2011/07/27 ブログ

うまいキスと下手なキスを分ける基準は何だろうか。いつも考える。
直接的な行為と違いキスでのテクニックの差というは、確かにあるんだけど、それを証明することは難しいように考えている。
僕自身の話。キスには(も)決して自信は無いんだけど、何回かうまいと言われたことがある。しかし言われないことも多いので、おそらく相性などの偶発的な理由によるもので、実際の僕はまあ普通なんだろう。
激しいキスがうまい要素ではないだろうし、静かなキスがうまい要素でもないと思う。じゃあ組み合わせなのか。
確かに緩急というのは重要に思う。また意外と忘れてはいけないのが手の動き。ぶらっとさせているのはイマイチだと考えている。相手の身体を触るか手をつなぐか、首筋か腰あたりにそっと手を回したい。
そしてもちろん個人的には歯がきれいであること!これは興奮も左右するしモチベーションも左右するとても重要な事だと考えている。
しかしやっぱり緩急ぐらいでしかテクニックの違いは出てこないようにも思う。
下唇と中心に・・・とか、吸い付くように・・・という細かい違いは確かにある。でもやり尽くされたバリエーションばかりではないだろうか。
もちろんシチュエーションも大事だとは思う。
性的な行為につながるキスじゃない場合、ちょっとしたときにするのも楽しい。トイレに入ったときとか、出かける時とか。
そして彼とのキス。もちろん軽いのから激しいのまで色々あるんだけど、その最中に彼はゲップしたり!アメをなめてたり!咳き込んだり。会話したり。なんだか自由奔放だ。
2011/07/26 ブログ

宝石というのはいつの時代でも人々の目を引いてきた。そしてそれは主に女性の目であった。
男性の中にある女性らしさ。それは何も女々しいというネガティブなことではなく、すべての男性が持ち合わせている部分でもある。たとえば僕は、全然女性的なところは無い。一切無いけども、かわいいのが好き。カメラをしまうバックにはリラックマが付いている。しかしこれをもって、ゲイ特有のナヨナヨではないと僕は考えている。そういう一部の部分をのぞけば僕は完全に男性なのだから。
彼の話。スワロフスキーという宝石?があるらしい。もちろん僕はそれを彼に教わるまで知らなかった。それはガラスを宝石のように加工したもののようで、必要以上にきらきらしていた。
そして彼が言ったのである。「昔こういうきらきらした宝石の前から動かなかったらしいよ。ずっと見てたんだって」と。彼が小さかった頃にきらきらしたもの、、、とくに宝石などの前では、立ち止まっていつまでも見ていたらしい。
彼は子供の頃から、非常に女々しさを持っていたように思う。話の端々でそれを感じる。
たとえば僕は男女の兄弟である。通常年齢の近い兄弟の場合、けんかにならないように、男性用のおもちゃ1つ、女性用のおもちゃ1つ。ということで、絶対に違う種類が2つ渡される。僕はロボットだったし、妹は人形や折り紙だった。同じモノが2つということもなければ、両方に使えるようなおもちゃがプレゼントされることも、非常に少なかった。
もしそのようなことがあれば、けんかになって、泣きわめくような状態になるのは、火を見るよりも明らかである。
しかし彼は違ったらしい。ロボットなどには目もくれなかったそうだ。折り紙や人形を好んだようだし、それらで姉と一緒に遊んだらしい。
遊ぶのもそう。男の子は、そして僕は野球やサッカー、ドッチボールをすることがほとんどであった。しかし彼はままごとや人形遊びをしていたらしいのである。女の子に混ざって遊んでいたというのだから非常に驚きである。
きっかけ。というのを一度は書いてみたい記事でもある。しかし、こういう彼の話を聞くと、結局のところ先天的であったのではないかと僕は考えてしまうのである。
2011/07/25 昔の話

僕の年代。
30代=1980年代生まれは、思春期のころに女子高生、ブルセラ、援助交際という言葉が使われ始めた時代でもあった。
そしてそれは、もちろんゲイの世界も無関係ではない。女子高生がパンツを売るのであれば、ゲイもそう。パパがお金とともに肉体を求めるのであれば、それはゲイの世界も同様である。
