2011/05/28 考え(ゲイ関連)

若いうちのに○ヶ月フリーだという話を聞くことがある。一方でモテる人なのか、運のいい人なのか、浮気性の人なのかわからないが、フリーな期間がほとんど無いという話を聞くこともある。
僕としては「適度な空白期間」が必要だと考えている。
空白期間がない場合は、色々と問題があるように思う。それはすぐに付き合うことが問題かもしれないし、ひょっとしたら、恋人と別れる最後のほうは、すでに次の恋人候補と知り合っている可能性があるからかもしれない。
空白期間は、その人のいい部分を引き出す絶好のチャンスだと考える。以前の恋愛を反省するのは数日では難しい。数カ月でようやく。という感じ。なかなか次の人がみつからない、もしくは見つかるかわからないという状況では、反省どころか次を探すのに必死になってしまう場合もあるだろう。もちろんそれでいい。
しかし反省の度合いや次に活かそうと考える度合いと、早く次の恋人が欲しいという積極性のちょうどいい時間が、半年から1年ではないか。
たしかに数ヶ月も恋人がいないと、ちょっと焦ってくると思う。ちなみに僕もそうでした。そして1年を過ぎたぐらいで、もういいやというあきらめの意識。そして諦める覚悟を十分にしたころに、付き合い始めたという変な感じです。
その焦りもまた、とても重要だと思う。別れてすぐの場合には、次を探す気持ちにはならないかもしれない。しかし数ヶ月もすれば、新しい恋人をさがすようになるだろう。3ヶ月ぐらいしてから、徐々にそろそろ・・・という気持ちが出てきて、半年もすれば、ちょっと焦ってくるのではないか。
若い時期の1年ぐらいの空白期間は、そこまで焦る必要も無いと考えている。だって出会いは無数にあるのだから。(いい人と出会えるのかは別な話)
ちなみに、年齢がある程度いってからの空白期間は非常に恐怖であるが、それはまた別の話題。
友人でそろそろ1年近く?以上?シングルの人がいる。たしかに色々焦っているという発言は多いし、そろそろ見境なくアタックしそそうな所まできているのが怖いとも思う。しかし自信を持って自分を磨いていれば必ず出会いはやってくるはず。
2011/05/27 昔の話

付き合った人でその人の性格が変化する。ということはよくある。身を置いた環境で、性格が変化するというのもよくある話。
例えば友人がみんなタバコを吸ったりお酒を飲んだりすれば、自分もそうなる可能性が高いし、逆に勉強をたくさんするような環境にあれば、そうなるかもしれない。幸せな環境に身を置くか、そうじゃないかというのは、本人の努力とは別にとても重要であると考えている。
僕は昔から同年代~年下の交流が多い。とはいっても友達がそこまで多くないので、狭い範囲ではあるが。
しかし例えば大学生の頃に知り合った20歳ぐらいの友人となれば、今はもう26歳ぐらいなので、それなりの大学生活の結果というのが出ている。すごい人生の第一歩を歩みだしたと思えるような人もいれば、逆にずいぶんと印象が変わってしまった人もいる。
例えば。当時大学生だったその友人。お酒を飲むことはあまりしなかった。常識の範囲でしか飲まなかったし、失敗などは皆無であった。言葉遣いもごく普通の大学生であった。交流範囲の変化なのか、今ではすっかりオネエになった。別に今では仕事もしているし、全く問題はないし、むしろすごいことだと思う
だけど、知り合ったときの性格を知っている僕としては、オネエになって、仕草や考え方が女性になって、それが決して冗談ではないという状態がとても驚きである。
例えば。当時大学生だった友人。僕と同い年で、違う大学ではあったが、同じ学生同士ということで、頻繁に遊んでいた。そしてその友人は、お酒がキッカケなのかわからないが、今でも諸事情で大学生をしている。知り合った時のままいけば、おそらく今頃は就職をしてるだろうし、転職もしていたかもしれない。そう考えると、とても驚きである。
大学生はやはり変化が多い。僕が大学生の時に知り合った、同年代の友人は、知り合ったときの印象とは違う何かをしていることも多い。
一方で、知り合ったときに働いていた同年代は、今でも同じ職に就き続け、未だに当時と同じような生活をしていることが多い。
そう考えると、大学生というのはとても変化が多いと感じるのである。
ちなみに僕の話。大学生の頃、ほとんどの友人に「お前は会社に向いてない」そのように言われ続けていました。たとえ働いてもすぐ辞める、と。
でも僕はちゃんとこうやって頑張っているので、やっぱり大学生の頃の印象とは違う何かをしているもんなんです。
2011/05/26 微エロ

