期のほか、大学、社会人、、、と、数々の場所で生活をすでに積んでいる。そういった経験や、今後彼がやりたいと考えていることなどが、上記発言に至ったのではないだろうか。
自分自身を振り返ってみたとき、30歳になるよりも少し前、この時期は社会に出てから、最初の大きな転機を迎えることではないかと思っている。
人生において、最初の重要な岐路に立つ時期なのかもしれない。もちろん僕自身はまだ、俯瞰できる状態にはないが、少なくとも、そしていろいろな友人の話を聞く限りでは、最初の重要な選択の時期だと考えている。
僕自身が人生を少しでも自分がやりたいと思えることを実現するために、20代半ばまでは、経験することが重要だと考えていた。そこには、ある程度の一貫性は必要であると考えつつも、新しい分野への開拓、挑戦ということについても積極でありたいと考えていた。
そして20代半ばを過ぎると、30代・40代、場合によっては一生の仕事にできる事の準備期間であると考えていた。その考えは今でも変わらず、当然今の仕事は一生続ける事になったとしても本望であると考えている。
具体的には、例えば僕の場合だと、20代半ばで挑戦という意味での転職は最後にし、30代前半までに多くても2回程度の転職とともに、その職場では一生を捧げるぐらいの気持ちであった。そして実際には彼と知り合った直後(26歳のころ)に、今の会社に転職をし今にいたっている。今のところ転職は考えていないが、もしするとしたら、次の転職は本当に最後になるだろうし、最後にしたいと考えている。
この考えのもと、当時の僕がもし今の会社に転職ではなくて、もし遠く離れた場所での転職だとしたら。転勤になったとしたら、、、。これは非常に難しいことでもある。
友人の話。僕の友人に、恋人にするなら20代後半から30代の人がいいと言っている人がいる。僕自身は、その友人の年齢や、肉体的・精神的に満足できる可能性の高い、25歳~ ぐらいがいいのではないか、という話をした。するとその友人からは思いも寄らない返事が帰ってきたのである。
「20代半ばは、仕事でのチャレンジやキャリアアップを優先するから、捨てられちゃうかもしれない」と。事実その友人は、かつてそれに近いことがあったようで、それを警戒しているという話である。
しかし自分のことに身を置いて考えると、たしかに当時の僕であれば、キャリアややりたいことを優先し、恋人との関係は少なくとも2番目になってしまうかもしれないと。逆に今のように30代になって、落ち着いてきたときには、プライベートの充実を考えるようになるので、恋人のことも大切にするだろうと思う。少なくとも20代の半ばから後半にあったような、大きな変化はないだろうと期待できる。
そして最初の話に戻る。
げんやさんも、おそらく大きな選択肢の中に身を置いているのだと思う。彼がブログに書いているように、きっとすべてが、いい方向に回ると思うし、そうであって欲しいと思う。努力のほかに、引きの強さや運の強さを感じるげんやさんのことだから、きっとすばらしい将来が待っているだろう。
もちろん外野から何か協力できることがあれば、それは惜しまないつもりだ。
2011/05/13 考え(自分関連)

正解のない話や、意見の分かれやすい話は飲みの席ではしないほうが無難であるという話を昨日の記事の冒頭に少しだけ書いた。ブログでも書くときに気をつけたほうが良い話題というのが存在しているようである。
具体的に挙げるのが非常に大変ではあるが、大きくグループ分けすると、トラウマになりやすい事柄については、書かないほうが無難であるようだ。
例えば、お金・愛・家族・容姿・生活・仕事などだろうか。
むしろブログでは、宗教や政治の話を書くほうが、問題が起きにくいのではないかと思うほどである。宗教や政治は、通常であれば、自分のスタンスという理論で話をすることができる。これが重要で、激高することなどなかなか無いだろうし、だいたいにおいて、自分の意見を変えることはできなくても、他人の意見を理屈として理解することは可能であることが多いのではないか。