もちろんゲイのコミュニティの中で高校生というのは相当人数が少ない。そのため実際には大学生~20代前半ぐらいまでがその対象になるのだろう。
僕はこの世界に入る前から、どうにも年上が苦手で恋愛の対象や、それをにおわすような関係になることは不可能であった。しかし友人の中には、年上が好きということもあったり、何よりも若いときは常に貧乏であった。そういった事情があって、肉体と金銭を交換するという話を聞いたことがある。
何をもって後ろめたい行為とするのか、非常に難しいところがある。たとえばずっとずっと年上の人、、、父親ぐらいの?、、、という人に食事をごちそうしてもらう。そのようなことは、たとえ下心や不純な動機があったとしても、食事を食べるということのみにおいては、問題があるのだろうか。
若い子は空腹を満たすことができ、パパは有意義な時間をわずかな金銭で満たすことができる。もしそこにちょっとした違和感があるとすれば、年齢差がありすぎる、ということだけである。
ゲイは多様であるから、いろいろな行為が金銭の対象となることがある。たとえばセックスにしても、最後までする場合、手だけの場合、口だけの場合、、、しかもそれは、してもらう場合もあれば、させてもらう場合にも価値が生じる。あまり適切な例では無いかもしれないが、援助交際の場合「させてもらう」ことが目的であり、してもらうことは主たる目的ではおそらくないだろう。しかしタチ・ネコという役割に応じて、求める内容も違う。
聞く話のほとんどは、してもらうのはOK。だけどこっちからするのは抵抗がある。というのが多かったように思う。
金銭は相場もあるようだけど、なんかそれぞれみたい。
僕の場合。僕はやっぱり無理だ。新宿の飲み屋で、かつて足を触られたりだとか、肩に手を回されたりだとか、そういったことがあった。しかしそのような行為のどれも、僕は嫌悪感を感じるのである。もちろん冗談で触ってくる場合と、明らかにいやらしい感じの時の違いがあって、嫌らしいときの感じは何とも言えない嫌悪感である。
だからかつて何回か、義理などで食事をするようなことはあった。だけどもちろん金銭の授受も肉体の提供も一切不可能であることを僕は知った。
※奥にちらりと映っている人は彼がタイプらしいです。
2011/07/24 親/家族

僕は残念なことでもありますが、妹が2人います。うちは女性が多くいる環境でした。
小さいとき、一緒に遊べる弟が欲しいと考えていました。そして今だに弟がいればなぁと、遊ぶという言葉の意味が広がった今でもそのように考えているのです。
兄弟は性の対象になり得るのか。非常に僕は強い興味を持っています。と、書きながら本当のところはどうなのか、妹がいるので知ってもいるのです。
一人っ子の人には申し訳ない部分もあるのですが、兄弟は絶対に性の対象にはなりません。興奮もしませんし、むしろ不潔な感じさえしてしまいます。少なくとも僕は。
僕の指向は男性なので、今の環境・・・妹よりも弟や兄がいたらきっと考えも違っていたと思います。ましてや今のような10歳も離れた弟がいたら・・・。と、想像の域ではありますが。
少なくとも僕の今までの人生において、妹には一切感情を持つことはありません。そればかりか、妹とのシチュエーションという、AVやマンガなどにありがちな行為も嫌悪感が先に出てしまって楽しめないのです。
しかしそれでも。と、僕はやっぱり(そしてできれば)弟が欲しかったなぁと考えています。今まで友人の中で数名、弟さんがいて、会ったこともあります。だいたい男の兄弟はサバサバとしており、また非常に雑多で僕が知っている兄弟とは大きく違います。なんだかんだで、女の子たちは態度も言葉も一定の丁寧さがあります。
そんな雑多な兄弟のコミュニケーションを見たり、聞いたり。会話をしたり。その中のすべてがうらやましいと思います。
僕は妹が2人。彼は姉が1人。そのため、擬似的にも弟がいる状態を楽しめないのは非常に残念です。しかしもし僕に弟がいたら、ひょっとしたら年上好きになっていたかもしれませんね。案外身近にない環境を恋愛には求めがちでもありますから。
2011/07/23 考え(自分関連)

