2011/07/17 日常
2011/07/16 日常

読者のみなさまこんにちは。
そしてこの時間の更新でありながら、お休みのご連絡で申し訳ありません。
現在旅行中です。
いつもであれば、予約投稿を行っているのですが、最近は忙しくてそのような時間を取ることができませんでした。
本日は千葉の館山を旅行しています。
珍しいことに、不機嫌になる出来事がありました。
彼の運転がヘタで僕が2人乗りをしたくないってことがとりあえずの原因。
このことから、運転がへたなのはよくない。ネガティブの方向は他人に向けてはいけない。という2つのネタが思いつきました。
これは近いうちに記事にしたいと思います。
千葉は特筆するべき何かは無いように思います。しかし一つ一つが洗練されているようにも思いました。
おみやげなんて、いろいろな地方に行った僕は欲しいと思うのはほとんどありません。
しかし千葉は、アレも・・これも・・・と、結構欲しいモノが多いのです。
それの紹介は、ブログの画像でちょろりと載せたいと思います。
と、そんな感じで、ちょっと記事になったかな?
それではみなさんもよい連休を!
※彼に何かある??ってきいたら、「別に何もない」というコメントでした。
2011/07/15 日常

今更話題にするには、ずいぶん過ぎてしまった。まあ別に取り立てて書きたいってことじゃないんだけど。七夕の頃、Twitterもそうだったし、いろいろなブログを読んでいる中でもそう。おりひめとひこぼし。
その話がロマンチックなのかもしれないが、正直なところ他のイベント、、、たとえばクリスマスのような。ことと違って、なぜそれが注目を浴びるのかいまいち理解に苦しむところであった。
この日は何をして過ごせばいいのか。何を食べたらいいのか。何をしてもよくて、何をしてはならないのだろうか。
笹ぐらいしか思いつくことがない。
かつて、いわきにはお客がいた。(今でもそうだけど、おそらく僕は原発が収束するまでは出張することは無いだろう。。)
たまたま七夕祭りの時期に出張がぶつかったのである。
いわきは閑散としているわけではないが、賑やかであるというイメージではなく、ちょっと静かな街というイメージであった。しかしこのお祭りのときには、今までとは大きく違う街の雰囲気であった。
自分がその日をどうやって過ごせばいいのか分からないが、こういうお祭りごとがあるのは楽しいと思う。(ちなみに東京では七夕にちなんだお祭りはほとんど聞きません)
短冊もそう。各地にかざってある七夕の短冊。これはどういうことを書けばいいのだろうか。神社などでのそれと違って、おりひめとひこぼしという、お願いをする相手の想像ができるだけに、どのようなお願いもどうも厚かましく思えてしまう。
今まであんまりしていないけど、今日は写真への言及。
近所で、短冊を自由に書いてください。というイベントをやっていた。食事をしたときにたまたま見つけただけであったが、このときどのような願いを書くべきなのか、僕は非常に迷った。
○○が叶いますように。という神社でするお願いと同じでもいい。だけど、たとえば恋愛に関するお願いは、そもそも適切ではない(ように思う)。それ以外のことについても、なんだかそれが適切なのか、非常に疑問である。
と、結局そこで僕が短冊に書いたのは写真の通り。相手に何かを望むのが適切でないとすれば、そこには何を書くのが適切なのだろうか。がんばりますという決意を書くのは愚かであると僕は思う。
ささやかなお願いとして、今回のようなことはまあ妥当ではないかと思っている。ただ日本語としておかしくて、「健康で過ごせるように」的な内容の方がよりよかったのではないかと思う。が、健康第一というのは僕の座右の銘でもある。
やっぱり健康がいちばんですね!という、今日はとりとめのない話。
2011/07/14 考え(自分関連)