今まで好きなプレイというのを何度か記事にした。幅広く、色々な体験をしたいと考えていた若い頃。そのなかでも苦手と考えるようになった、いくつかのプレイがあった。
そのひとつは、羞恥に関することであったし、露出など見られることには強い抵抗がある。それは今でも変わらない。また、痛みを伴うことも好きではない。どちらかと言えば痛みを与える方になるのかもしれないが、要求された役割を果たせる自信はない。
そして僕のあまり好きではないプレイの一つに、口の中に出す行為がある。これは性的には口内射精と表現される。なお今回焦点を当てているのは「出される」ではなく、「出す」ということに注意してほしい。
今までの経験の中で、絶対数は少ないが、口の中に出して欲しいとお願いされたことがある。もちろん男性同士の性行為は、とくに病的な事については注意しなければならず、血液や体液の取り扱いは慎重でなければならない。そのリスクについては、相対的に出される側のほうが大きいように思う。と、そんな事を考えても、相手がそれを望んでくることがある。
僕はかつて顔射が好きだという話を書いた。この時に、少し口に入るのがいいいと書いたが、口に出すという事と、口に入るという区別も必ずしておきたい。
今回のシチュエーションというのは、アレを口の中に入れ、そのまま達する状態である。手でしたりだとか、達する瞬間に口に入れるということではなく、最初から一貫して口の中にあり、そのまま最後を迎えるような状態。
男性のそれは、イッた直後というのは、非常に敏感になっている。くすぐったいというのか、その状態をどのように表現すればいいのかわからない。が、とにかく「触ってほしくない」状態であることは間違いない。そしてそれはイッた直後が、もっとも敏感で、数秒もすれば、すぐに落ち着いた状態になる。
口の中に出すという行為は、たしかに気持ちがいいのは間違い無いが、この敏感な状態を耐えなければならない。僕はそれが非常に苦痛に感じるのである。
もちろん物理的な問題もある。僕は大きいと本当に最初のころに記事に書いた。そして大きいと、たいていはそのまま最後を迎えることが出来るほど気持よくならないことも多い。特に歯が当たるか、オエってなるのが大半である。
つまり、気持よくなれる可能性が比較的低いことと、自身の好みのことがあって、苦手意識を持つようになってしまったのである。
しかし。極稀に非常に相性がいい場合がある。これは不思議だ。例えばアソコの先端の方を攻めると、上記のとおり敏感なところが痛いぐらい。しかし僕が相性がよく、とても気持ちいいと考える人の場合、サオの部分を中心に攻めて来るように思う。
もちろんこれができるのは、結構難しいことで、口が大きいことや、喉までの距離が比較的長くなければできないのではないか。
こういう人の場合、結局は前言撤回しなければならない。まるで温泉に入るときのような心地良さのまま達することになるのだ。
2011/05/25 微エロ