むかしむかし、あるところに。努力の大嫌いなかお。という少年がおりました。その少年は、とにかく努力することが大嫌いで、楽なこと、好きなことばかりをして過ごしていました。
特に運動が嫌いで、食べることが大好きだった少年なので、年齢を重ねるごとにぶくぶくと太り、さも見にくい身体になってしまいました。
それでも努力の嫌いだった彼は、見にくく太ったその姿を見ても、なんの努力もせず、怠惰に毎日を過ごしたのでした。
見かねた周りの友人たちは、「もっと運動しないと」とか、「食事を制限しないと」などとアドバイスをしたのですが、彼はまったく耳を貸しません。
さらにタイミングの悪いことに、一部の友人は「そんなに太ってないよ」とか「太っててもいいじゃん」とか「健康的で魅力的だよ」などという甘い言葉をかけるのでした。
彼は自分にとって都合の悪い言葉には耳を貸しませんが、甘い言葉にはすぐに甘えたのです。まだ大丈夫。それを何回も自分にいいきかせ、さらに努力をしない毎日を迎えたのでした。
※結末はみなさんのご想像にお任せいたします。
と、もし僕が努力をしなければ、きっとそのような毎日を送っていたのではないだろうか。という話。
僕がいつも頭の中で思い出す話がある。
あるところで病気の人がいた。手術をすれば治るかもしれないが、重篤になるかもしれない。そのような病気だったそうである。その人はなんとか手術をせずに治す方法を必死に探したという。もしくは最悪手術をするにしても、確実に治るように。
そうやって、病院や医者を捜している間に、その人は重症になり帰らぬ人となった。
と。そういう話。
結局、何かに向かうときに、最善の方法を探していたのでは手遅れになる場合も多い。次善の方法ですぐに行動を起こすことが重要な時もある。
しかし何か行動を起こそうとするときに、アドバイスの場合もあるし否定的な意見を受けることも多い。そしてそれが、自身の決定を惑わすことになる。
最初の話。努力をしないことが問題なのは言うまでも無い。しかし大丈夫という周りの言葉をどのように受けるのか。という問題もある。大丈夫という言葉をかける人は、本心かもしれない。しかしそれは、手遅れへの道を進むために背中を押してくれていると考えることもできる。
もちろん、身体に関することはあらゆるものを犠牲にしてまで何かに向かうというほどのことでは無い。だから適度というのは確かに存在する。しかしそれは何もしなくていいということでもない。そして何かをしなければならないのであれば、少しでも早く、、、たとえその方法に間違いが含まれていたとしても、、、何かをしなければならないと考える。
さらに。ここから僕の彼への不満を少し書く。
彼は一言で言うならゴールがない。果てしなき努力とでもいうのだろうか。たとえば一時の、一番太っていた頃に比べれば、今の僕は相対的にマシになっていると考えている。たとえば十分満足できる点数という意味で70点は取れたのではないだろうか。しかしもちろんそれは僕自身も当然認識しているが、80点でも90点でも100点でもない。そんなことはもちろん分かっている。それを知っているのと同じように、70点ぐらいの満足度の位置にいることも知っている。
しかし彼からすると、この努力=結果は、0点もしくはそれに近いほどの低い評価になる。もちろん結果が出ていない状態で、努力だけに点数をつけるのはおかしい。だけどちゃんと結果もでている。脂肪での56kg がジムでトレーニングして筋肉をつけての53kgであれば、肉体的にはかなり見た目も印象もは違う。
にも関わらず、全然ダメだと評することの意味を僕は考えてしまう。
2011/07/22 日常

genくんを皮切りに?数名の方の先日のイベントのブログ記事・感想を読んだ。どのような会だったのかは、とくに gen くんの記事にゆだねるとして、いくつか思うところを書こうと思う。
げんやさんが、
・ 反差別運動と訣別するためのゆるい序章(前編)ー「同性愛差別」の本質を再考する
・ 反差別運動と訣別するためのゆるい序章(後編)ーひとまえで手をつなぐのは恥ずかしいことではないと言う
という記事を書かれていた。この記事は前・後編に分かれており、まさか前半の流れから、後半の記事でゲイタンヌーボのことに触れられるとは考えてもいなかったので大変驚いている。というのがまずは正直な感想。