社会的な生活は問題なく営むことが出来ている。問題なく、などではなく、むしろうまくやっているのかもしれない。しかし一方でプライベート(=個人)ではますます孤立しているのではないかと思う局面が多々ある。そしてそれは最近になって特に増えてきた。
もともと家族とは考え方の根本を共有することは出来なかった。家族には家族の考えがあるし、それは家族という小さな世界を中心に据えている、と僕は考えていた。より普遍的な、一般的な社会的な考え方に照らしてみると、家族の常識というのはもはや非常識に思え、僕には何一つとして理解できることなどできなかった。
しかし家族の考え方というのは、社会に身を置く親、個人個人が作っているのである。そう考えると、あながち(当時としてはかたくなに)拒否する程のことでもないのかもしれない。
仕事においてはともかくとしても、プライベートにおいて「仲間」を感じることが出来ない僕は、社会ではうまくやっているようにみえても、結局はとても大切な多くを得ることが出来ていないことの証左なのだろう。
思い返してみれば色々と理由はあるように感じている。一つは自身の考え方が(悪い意味でも)固まってきたこと。周りが忙しくなっていること(会社での地位や、結婚その他のことで時間がつくりにくい)。体力的なこと(めんどい・しんどい)など、この年になると、一人を自覚する時間が増えるということか。
考え方が固まっているせいで、疎遠にされているのであれば、それは僕自身の問題である。僕という人間が市場での競争力が無くなってしまったために、わざわざ会うことの優先順位が下がったということである。
これには色々思うところ、考えるところがあるので、なんとか対応していきたいと思う。なんとなく、人生において30歳からのチャレンジというか目標というか、意識しなければならないことは、この他社とのコミュニケーションなのかもしれない。勢いやつながりだけの今までとは明らかに違って、厳選された、心の通った付き合いを求め、求められることになるのかもしれない。
逆に合う頻度とは関係なく、少ない時間を一緒に過ごすだけでもそれなりに充実を感じているのも事実である。僕の場合、年齢が下の人と過ごすことも多く、時間の流れ方が圧倒的に違うように思う。そこには相変わらず戸惑っているのは確か。
2011/07/13 考え(自分関連)

僕は昔から、非常に寝付きがいいのです。寝られないということが滅多にありません。たまにあるとしたら、それはよっぽど長い昼寝をしたときぐらいです。普通の昼寝ぐらいでは、夜はしっかりと寝られます。
昔は朝は弱く、なかなか起きられませんでした。本当に自分は病気なのではないかと思うほどひどかったのです。しかしそれも社会人になってから、いつの間にか起きられるようになってきました。今では苦もなく起きることができます。(ただしあまり早起きの習慣はありません)
特に新人だった2年間。このときについては、例えオールをしようが、二日酔いであろうが、とにかく絶対9時出社というのが僕の日常でした。フレックスであった僕の会社は別に10時ぐらいの出勤のほうが普通ぐらいでしたし、別に早く来ることをそこまで強く求められているわけでもありませんでした。しかし早起きできるのは新人の間だけだと考えていたのでそのようにしました。結果的にはそのおかげで朝が強くなったのではないかと思っています。
さて、そんな僕ですが、この寝付きの良さは時に問題となっています。最近のいくつかの例を挙げると、skype をしているとき、話をしながら寝てしまうのです。友人がいうには、後半は適当な返事しかしなくなって、最後には黙ると。そのときにはもう寝ているのでしょう。
寝る前の少しの時間はいろいろなことをしています。たとえば本を読むこともあります。本を横になりながら読むと、寝る間際には、そのまま本が顔の上に置かれます。そして朝になって本が顔に当たっているのが邪魔になって起きるのです。(もしくは夜に目が覚めます。)
大きな本だと、顔の上に落としたりすることもあって、大変です。
寝る前にTwitterをすることがあります。このとき、もちろん途中まではしっかりと文章を打っているのですが、寝る前数分のコメントはひどいものになります。もはや記憶もほとんどなく、誤字や脱字が多いのです。まるで酔っているときのコメントに似ています。
なぜか、メールだと作成途中で寝ることが多くて、Twitterだととりあえず投稿して寝るようです。なんとも不思議です。
寝起きについては、僕は目が覚めるとすぐに活動ができるようになります。機嫌が悪いこともありませんし、朝はダラダラなんてこともありません。人によっては、寝起きは機嫌が悪かったり、昼過ぎまで寝ていたり、起きても布団でゴロゴロするなんて話を聞きますが、僕には考えられないことです。
時間がもったいないというのも確かにありますが、それって退屈じゃないのでしょうか?またイライラについては僕はもっとももったいない感情だと思っていますので、なるべくそれは受け流すようにしています。
僕の場合、しっかり寝てしっかり起きるということが重要です。彼の場合は眠りが浅いので、なかなか寝られない上に、すぐに目が覚めるという問題があります。僕が起きると、彼はほとんど例外なく、目が覚めます。
これからもしっかり寝て、しっかりと起きたいと思います。
2011/07/12 親/家族