AV見てますか。最近はネットを探せばなんでも簡単に見つかる。素晴らしいことだと思う。サンプルと言っても、サンプル以上の働きをしてくれるものもあるし、すばらしいことではないだろうか。
さて、いわゆるノーマルのノンケの人がみるAVの話。ゲイがAVを見るとどういう反応をするのだろうか。
僕はバイということで、完全にスイッチが切り替わる。AVの場合は、完全に男性視点で、女性との性的な行為を純粋に楽しむようにAVを見る。むしろこのとき、ゲイ要素が入っていると、興奮しないぐらいである。例えばそれは、男性が主に攻められていたり、、、という内容だろうか。あまりAVの話をゲイとすることは無いので、いまいち他の人はどうなのか分からないが、とりあえず僕自身の楽しみ方。
そして、いくつか聞いた話。
ゲイの友人は、AVを見るとき、男性に注目するというのである。つまり自分と女性を置き換えて楽しむようなのだ。だから入れているそのものずばりのシーンよりも、男性に何かをしているような行為のシーンに興奮するのだと思う。まあ、基本的には見ないみたいなので、それらについて、興奮のしようがないと思うが・・。
だからおそらく、女性同士の絡んでいるAVは、もっとも無意味なのだと思う。僕自身も、女性同士のそれは昔から嫌い。だけどそれは多分好みなんだと思う。。。
注目する部分として、男優の存在がある。ノーマルのAVにとって、男優はある意味でおまけのような存在であると思う。もちろん有名な人は存在するが、女優さんに比べれば後ろにいる存在だと思うし、注目といっても度合いがある。
しかしゲイにとっては、当たり前のことではあるが、男優が重要である。もちろん筋肉質で、、、、という、ステレオタイプが望まれる。
ちなみに僕自身は、AVを見るときに男優はほとんど意識しないので、あまりどうでもいい。もちろん体つきがいいに越したことはない。
2011/05/24 考え(ゲイ関連)

男性のみが好きだと言う、ゲイの人がいる。
女性も大丈夫だという、バイの人がいる。
そして僕自身は、自身はバイに所属していると考えている。このことについて、少し書きたいと思う。
先日の記事で、徐々に割合が変化したという話を書いた。それについて。
高校生ぐらいのころ、自分の中で性的な変化に対する無視できないと思える片鱗があった。もちろんこのときは具体的に行動を起こすほどでもなく、そういう感情が芽生えていること、しかし通常の生活を、なんのストレスもなく遅れる状態にあった。そのため、バイといっても、いわゆるノンケに限りなく近かった。1:9とか 2:8ぐらいだっただろうか。
しかし大学生になって、高校の時よりも少し男性に対する気持ちが大きくなってきた。このころは、3:7とか4:6で、まだ女性のほうが相対的に大きかったとはいえ、それでも行動を起こすには十分であった。
このころ知り合った友人に、そのような話をしたところ、「最初はそうでも、徐々に男性の割合が大きくなってゲイになるよ」そのように言われたことがあり、とても印象に残っている。
今までの出会いを通じて、たしかにバイと答える人でも様々な人がいた。例えば女性に対する欲求はゼロでも、「頑張れば性的に興奮する」と、おそらく常識的にはゲイに分類されるのだろうが、そういう人もいた。もちろん、多分興奮しないけどわからないからバイと答える人もいた。
彼女がいながら男性との欲求を満たす人ももちろんいた。その逆もあったと思う。もちろん肉体的なことだけではないので、今までは彼女がいたけど、別れたから今度は男性。というパターンもある。
そしてたしかに言えると思えることとして、最初に僕自身が言われた、「いずれゲイになる」という話である。たしかにほとんどの人は、最初はバイであっても、徐々にゲイになる。だからバイと答えるのは、比較的若い人が多いように思う。
色々な可能性として、男性・女性のどちらを好きになるのかについては、自由でいいと思う。しかしバイとしての立場を維持することは難しそうだ。
僕自身は先日書いたように、7:3とか8:2ぐらいである。そしてそれは、もちろん証明することなどできない。そうなんだけど、例えば一人で処理するとき。おかずはなぜか普通のAVで、しかもちゃんと女性を見て興奮している。ということで、やっぱり僕はやっぱりバイなんじゃないかと思っているのである。
2011/05/23 考え(自分関連)