僕が今まで過去を振り返ってさんざん記事にしていたが、ゲイの業界はなかなか一枚岩とはいかない。もしゲイが団結できる要素が少しでもあるとするならば、それは性だけではないか。とさえ思ってしまう。しかしコンドームを含めた各種性病予防キャンペーンがそうであるように、それは決して誇れることでは無いと僕自身は感じている。が、しかし言うまでもなく非常に重要なことでもある。
ゲイが団結しづらいというのは、もちろん今に始まったことではないと思う。かつてはその社会的な立場から団結することが、すでに後ろめたいことであったのかもしれない。
しかし今は社会的な何かに原因を求めるよりも、多様な個性が原因なのではないかと僕は考えている。個性は尊重されるべきで、大切なことだと思う。そして社会的な生活を営む上ではそれで全く問題無い。しかしそれは、普通という人生を送るのであれば。
僕たちはゲイのコミュニティの中で活動していると、自分がマイノリティであることを忘れてしまう時がある。もちろん自由に発言ができ、何にも臆することが無いというのはとてもすばらしい。しかしそれはあくまでもゲイコミュニティの中でのみ通用している。
結局のところ、誰かが何か行動を起こさなければ、先人たちが今の社会を作り上げたような未来、、それは今よりももっともっと垣根なく受け入れられること、、はできない。
と、堅苦しいことを掲げ、そのための「具体的な何か」を言ったところで、僕にはそのような行動力もないし、その行動が本当に大切なことなのかも理解できる状態にない。だって今のままでいーじゃん、って。
なんだけど、おそらく今までのゲイコミュニティの中でいうならば、ちょっと異質なのがゲイタンヌーボなんじゃないかなぁと思う。
もし僕だったら。新しいコミュニティへの参加は以下のようなことを考える。
・タイプの人はくるの?
・(恋人いなければ)恋人になれるような人はいるの?
・ほんとに楽しいの?
・なんかめんどくさそう。
・緊張するしイヤだなぁ
と。まあ僕の場合はだいたい自分勝手な気持ちか、初対面は緊張するからネガティブな気持ちのどちらか。根底にはやっぱりコミュニケーションは怖いという考えがある。
どのようなコミュニティだったとしても、そこには色恋が存在していたし、その先には肉体の欲求が存在していた。それが無ければそのコミュニティに参加する意味も無い。と、考える人が多いと思う。つまり多くのコミュニティで根底にあるのは恋。もちろんそれは無意識かもしれないが本能でもある。
ゲイタンヌーボが違うと思うのは、根底にあるのは「楽しさ」。楽しいを目指しているし、そうするべきだと思う。もちろん個々人においては、色恋があってもいいと思うし。
先日げんやさんとのチャットで、ちょっとしたことからおもしろいフレーズが出てきた。
「楽しい」をみんなでもっと共有したい
ゲイタンヌーボの1回目では、すでに方向性としての理念があったのだが、これも追加していいのではないか。
1回目のゲイタンヌーボ。十分楽しかったと思う。だけど、もっともっとみんなで「楽しい」を共有したい。そのための工夫はまだまだありそう。次に開催される大阪では1回目よりも期待してもいいだろう。1回目が終わってからの、参加者の団結はなんだかすごい感じだし、以前僕のボイスブログの協力をしてくれたゆず茶くんも企画者の一人だしね。
これを読んでいる一人でも多くのあなたと「楽しい」を一緒に。

以下は告知です。(げんやさんの所から引用・一部改変しています)
8月27日(土)に、大阪で第二回ゲイタンヌーボを開催することが正式に決まりました。
場所:大阪、服部緑地公園(地下鉄御堂筋線 / 北大阪急行「緑地公園駅」徒歩十分)
日程:8月27日(土)
時間:正午くらいからBBQ及び流しそうめん。夜は花火など(自由解散)
予算:一日通しの参加で3,000円くらい
規模:約50名を想定
参加資格:なし
詳細:いまのところはツイッターをご参照ください。
もし興味もたれた方がいたら、ぜひ連絡をお願いします。 kaokao.hihi@ジーメール まで!
一人での参加もお気軽に!