お袋の味ってなんでしょうか。
僕は無い。とは言っても親はちゃんとご飯を作ってくれたし、何も問題のない幼少期を過ごした。
しかし親は徹底的に料理がヘタであった。
だから、おふくろの味っていうのは、まずい料理だったりレトルトだったりするのです。そして懐かしいなどという感情は全く出てこなくて、むしろ避けたいと忌避さえしているのです。
今でも、自分で料理を作っていて大きく失敗してしまったとき、、、それはもはや食べることも相当に苦労しなければならないような。そういうときに、僕は親の料理を懐かしんでいます。おぉ。そういえばこんな失敗の(ような)料理がよく食卓に出ていた。。。と。
すごく多かったのは、味噌汁。親は何故と思うほど味噌汁がまずかった。僕の口癖はちゃんと出汁を入れて!だった。出汁を取る必要はないから、だしの素を入れてくれと。もしくはだし入り味噌を使ってくれと。お湯に味噌をといただけのような味であった。
自分で料理をするようになって気づいたのだが、親は出汁をろくに使っていなかったようであった。
カレーもそう。なんかいつも変な味がしているのである。最近実家に帰ったときに、親はカレーを作っていた。親の作るカレーは、決して油断してはいけない。カレーならなどと思えば必ず裏切られてしまうのでる。
このときも、まずいと思いつつ、少しだけ味見したらやっぱりまずかった。実はこの日、親が珍しく「今日はカレーだから食べていったら?」という誘いを受けていたのであった。「うーん。どうせまずいでしょ?自分で材料買ってなんか作るからいいや。ご飯だけ炊いといて」と、カレーを食べることを断って良かったと思った。話を聞くと、市販ルーにカレー粉を足しているようで、それがまた絶妙にまずいのであった。
※あんまり直接的な感じなんで、ひょっとしたら「俺は辛口のカレーがいいから、お母さんたちは中辛だから食べたくない」って感じで断ったかもしれません。
スパゲティ類もひどい。すべてレトルトである。
あ!でも浅漬だけはうまかったかも。書いてて思い出しました。
メリット、、、といっていいのか分からないが、外食がすべておいしいと思えるのはいいところだと思っている。親の料理がおいしい場合、、、外食しても自分で作った方が安いしおいしいってなる場合がある。そうならないのは、いいところではないだろうか。
2011/07/11 考え(自分関連)

僕は勇気という言葉が好き。無いよりはあったほうがいいし、「勇気がある」なんだかすごいことのように思える。
この言葉のすごいことはネガティブな言葉との組み合わせにある。「逃げる」と言ってしまえば、まるで卑怯なことにように聞こえるし、少なくともそこからポジティブなイメージは出てこない。
しかし「逃げる勇気を出す」と言う。するとどうだろう、とたんに悩みぬいた結果としての「逃げる」に思えないだろうか。苦渋の選択とでも言うのかもしれない。
かつて高校生のころの友人の話。友人は何でも思ったことをズバズバと指摘する人であった。○○は可愛いけど性格が・・・とか、○○は××と仲が良さそうだけど裏では悪口を言っているとか。学生時代のそれなんて、たわいもないことなんだけど、それでもその時はいちいち重要なことでもあった。
「なんで本当のことを言っているのに批判されなければならないのか」友人はそのように嘆いていた。僕は今もそうだし、その時もある種の「自分の正義」を信じていた。自分の正義に照らして考えると、友人の言うことは一部もっともで、「いちいち言わなくてもいいじゃん」という否定的な気持ちも半分持っていた。
今となってははっきりと、性格がいいとか悪いとか、他人のそういうことはどうでもいいと思える。しかし当時はやっぱりそういう話題は常に盛り上がるのであった。
その時に僕が友人にかけた言葉。「言わない勇気を持てばいいんだよ」と。言いにくいことでも事実をハッキリと主張することはとても勇気のあることだと思う。と同時に、言わなくていいことを言わないことも勇気が必要だと。だからその勇気を友人は持ってないんじゃないか、と。
それが友人に響いたのか、正直全く覚えていない。その後の行動が変わったとも思えないし。だけど僕はそれ以来その勇気という言葉をとても気に入っている。自分の意図と違う選択をしなければならないとき、「別れる勇気」かもしれないし「続ける勇気」かもしれない。「諦める勇気」かもしれないし、「始める勇気」なのかもしれない。そう考えることによって僕はたとえ自分の意図に反しても前を向くことができるようになる。
幸いなことに、そこまで大きな悩みというか、挫折は無い。だけどそれが無いのはこの「勇気」という言葉にどれだけか助けられているのだと思う。最近は「落ち込む勇気」がありすぎて困っているのです。僕には「落ち込まない勇気」がほしいんですがね。
2011/07/10 日常