冷蔵庫が壊れました。 という記事を書きました。冷蔵庫が壊れたのが2月上旬で、新しい冷蔵庫を購入したのが、5月上旬だったのです。実に3ヶ月間ものあいだ、冷蔵庫が実質的に機能していない中での生活を送っていました。
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僕は仕事とプライベートで、基本的に同じように考え行動をしている。家庭だから・・・という理由で行動しないし、職場だから・・・という行動もしない。だから家庭でも職場のように振舞うことはよくある。
そのうちの一つが、安全に対する意識である。家庭で安全に対する意識というのはあまりしないと思う。怪我してもたかが知れていると思うし、家庭内は基本的に安全だから。
しかし、それでも数多くの事故が家庭内でおきている。それを事故といってしまうには問題があるかもしれないが、例えばトイレの電気の消し忘れであったり、包丁で手を切ることかもしれないし、ドアに指を挟まれることかもしれない。
僕はそうした、小さいけども頻繁に起きるそうした細かいことでさえ、日々のちょっとした注意で避けられるのであれば避けたいと考えている。
例えば彼はよくモノを落とす。食器を洗っているときに落とすこともあるし、調理中に道具を落としたり。それで食器を割ることもあれば、幸いに割れないにしても、危険な思いをすることがある。
そしてこれは、絶対に避けなければならないことの一つであると、特に注意して考えている。なぜならこれは、包丁を落とすことに密接なかかわりがあると考えているからである。調理中に道具を落とすこと、、、それは包丁を落とす可能性があるということでもある。包丁を落とすようなことになった場合の危険性は誰もが容易に考えられる。
だから普段のうちに食器が壊れるぐらいの状態であればまだいい。だけどそれで何も注意を払わないことは大きな問題である。落とさないことに注意をはらうのは当然のこととして、何が原因か知り、注意することは大切だと考えている。

そして僕の話。
僕は今までそこまで大きな事故になったことはない。ただしいくつかの、注意していることがある。一つは引き出しの開閉。僕の家は、収納が上段と下段に分かれている。上段は観音開きになっており、下段は引き戸である。
もうこの状態では、絶対に上段の開いたドアに頭をぶつける可能性があるのだ。だから僕は必ず上段の収納を開けたときには、すぐに閉めるように注意していた。捜し物をするときなど、ついつい上段を開けて、すぐに下段を・・・なんてことになるのだが、それを警戒していた。おかげさまで今まで頭をぶつけるようなこともなくその注意は功を奏していた。
しかし先日、どうしても急ぎでとても大切なモノを探したとき、ついついその注意を忘れてしまった。上段を探して、すぐに下段を。下段を探して、もう一度上段を。そのようにやっていたら、頭をぶつけてしまった。しかしそれで僕はより一層注意しようと決心したのである。
冷蔵庫の話に戻る。
冷蔵庫の時には、壊れたことは仕方がないにしても、それに気付かなかったことが問題だと書いた。そしてそれは、普段からの気づきの有無によって、より大きな危険なことから身を遠ざけることが出来るのではないかと、僕は考えているのです。
2011/05/22 考え(ゲイ関連)