※ロゴはのりさんが作ってくれました
2011/07/21 日常

同棲しているわけではないのでまだ考えるのは早いことなのかもしれない。
何をプライバシーとして守り、何をさらけ出すのだろうか。
別居の状態と同居(同棲)の状態で、大きく違うと考えている。いくら半同棲というほど一緒にいたとしても、一緒に住むというのは本当に違う。そのスタイルの違いの落としどころはどこにあるのだろうか。
パソコンについて言うのであれば、僕はPCの仕事をしているので、そのPCをどのように利用したのかを知ることができる。もちろんエロサイトを見ていたのか、誰とどのようなメールをしたのか、検索した語句など・・・。
しかし僕は絶対にパソコンのそういう情報を知ろうとはしない。興味も無い。これは踏み込みやすい部分でもあるが、重要なプライバシーだと考えているからである。
プライバシーを容易に知ることができるような状態にあるとき、それに強い興味があるのは非常によく分かる。僕だってかつてはそうであった。しかし常にその状態であれば、今度は逆に知らない方がいいと思うようになった。
僕にとって自分自身に必要なプライバシーというのはほとんど無い。親しい仲であれば、部屋で囲われていなくても僕はあまり気にしない。もちろんオナニーなどの制約が出てくることは事実である。だけどそれをプライバシーという理由で確保するのもおかしい。
唯一プライバシーとして、僕が重要だと考えているのは、「周りが気にする場合」である。たとえばそれこそエロに関するモノが目に付くところにあったら、僕が恥ずかしいと思うかというのとは別に、「そんなのはしまっておいてよ」と思うだろう。そしてそれをしまっておく場所が、僕にとって必要な空間だとおもっている。
人によっては部屋で完全に一人になれないと落ち着かないという人もいる。しかし僕はまったくそんなことは無いのではないかと考えている。
しかし同棲するようになると、気になるのが部屋のレイアウト。僕はシンプルがいい。しかしそれはきっと叶いそうも無いと考えています。
2011/07/20 カップル(彼関連)

(昨日からの続きです。)
そして今回の件。
もともと今回宿泊する予定のホテルには大浴場が無かった。価格を優先して選んだので、それは仕方のないことだと思っていた。しかし当然不満でもあった。しかしそのホテルには、近所にある温泉施設と提携しており、無料でそこを利用できるというのである。なんとすばらしいことだろうか。
しかし送迎の足が無いため、今回バイクで行くしか方法が無かった。そして食事後に行こうとしてたが、これだと食事でお酒を飲むことができない。それなら僕は温泉施設には行かなくてもいい。
「じゃあこうしよう」と、僕の案。僕は食事の時にお酒を飲んで、彼のバイクと運転で温泉に行けばいいと。何の問題も無い案である。逆の立場であれば、今までよくしていること。僕の運転で僕のバイクででかけてたんだから。
しかし彼には不安な点があったらしい。道が分からない、二人乗りが初めてで怖い、と。近隣の飲食店まで出かけるのに、バイクに乗ったが、それはそれは大変であった。道を間違えたとき、「ねぇ。次はどこ曲がればいいの? / ちゃんと案内してくれないからわかんないじゃん / そんな突然言われても分からないよ / だから二人乗りは無理なんだって」と。ネガティブな言葉の数々。
また運転方法での考えの違いも大きかった。
僕はスムーズに発進してスムーズに停車することが非常に重要だと考えていた。それは教習所の時にも「スムーズな運転を心がけているのはいいと思う。だからクラッチをつなぐときに、ガクッとなったら、その変速は失敗だったと思うぐらいで」といわれたこともある。
しかし彼は違った。クラッチをガツガツつなぐのである。だから発進時はガクガクッとなるし、停車時もガクガクッとなる。乗っている方は非常に怖い。もともとバイクの後ろに乗るのが苦手な僕は、そのような運転では、後ろに乗り続けるのはちょっと厳しい。道が分からないのも仕方がないし、ガクッとするのも仕方がない。だけど、せめて運転はスムーズであってほしいと。
この両者が合わさった結果、、、ネガティブなことと運転の考え方の違い。さすがに二人乗りは無理であった。