当たり前です。
僕がこのブログを書いていて、今までいろいろな人に言われた言葉がある。それがブログとはだいぶ印象が違いますね。ということ。
正直なところ、僕はとても驚いている。
だって、実際にブログの通りの人なんてイヤじゃないですか?特にこのブログからの僕の雰囲気なんて偉そうだし、色々決めつけてるし。高圧的だし。細かいし。そんな人が実際の社会生活など営める訳がないんです。
なので、僕はイメージが違うと言われるのは、ある意味で当たり前だとも思っているし、そうじゃないと困ります!という感じ。
※ちなみにもう一つよく言われるのは、笑い方が特徴的ってこと。まあこれは仕方ないです。
一方で、今まで録音したボイスログの印象は、実際に近いと言われたことがある。もちろん、その音声は会話ではなく、僕が一方的に話をしているだけ。だから実際の僕とは厳密には違う。でも言葉の雰囲気とか、使っている言葉は間違い無く僕なので、その当たりは事実に近いと思う。
で、もう一つ気になるのは、僕は実際には社交的では全くないということ。Twitterやブログでは活発的な僕のイメージがあるかもしれない。もちろんボイスログの時も、性格は分からないだろうから想像するだけだけど、活発な印象を持つかもしれない。
しかし現実の僕は違う。できれば他人と積極的には関わろうとしないし、実際集団は苦手でもある。
ちなみに、「ですます調」でブログを書いた方が、現実の僕に近づくと思いますが、そうするとなぜか文章が思いつかないんです。不思議なことですが、このように言い切り型の方が、文章が思いつくことが多いので文体はこのようにしています。
2011/07/09 フェチ/好み/タイプ

僕自身をタイプだと言ってくれる人は非常に限られている。しかし僕の身体やパーツをタイプだと言ってくれる人は、顔をタイプと言う人よりは存在する。
G男子はどこが引っかかるかわからないという話。
身体の画像を見せてほしい。そのように言われて交換することがある。顔よりも身体が重要だと考えている人の場合、マレにそのように要求されることがあった。
僕自身は、プレイの最中に見られるのは大嫌いだが、普通の状態を見られるのは全くなんとも思わない。
気軽に要求に応えてしまうのである。
そうすると、その人にとって何が引っかかったかわからないが、身体のラインがきれいとか、腹筋の感じがいいとか、様々なほめ言葉とともに、非常に乗り気になったメールが帰ってくることがある。
あそこの大きさもそう。大きい?と聞かれることがある。僕自身は確かに大きいと言われることがあり、(それは最初のころの記事にも書いた) メールのやりとりをしていると、見せてほしい。そのように言われることがある。
このときも同様に何も気にせずに送ってしまう。
大きいのが好きだという人は一定数存在する。たとえばそれは、はっきりとその人が言わなくても、ずーーーーーと触ってくる人だったり、しゃぶりっぱなしの人などがいるからわかりやすい。中には、自分のことは触らないで欲しい、自分が触るだけでいい。などと言う人もいる。
喜んでもらえるのはうれしいが、やっぱりどこか複雑な自分もいるのである。もちろん大きいのはうれしいけど。一方で、小さいから不満という話はあまり聞いたことがない。そういうのはあるのだろうか。
当然サイズには個人差があるため、顔がよくても小さい人もいるし、大きい人もいる。本当に色々個性があって、おもしろいと思うのであった。
2011/07/08 昔の話

ゲイの出会いは多様である。僕は「パソコンが得意」と行ってもいいかもしれないが、それを理由として出会ったことは一度もない。困っていれば助けることはあるかもしれないが、基本的には頼まれたこともないし。助けるようなシチュエーションになったこともない。
しかしいくつかの職業は、それだけで募集の理由になる場合がある。
それが今回の霊感の話。
※くれぐれもこの話は、そういうことがあったというだけで、詳細についてはわかりません。
出会い関係の掲示板を見ていると、非常に切羽詰まった内容の募集があった。
「とても困っています。霊障関係に詳しい方お願いします。霊能者・イタコ関係の方いませんか」と。
もちろん僕はこの出会いの対象外である。だけど非常に興味深い内容だともおもった。
通常の出会いであれば、身長・体重・年齢がまずは記載され、自分の特徴を書き、望んでいる希望を書くのである。昔よくあったのは、土日が休みじゃないので、そういう人が希望とか、たばこを吸わない人とか、スリムとかがっちりとか。
そういうのが普通は書いてある。たまにフェチということで、ユニフォームが好きとか、競パンがいいとか。
映画見ましょうとか、サッカー、テニスやりましょうとか、とにかく常識的な文章とともに募集されているのである。
その中に一つ、霊障関係に詳しい霊能者を募集しているのだ。異質なことが分かると思う。
そもそも強い疑問がある。
もし僕が霊関係の仕事をしているとして、その募集に注目するのだろうか。それは仕事のチャンスとして見るのか、それとも困っている人の相談として見るのか。少なくとも友達や恋人関係は期待できないだろう。
掲載する方もする方だと思う。そこで応募してきてくれた人に何を相談したいのだろうか。それはゲイの掲示板を利用しなければならないようなことなのだろうか。
とにかく疑問はつきないのである。
この手の書き込みは僕がデビューしてから定期的に見ていたと思う。そう考えると、一定数困っている人がいるというのだろうか。