書きたいと思っていた記事ではあるが、なかなか進めることが出来なかった。理由は単純で意見が固まってないからである。
でもある方からコメントを頂いたことによって、それを考えるようになった。
バイというのは、おそらくその言葉からくるイメージとは違って、意外と悩みが多いのである。一部もしくは大多数の考えを代弁しているなどという大層なことを言うつもりは無い。そこに所属している者として意見や考えをまとめておきたいと思う。
バイのイメージってどういうものがあるだろうか。きっと結婚までの寄り道とか、どっちつかずとか、いい加減とか。そういうイメージがあるのではないか。ある意味では正解で、ある意味では間違っているように思う。
僕の友人でバイの人がいる。その人は、かつて女性とつきあいながら、男性とも遊んでいた。(女性とつきあっていて男性は遊び)
その友人はいずれその女性と結婚するだろうと言っていた。正直なところこのような考え方はいまいち理解できない事であったが、大多数でそのようなことが起きているのかもしれない。
このような例をみても、性的なことに関しては特にバイは信用できない部分が多い。最終的には結婚というゴールがあるし、なによりも性的にただ遊んでいるだけのようにも思える。女性が大丈夫なら女性だけにしておけよ!どうせ結婚するんだから、と。
ただ難しいのは、結構な人数が途中バイという道を通ることだと思う。例えば学生のころまでは社会的なこともあって、女性と付き合ったりする例は結構あるし、「もしかしたら」と感じる人も思春期には多いと思う。若い時には、「学生の頃まではどっちもイケると言ってても、だんだんゲイになって女性は無理になるよ。」そのように言われた。確かにまだ確立していない場合には、4:6で男性がいいとか、7:3で女性がいいとか、そういう話をしたことがある。そうやって(大半は)最初はバイといいながら徐々にゲイになっていく。
かくいう僕もそうであった。最初は3割ぐらい男性が気になっていた。もちろん男性に目が行くことは多かったけど、目が行くぐらいだったしそれ以上の何かなんて想像ぐらいで行動など考えてもいなかった。
少しずつ自分の中でその存在が大きくなって、どっちかを選ぶときにはきっと男性を選ぶかなぁと思うようになった頃、僕はこの状態を6割ぐらいゲイよりだと認識していた。かつて言われたように、このままいくといずれは女性はダメになるんだろうなぁと、安心とも不安とも言えないような気持ちであった。
今となって、7割を少し超えたぐらいまでは来た。しかしもう30歳になった。このまま固定されるように思うし、今更完全なゲイになったところでという考えもある。
もちろん2割は女性が気になる気持ちを持っているので、女性というのが性の対象になるのは事実である。事実なんだけど、なんとも言えない気持ちがそこには存在しているのである。
2011/05/21 考え(ゲイ関連)

ゲイの人で、ネガティブな人がいます。何があっても「俺(僕)みたいなもんが」という発想につながるようです。
楽しいことがあっても、一時的なことであり、すぐに例えば恋人であれば破局を想像し、遊びであれば終わりを想像するような。
一方で僕自身。僕は相当にポジティブです。あまり気にしない性格もそうですし、後ろを向く姿勢よりも前を向きたいというか、そういう考えだからなのかもしれません。
今までの恋人との別れも、もちろん別れは悲しくて不幸なことですが、次のいい人が見つかるチャンスだと考えるようにしていましたし、当時の若くてまだ市場でも存在感が会ったときのことを考えると、どうせ別れるような人と、貴重な時間を過ごすのは、長期的な不幸につながります。そのため悲しい別れであっても、なるべくそちらに気持ちを向けるのではなく、次・将来に目をむけるようにしていました。
僕の彼のようにネガティブな人というのは不思議です。例えば可愛くないから恋人ができない、とか、性格が悪いから恋人ができない。という考えはわからなくもありません。僕ももっとかっこよければ、、、もっと他の友人のように活発なコミュニケーションができたら・・・いつも想像しています。
僕はネガティブな性格は基本的に好きです。それは優しさにつながるからです。フラれることが心配なら、ふられないための努力をすると思いますし、「一緒にいてつまらないかも?」と思っているのならば、面白くするための努力をしてくれると思います。事実僕の周りにいるネガティブな友人は、そういう性格を持っているように思います。
しかしネガティブが基本的に好きだと考えるのはこの気遣いの部分までです。大体において、ネガティブな人は、この先の部分があるのです。そしてこれは僕であっても受け入れることがしにくい部分です。
端的なことを言えば、1000回の好きという言葉をかけても信じないネガティブさんは、1回の嫌いという言葉を信じます。僕にはこれがどうにも受け入れられません。もちろんネガティブな言葉のほうが相手にとって通じやすいのは事実だと思います。しかし、しかし、と思ってしまうのです。
「ネガティブゆえに相手のことを思いやる」ならば1000回の方を汲みとって欲しいと考えてしまいます。
いろいろな性格がある中で、ネガティブというのは、別にそれが嫌な部分とはなりません。少なくとも僕はそうですし、むしろ好きな部分です。しかしあまりにも行き過ぎると、恋人ではなく、友達止まりという事になるんじゃないかと、少し心配しています。
2011/05/20 考え(自分関連)