「あなたの運転の後ろに乗るのは無理」それが僕の結論であった。彼は「それは僕が悪いんじゃないよね?」と。確かにその通りである。ネガティブな言葉を浴びせ続けられ、それでも僕自身が責任をちゃんと感じられて。そして怖い(と考える)運転を受け入れることができない僕が悪いのだろう。と、責任を感じる部分もある。
結果として食事中は、お互いのバイクで、温泉に向かった。別にそれはそれで問題も無いし、温泉施設も無料で利用できるには十分な設備・清潔であったから大満足であった。
2011/07/19 カップル(彼関連)

僕はけんかをしない。それはとても大切なことだと考えている。
しかし。文句は言う。主張もする。相手が気分を害することもあるだろうし、そのような状態をけんかというのであれば、それはそうかもしれない。
ただし僕は一時の気分で、何かを主張しないようにしているし、それは生活においても仕事においても非常に重要なことだと考えている。
時には感情とともに何かを吐露することを、魅力的とか人間的と表現するのかもしれない。しかし一時の感情の高低で自分の主張が都度変わってしまうのことや、表現が必要以上に強くなってしまうことは、愚かなことであるとさえ僕は思っているのです。
しかし当然、主張が主張だけで終わるばかりではなく、時には険悪な雰囲気になることもあって、それが今回起きてしまったのでいくつかのまとめ。
旅行はけんかが起きやすい。そのように聞いたことがある。むしろ日常を離れている訳だから、けんかが起きるなどとは無縁のように考えていた。しかし事実はどうやら違っていたようである。確かに思い返してみれば、けんかというか、険悪な雰囲気になるときは、確かに旅行中は多いように思う。
たとえば食事。たとえば出かける施設。それらについて、お互いの考えが100%一致することは難しく、それでも必ず二人で一つに一致させなければならない。そういうときに、意見の不一致、そして不満の蓄積はけんかになりやすのではないか。
食事。僕はやっぱり旅行先での食事はこだわりたい。べつにおいしいものである必要は無いし、ご当地のモノである必要も無いと考えている。しかし僕の住んでいる東京は、食事のクオリティが全体的に非常に高い。おおむね価格と味は比例関係にある。高い食事はおいしい。安い食事はそこそこ。もちろん、安い食事の中には、おいしいものとまずいモノもあるし、もちろん高い食事も同じ。しかし味に関する「大きなハズレ」は、安いところに多い。
旅行先での食事。非常に難しい事だと思う。観光地価格と言われるように、東京であれば決して1000円を超えてはならないような食事が、ひどいところでは1500円などの価格設定になっている。僕は高くてまずい食事だけは絶対に、絶対に避けたいと考えている。それは確実に、僕らお客のことをバカにしていることに他ならないから。
彼と食事の好みはなかなか合わない。だから旅行先で、何をどこで食べるのか。非常に難しいところである。また、彼はそういう選択のセンスがほとんどない。彼に主導で選んでもらうと、毎回・・とまでは言わないが、高くてまずい店にぶつかることも多い。しかも好みも合わないことと相まって、「うーん。まあそれでもいいかぁ」などという軽い気持ちでお店に入ると大変なことになる。そんなに食べたくもない、高くてまずい食事を無理矢理食べなければならないことになってしまう。
最初の頃は、そのセンスのなさを指摘した。しかし彼も元々主導的にお店を選びたいわけでもなく、「かお。がどこでもいいって言ったんでしょ」という話になる。僕は選んだからにはその責任が生じると思うが、それを彼に押しつけるのも変な話である。だから最初の数店舗で同じようなことがあってから、僕は彼に頼らないか、もしくは自分が納得して、場合によっては(彼の選択だったとしても)「自分が行きたい」から、そこにしたと強く考えるようにしている。そうすれば、たとえ最低の店であっても、自分の責任として処理できる。
※ちなみに、「センスのなさ」については、その責任は大きい。仕事でもそうだけど、仕事ができない人は、仕組みや周りの責任。だけど運がない人は、その人の責任である。
ちなみに彼が選択で失敗しないのは(=価格とクオリティが一致しているのは)ホテルである。ホテルは安いところはその程度。それは広さや設備の新しさ、空調や食事、水回りや冷蔵庫など、細かいけどそれを感じる場所は多い。