一方で、トラウマになりやすい話題というのは非常にやっかいである。自分の体験をもとに相手の意見を否定するために激高しやすい。そしてそれは充実していない人が充実している人を攻撃するときに非常に強く現れる。
何も一歩引いて冷静に、などと言うつもりは無いのだが、なぜそこまで怒りが湧くのが非常に興味がある。(といっても、大体はそれ以上突っ込めないし、ギリギリ対応してくれる人でも「そういう人もいるってことを理解してください」とか、「他人の気持ちがわからない冷たい人なんですね」という、もはや意見でもなんでもないことを言われてしまう)
僕の書いている記事で、性的な事、彼の事、昔の事を除くとあとはもう上記に当てはまってしまう。僕は性的なことも彼のことも昔のこともとても書きたいし、書きとどめておきたい。しかしそれと同じぐらい、今の僕の考え方を形成するに至った過程、つまり家族や容姿、愛やお金についてもたくさん書きたいことがあるのだ。
もちろんそれらは、僕の一方的な意見であり、理解されないことも多いだろうし、デリケートな内容であるために苛立たせる事になるかもしれない。それでも僕は書きたいし、そもそもそいういった記事を書くためにブログを始めた。
このように、書くことに制約が出るのは正直なところ大変驚いている。というよりも、もっとコミュニケーションが成り立たないと思っていた。コメントなどつかないだろうし、読む人もごく限られると思っていた。(過去の経験から良くても一日10人ぐらいだろうと目算をつけていました)
これからも色々なご指摘をうけると思うが、なるべく当初のスタンスを崩さずに頑張っていきたいと自分の心に誓うのです。
2011/05/12 考え(自分関連)

僕が好きで読んでいるブログでは、社会的にも微妙だと思われている問題について、たまに言及しているのもある。僕はこうしてブログに書いているように、色々なことを考えているが、政治の話を書こうと思ったことは一度もないのであった。
よく宴席では政治の話や宗教、スポーツの話は避けたほうがいいといわれる。考え方や視点によって、正解がないことがその理由のようである。おそらくそういった話題、、、好みが大きく出る分野はひと通りそうではないか。学生の頃であれば、幸せの要素にお金が必要かなどの、結論が出ないことであったり、テーマがあまりにも巨視的=マクロ的なテーマは比較的そうなりやすいと思う。
ブログでは議論などではなく、比較的一方通行なことが多いので、そこまでデリケートに考えなくてもいいのかもしれない。しかし僕はなんとなく腰が引けている。たぶん主義主張がそこまでしっかりしていないということも大きい。
石原都知事の同性愛に対する発言が、我々の業界では問題になっている。ちなみに僕自身は、彼からレッテルを貼られやすい立場の数々が好きなので結構つらい。たとえばアニメやゲームなんかは顕著であるし、ゲイの業界では当時の合法ドラッグなども規制の対象となった。
アダルト表現の規制もまた厳しくしたいという考えを持っているようである。
その他僕の理解するところでは、歌舞伎町の掃討などもあったように思う。もちろん僕自身が従事している、パソコンなどのITに関する仕事は、おそらく彼の理解を超えているところにあるのだろう。
この場合、本当によく言われるのだが選んだのは有権者(都民)であると。これが非常に恐ろしいことだと僕は思っている。有権者は、期待で投票はするが、結果を見て投票することはできない。それは任期満了後もしくは再選した時の話である。そして石原都知事は今までの結果については、評価された、もしくは他の候補者に比べて相対的に票を得たために当選したのであって、「選択の責任」というのがどこまで強いのか非常に疑問を感じている。
もちろん選挙制度や世代別の投票率などを考えて、石原さんと同じような考え=年配者の意見が通っているということも当然にある。
票田として考えても少数の業界団体や、マイノリティを規制することによって、次の選挙ではその所属グループからの票を得られなくなるだろう。
おそらく最大のグループである、老人を敵にまわすようなことはないので、結局この選挙は老人と若い人の戦いなのかもしれない。