あまり特定の誰かを対象として、記事を書くのは避けたいと思っています。しかし今回はいくつかの、非常に面白いできごとがあったので、特定のという事になってしまうのですが、書いていきたいと思います。
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会話の中で、恋人と会う回数が少ないという話を聞いた。とても残念でもあり、仕方のないことであるが、学生の頃に会うという、僕からすれば非常に単純に思える一つでも、たくさんの制約がある。お金のことかもしれないし、何をするのかという時間の過ごし方かもしれない。学校や課題、アルバイトその他で忙しいというのもあるだろう。もちろん友人と時間を過ごすということも重要である。
「会えない、会えてない」そのように嘆く話を聞いて、なるほど忙しいんだろうなぁという印象を持っていた。しかしその一方で、絶対に会えないわけじゃないよね?という疑問も感じていた。
会うという欲求を満たすのは非常に容易であることが多い。だって、相手のところに行けばいいんだし。もちろんこの欲求を満たすのが難しい場合もあって、それは唯一距離が離れている場合だけである。
そして現実的に会うことが可能である場合。「どのようにすれば会えるのか」ということになる。例えば1時間かけて会いに行くことが苦痛であれば、相手にも少し来てもらうというのも案だろうし、なんなら相手に家まで来てもらってもいい。お金がかかるならば、かからない方法を探すのもそうだし、アルバイトをすればいいと思う。
話を聞いていると、(その時も話をしたのだが) 学校を優先する→時間が空く→バイトする→お金ができる→彼と会う というプロセスであった。しかしその発想は逆で、彼と会う→お金が無いからバイトする→時間がないから効率よく時間を使う→学校もちゃんとする という流れじゃないのだろうか。
少なくとも、矢印の最後が彼であった場合、彼がもし「自分のことを優先してくれない」と嘆いたときには言い訳のしようがないし、少なくとも「会うための努力をしている」などとは言えないのではないか。
しかし重要なのは、そうした時間の使い方を学ぶのは、今だということ。今は優先順位やその他のやりたい事などたくさんあって、かならずどこかにしわ寄せがでる。それが家族かもしれないし、友達かもしれない。もちろん恋人かもしれないし。だけど少なくともそうやって時間の使い方を学ぶというのは、非常に重要な事だと思う。ぜひ頑張ってください!そして頑張れば会える環境にあるわけですから、会えないと嘆くわけじゃなく、会うための(本当の)努力をして欲しいと思っています。
※ここまで書き上げて、追加で報告がありました。どうやら彼と相談をしたようです。現実的に会う回数に大きは変化は無いようでした。しかし、そういう一つ一つはとても重要だと思います。いい方向への変化を、今後も期待しています。
ちなみにこちらも参考にしてください >> 笑顔、ときどき涙。

そしてもう一つ。ネガティブな言葉は言い換えて使おう。という話。
自分にとって、好きか嫌いかで判断することは多いと思う。僕自身も、大抵のことは好きか嫌いで判断している。僕の彼はよく普通という判断をするが、僕はこの曖昧な基準が「嫌い」で、ほとんどのものは、好きか嫌いに区分してしまう。
そして自分が好きだと考えているものについては、どのように表明しても構わないと思う。例えばデブが好きです!なんだかとてもポジティブだし微笑ましいではないか。誰も敵にならないし、趣味嗜好の違う人であっても少なくともその意見には同意を得られるだろう。まさか、「デブは○○だから、好きになるのはおかしいです」なんて事にはならないだろう。
一方で、「デブは嫌い」そのように表明したらどうだろうか。余程のことでなければ、そうやって主張する必要も無い場合がほとんどだと思う。そしてもし表明してしまえば、その発言の責任はいつまでもつきまとうことになる。それに受け手も「自分の体型を棚において」とか、よっぽど自分はいい身体してんだろうな、とか。なぜかこういうときには、顔にも及んで、人のこと言える顔かよ、とか。デブ好きな人に失礼じゃん、とか。
とにかくドロドロしたものが渦巻くことになるのだ
こういう時に、非常に単純なことをするだけで回避できる。痩せてる人が好き。そのように言い換えればいいのだ。嫌いなタイプを言うのではなくて、好きなタイプを言えばいい。かくいう僕であっても、年上が嫌いなどとは一度も書いたことがなく、年下が好きとか、かわいい子が好きという表現しかしたことが無いのである。
※今日はなんか大人っぽい感じになっていますか?w
2011/05/19 考え(自分関連)