なんだけど、僕が今までで一番よかったと思ったのは、3連休の当日に、急遽旅行を決めた時に使ったペンションであった。通常の考えで言えば、3連休の当日まで空室のある宿泊施設は、もう言うまでもない、最低のハズである。しかしそのときは、僕が結果的に主導で(そしてまったく期待してなかったけど)非常にいいところであった。引きの強さという運はやっぱり重要だと思う。
2011/07/18 日常

以前、旅行について少し書いたことがあった、と思う。(2011-05-02 旅行に関する考えが変わった日。)
今まで僕自身は彼と知り合うまで旅行らしい旅行はしたことがなかった。しかし知り合ってから、いろいろなところを旅行したという話。
今回は千葉に行ってきた。もともと「端っこ」というのは非常に興味がある。もちろん最南端とか最東端とか、端っこの定義も色々ある。そうなんだけど、たとえば東京から近くて端っこを意識できる場所、、、それは半島だと思う。
もともと半島といっても、あまり意識をすることは無かった。だけど、たとえば伊豆半島(=後日公開するけんかの話で、ペンションが出てきますが、それはここにありました)で、とてもよかった思い出から、半島というのは意外とおもしろいと知った。ただし半島って、だいたいにおいて、交通機関が発達していません。鉄道もそうだし、高速道路も。だからバイクでたとえ予想以上の細い道だったとしても、スイスイいけるのはとてもすばらしいことだと思います。
千葉は、僕にとって色々と身近であった。たとえば三浦半島の端っこ、、、分からない。だけど千葉のはしっこは館山となぜか昔から知っていた。内房と外房という言葉も知っていたし。気持ちの中では非常に身近な場所であった。
また何となく台風の被害のイメージもある。東京はなぜかすれすれで通過しないことが多いが、その場合って、きっと千葉はすれすれで通過しているんだろうし、館山の通過率はすごそうである(勝手なイメージですが)
のくせに、今まで一度も行ったことが無かった。そもそも館山は観光施設があるのか疑問だったし、海で遊ぶために行くような場所でもなし。だから千葉の南側で行きやすいのは、せいぜい富津岬か、鴨川であった。
また、以外と行きにくいのも原因である。東京から行くなら今はアクアラインがあるが、昔はあまりダイレクトに行く手段が無かったし、東京と千葉を結ぶ道路は、つねに渋滞している。(だから今も日帰りで遊びに行くとき、千葉はかなり躊躇してしまうところもある。)
アクアラインは高額だが、今はキャンペーンだかで、安くなっている。これも千葉に行くことを後押しする要因であった。
実際、千葉のいろいろな場所はとてもすばらしいと思った。実際、この「施設に行く」というのはあまり無く、この施設がよかったという感想は無い。だけどバイクで走っていて、とても気持ちよく走れたし、(道がまっすぐでわかりやすいとか、空いているとか、広いとか)海岸線に沿って道があることも多く、ずっと海を眺めながらの運転も気持ちがよかった。
お土産もそう。いろいろなところを旅行した僕は、ほしいと思うようなお土産に出会うことも少ない。地域で有名なお菓子を、、、広島だったらもみじまんじゅうとか、を会社の人のために買うことはあるけど、自分が消費するために買おうと思えるようなものはすくない。京都とかも漬け物が有名みたいだけど、あまりにも整然とパッケージされているのを見ると、どうも買う気が失せてしまう。
千葉ももちろんそういう、極端に観光地としての商品は多い。しかし一部のおみやげについては、ずいぶんと刺激的であった。そして今回いくつか買ってしまった。これは今までにない感じで、大変興味深い。
去年からのテーマで、「○○狩り」ということに非常に興味を持っている。去年はキノコ狩り(シイタケ)で、なんとこのときから、椎茸が好きな食べ物からあまり好きではない食べ物に分類されてしまった。たぶん食べ過ぎたんだと思います。(施設はすばらしかったですし、味もとてもよかったです。念のため)
今回はブルーベリー狩りをしてきたので、また秋頃に、何か他のモノでチャレンジしてみたい。ちなみに今までは、いちご・ぶどう・梨・しいたけ・栗をしたことがある。栗は小学生の時なので、またやってみたい。
※写真はうみほたる。別に夕方を狙ったわけではありませんでしたが、偶然にちょうどいい時間にぶつかりました。