※こういう時に世代別の得票数は非常に面白く参考になります。今回の都知事選挙では、僕と同世代の30代であってもかなりの人が石原さんに投票したようです。今回のこの結果が民意だとは思いたくありませんが、大衆は常に選択を失敗するものです。民主党とか?これ以上世間が窮屈にならなければいいと願っています。
非常に難しいと考えるのは、ゲイという立場で社会的な発信をどこまで行うべきか、ということである。ある意味では業界団体としての発言を社会に行っていくことも大切だろうし、政治家として、代弁者を行政の場に送ることも重要だと思う。ただ世の中はやはり数の理論は大きいようにも思う。
一方で、我々が今の時代でここまで世の中から受け入れられているのは、数々の先輩諸氏の努力によるところも大きい。だから社会が変わるのを待つという姿勢ではなく、何らかの行動は示したいところでもある。
2011/05/11 考え(ゲイ関連)

いわゆる “普通” っていうのは、至る所に存在している。ゲイも例外ではない。一般人が考える「普通のゲイ」って女性言葉を使う、いわゆるオネエという認識が広まっていると思うしかしゲイが考える一般的なゲイってなんでしょうか。っていう話。
僕が友人とか知り合いとかのゲイを通して感じていること、それはやっぱりどこかで女性的な部分があるということ。
ゲイは必ずしも女性になりたいってことではなく、自分は男性のまま男性を恋愛対象としていることが多いと思う。
だから性同一性障害というのはゲイの中では結構珍しいと考えている。
しかしいわゆる一般的なゲイを考えたとき、その「一般」は、どうしても2つに別れる。やはりそれが男性的か女性的かという話。
男性的なゲイと女性的なゲイというのはやはりどうしても存在している。それらが入り交じった人というのももちろん一定数いるが、比較的どちらかにポジションをおいている人が多い。
男性的か女性的かを見極めるひとつとして、女性の友達の多さ。ということが挙げられる。
ゲイに限ったことではないと思うが、ゲイの女性的な人の多くが女性の友達が非常に多い。普通と言っていいのかわからないが、男性にとって仲の良い女性の友人というのは、恋愛関係への第一歩になりかねず、友人関係の維持はそこそこ難しいことだと思っている。そんな考えだから、たくさんの女性と仲良くなるのは難しいだろうとも思う。
それに第一、仲良くなるために女性特有の世界に足を踏み入れようとも思えない。
しかし女性的ゲイの場合、いともその世界に簡単に入り込むから驚く。
男性的なゲイの場合、おそらく社会生活は完全に男性的なのではないだろうか。僕自身はそれに該当するのだが、実はこれに該当する他の人をほとんど見たことがない。ゲイの世界ではネコが多いが、女性的なゲイが多いのも事実である。
そしてこの女性的なゲイの一部がオネエという存在になるように思う。僕自身の知り合いでの生粋のオネエという人は数少なく、飲み屋で会う程度の人しかいない。だからよく分からないのが事実のところである。
そしてオネエは女性を嫌う・苦手意識を持っている人もいるし、すっかり溶け込んでいる場合もある。
何を持って、普通とか一般的と表現していいのか難しい。だけど、少なくともゲイにとって、性格で分けるなら男性的・女性的の2つになるのではないか。もし特徴として分けるのであれば、会話の方法が男性的・女性的となるのだろうか。
2011/05/10 カップル(彼関連)

会う頻度に関連して。 >> 会うのは週一?毎日?距離感のこと。
僕はどちらかと言えば、会う回数は少ないほうがいいと考えていた。単純に考えると、例えば半年で別れると想像することが容易な恋愛しかしていなかった。そのため、例えば週に1回のペースで会ったときに半年で別れるというのは、トータルで25回ぐらいを一緒に過ごすことになる。
もしこれを週に3回会っていたとすれば、、、、8週間=2ヶ月で満期が来てしまう。もちろん現実性もなにもない、めちゃくちゃな考えだということは理解している。しかしこの考えを強く否定できる程の答えや経験など持ちあわせていなかった。