最近、立て続けに何人かの人と会いました。ブログでの交流やTwitterでの交流を通してです。もちろん僕は彼氏がいることを表明していますし、彼のことが大好きです。それとは関係なく、やはり新たな友人関係の広がりは、僕自身とても刺激を受けています。特にblogを始めてからは、今までとは違うコミュニケーションの広がりに驚きを感じています。
今まで出会った人のほとんどは、年下~同年代でした。特に年上を避けていることはないのですが、おそらくTwitterやこのブログで表明している内容から、年上の方は若干遠慮されているのかもしれません。
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今までの出会いの中で、非常に興味深いいくつかのことがあった。今までの出会いでは、主に年下であったが、例えば待ち合わせの仕方一つとっても、少なくとも僕が常識だと考えていたことのほとんどは役に立たない事を知った。
若い子は待ち合わせの仕方が下手だ。それは魅力でもある。
僕は仕事でも待ち合わせは非常に簡単に行われる。時間と場所と連絡方法ぐらいがあれば問題ないのではないだろうか。新宿駅東口に○時。ついたら携帯の番号に連絡をください。そんな感じだろうか。今までそれで問題が無かったし、むしろその方法は洗練されているのではないかとさえ思っていた。
しかし若い子の場合。そのような待ち合わせの方法は全く通じない。そもそも連絡からして大変である。”もし” 会ったらどんなことするんですか、とか。僕のイメージってどんな感じですか?とか。がっかりしてもすぐに帰ったりしないでくださいね、とか。
会うにしても、「○時に間に合うようにしますが、その前には○○があるので、少し遅れるかもしれません」とか。一回着替えてから行くのでやっぱり○時にしてもらえませんか、とか。会ったらどこに行くんですか、とか。改札っていっても、たくさんあるからもうちょっと細かく決めたいです、とか。
スマートに、すっと目的をただ果たすのは問題があるようなのだ。会う約束をする。という単純に思える行為一つをここまでふくらませて、楽しんでさえいるようにできるのは非常に面白いと思う。もちろんただ心配ということもあるだろう。しかし僕にはそれらが、とても新鮮であった。

心の表現が稚拙に思うことが多い。もちろんそれも魅力だ。
僕が学生だったころ、少なくとも今の僕よりもよりもずっと色々考えていたし、色々迷っていた。なんとも表現できない状態だった。さながら絡まった糸とでも言うのだろうか。ほどけるならば、ほどきたかったし。何か芯になるものを常に探していた。この時期に、うまく心をほどくことができなかったのは、それを示してくれる大人がいなかったからというのも、もしかしたら理由の一つかもしれない。
そんな自分の状態を振り返るためにも、会った人たちには色々な質問をした。それは非常に単純な事だったと思うし、過去の自分に問いかけて欲しいことだったかもしれない。
そして帰ってくる言葉に、僕自身は正直納得できないことも多かった。
わかる。わかるんです。たしかに学生の時に悩んでいたことも、今悩んでいることも、そうそう大きな違いは無いように思う。ただ当時に比べて結論が出しやすくなるための経験を積んでいるかもしれないし、またそれが固定観念になっているかもしれない。
そもそも世の中では、矛盾するいくつかの意見が並列することはあっても、まったく新しい考え方というのはそうそう出てこない。
当たり前のことなんだろうがいくつかの質問に対する回答は、十分想像できる範囲であった。しかし、その奥にある、なんとも引き出すのが難しそうで、また本人も無意識的ななにか。この部分が光って感じるのが、迷いだったり当時の僕も持っていた気持ちなのかもしれない。
若い子の、肉体以外での魅力、というのはひょっとしたら、それを感じるのは非常に難しいかもしれない。しかし、自分の投影としてというか、当時得られなかった気づきを、会話を通して得られるというのは興味深いことだとおもった。