たくさん会う。まるでそれはお腹がいっぱいなのにご飯を食べることに似ている。お腹が空いていれさえすれば、どんな食事も美味しく感じる。一方で、お腹がいっぱいの時には、ささいなことに不満を感じる。
恋人との合う回数や頻度というのはこれに近いと考えていた。
自身が相手にたいして飽きることもあったし、飽きられることもあった。飽きることを表現するのは、直接的な言葉の場合もあったが、たいていは雰囲気の変化であったり、ケンカの回数、、、それなどはまだいい方で、身体が他人に向くというのが一番の問題であった。そして悔しいことに、それは自身も強く戒めなければならないことであった。
彼と知り合った当初。といっても年単位で。同様にそこまで一緒に過ごそうという気持ちには正直なところならなかった。忙しいということも実際にあったのだが。
夜には週に3回ぐらいは会っていたが、日曜日など1日を一緒に過ごすことなど皆無であったし、それを望んでもいた。たとえ恋人であっても他人と終日を過ごすというのはなんとなくストレスに感じていた。
しかし徐々に日曜日のほぼ終日を一緒に過ごすスタイルが定着してきた。おそらく旅行で一日一緒であることに慣れてきたというのもあったのだろう。隔週の日曜日を一緒に過ごすのが徐々に増え、今では毎週の日曜日はほぼ一緒に過している。(夜は翌日のこともあるので、お互い自宅に帰っている。そういう意味では、僕が家でゆっくりするという表現ができるのは日曜日の夜ぐらいしか無いのかもしれない)
しかし。彼と一緒になにもしない時間を共有しているわけではない。僕は時間の使いかたが相当に貧乏性。彼もなんにもしないで一緒というのはあまり好んで内容である。ちなみに今となってはDVDを一日見るような。そういうこともやや抵抗がある。
だから日曜日の朝になると、今日はどこいくの?と始まるのである。僕自身が行きたいところが毎週のようにあればいいのだが、都内の主要なところはかなりめぐったのではないだろうか。
脱線しました。今の彼と付き合うようになって、僕がどれだけしあわせを感じているのかいう話は、さんざん今までの記事でも書いたとおり。なんだけど、こうやってストレスなく普通に一日を一緒に過ごせるということも、彼の魅力のとても重要な一つだと考えている。
2011/05/09 日常

やや複雑な人物の関係があるので、まずは整理します。
僕のビジネスとして付き合いのある夫婦がいます。旦那Aさんと妻Bさんです。僕はBさんとはそこそこ長い付き合いがあります。しかしAさんは面識がある程度であまり交流はありませんでした。
AさんとBさんの夫婦生活は破綻しています。子供がいてその子はBさんが育てています。
そしてAさんは社会的にもそこそこの成功者であり、Bさん意外にも派手に女性関係があるようなのです。
Aさんは確かにイケメンです。40代だったと思いますが、童顔ということもあって全然そんなようには見えません。30代半ばぐらいのようです。お金の稼ぎ方も上手でスマートです。今は色々あってそこまで裕福ではなさそうですが、それでも普通のサラリーマンよりは全然稼いでいるようです。
BさんはAさんに対して「英雄は色を好むから仕方ないね」といって、そういうAさんの遊びを気にしていないようなのです。ただ他の女性のところにドップリになると自分の生活ができないからといって、妻Bさんは自分で稼いでいます。
こういう考え方の基礎はやっぱり性欲なのでしょうか。僕もそういう女性関係はまったく参考にならないのですが、社会的に成功者になると、そういう女性関係が派手になるというのは、比較的よくあることだと社会に出てから知りました。
逆にゲイ業界の場合、サバサバしているというか、本命の他に・・・という話をあまり聞きません。派手に遊んでいるという話と、愛人・・・この場合は第二の本命っていうイメージだと思いますが、イコールにはならないのです。
ゲイの場合は、遊びやすいとか婚姻関係にならないので精神的・法的な制限が無いというのが理由になるのでしょうか。とても不思議な感じがします。