2011/09/03 日常

お酒を飲むと性格が変わる。それはもちろん僕自身のことでもあるし、お酒を飲む大多数の人がそうだと思う。
僕自身はお酒は大好き。それは味として。最近はあまり積極的に家で一人では飲まないようにしているが、飲みたいと思う時も多いし、都度都度やっぱりおいしいと感じている。
そしてただ味わうだけで終わらないのがお酒。飲むと当然酔っぱらう。そしてそのときに性格の変化がある。
もちろん楽しくなる人もいれば、ネガティブになる人もいる。僕は僕の性格から、あまりネガティブになる人を知らない。泣き上戸という言葉もあるのだが、そういう人も知らない。本当にそういう人などいるのだろうか???
僕は楽しくなる。些細なことでも楽しくなる。あとは若干攻撃的になるのかもしれない。もともと意見が固定的であったり、口調が強いことと相まって、ひどいかもしれない。
僕の彼などは、もともとおとなしくて、酔っぱらってもおとなしい。若干ネガティブになることもあるけど、それもあまり感じない。酔っても怒らないし、本当にそのまま。
普段静かな人がお酒を飲むと豹変する場合がある。先日のゲイタンを通して知り合った人の中にもそういう人がいた。飲んでいない状態か、もしくはほとんど酔ってない状態で話をした。いくつかの話をしたときには、僕の質問に対してははっきりと答えてくれる。そういう会話の中で得た印象は、少しおとなしい人だな、と。
実際、大阪滞在中にした会話を通じてはすべてその印象であった。聞けばちゃんと返すけどそれまで。もちろんそれは全然イヤじゃないし、僕はそういうタイプの人が大好きなのはいまさらいうまでもない。
しかし少し多めにお酒を飲み始めて、徐々に性格の変化があった。最初のころは、上記の通り、静かで控えめであった。
しかしお酒が進むにつれて、徐々ににぎやかになってきたのである。非常に楽しそうでもあった。
積極的に話しかけてくるし、くだらないことでもいちいち話に食い込んでくる。
普段のおとなしい状態を知っている僕としてはとても驚きであった。
しかし、その状態も魅力的だと感じた。酔ったときにおとなしくなるよりも、酔って一緒に騒いだ方が絶対楽しいと思う。もちろん飲めなくて、そうならない人もいると思うが、それはそれで別にいい。ただし、やっぱりネガティブになるのだけは、せっかくの楽しさが半減してしまうように感じる。
ちなみに、酔ったときの性格は抑圧された自分が解放された状態になると言われる。だからおとなしい人の場合、普段はもっと騒ぎたいのに・・・ということだろうか。しかしどうにも納得いかないのは、僕は普段のままだと思う点である。普段から、そういう意味では攻撃的だし、あまり怒らないのも変わらない。だから酔ったときの僕の楽しそうな姿を見て、ああ、かお。さんは普段よっぽどストレスで、つまらない毎日を過ごしてるんだなぁって思われたらちょっとどうなのだろうか。
さて、話は変わって。
僕自身は、そういう楽しくなる酔い方である。”だからお酒が好きなんだろう” そのように思われるかもしれない。しかしそれは正確ではない。僕の場合、お酒は単純に味が(も)好き。だからビールなどは苦いと言われているし、僕自身もそう思うが、その味が大好きなのである。しかしビールテイスト飲料は苦手なので、アルコールの存在も大切なのかもしれない。
お酒は大好きなのに、あまり量を飲めないのはちょっと残念でもある。お酒がつよい人と飲むと、中途半端につきあえるので、その途中でギブアップになってしまう。もう僕も30歳という、いい大人どころかおじさんになりつつあるので、「大人の飲み方」をこれからは追求していきたいと考えている。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/09/03 日常

お酒を飲むと性格が変わる。それはもちろん僕自身のことでもあるし、お酒を飲む大多数の人がそうだと思う。
僕自身はお酒は大好き。それは味として。最近はあまり積極的に家で一人では飲まないようにしているが、飲みたいと思う時も多いし、都度都度やっぱりおいしいと感じている。
そしてただ味わうだけで終わらないのがお酒。飲むと当然酔っぱらう。そしてそのときに性格の変化がある。
もちろん楽しくなる人もいれば、ネガティブになる人もいる。僕は僕の性格から、あまりネガティブになる人を知らない。泣き上戸という言葉もあるのだが、そういう人も知らない。本当にそういう人などいるのだろうか???
僕は楽しくなる。些細なことでも楽しくなる。あとは若干攻撃的になるのかもしれない。もともと意見が固定的であったり、口調が強いことと相まって、ひどいかもしれない。
僕の彼などは、もともとおとなしくて、酔っぱらってもおとなしい。若干ネガティブになることもあるけど、それもあまり感じない。酔っても怒らないし、本当にそのまま。
普段静かな人がお酒を飲むと豹変する場合がある。先日のゲイタンを通して知り合った人の中にもそういう人がいた。飲んでいない状態か、もしくはほとんど酔ってない状態で話をした。いくつかの話をしたときには、僕の質問に対してははっきりと答えてくれる。そういう会話の中で得た印象は、少しおとなしい人だな、と。
実際、大阪滞在中にした会話を通じてはすべてその印象であった。聞けばちゃんと返すけどそれまで。もちろんそれは全然イヤじゃないし、僕はそういうタイプの人が大好きなのはいまさらいうまでもない。
しかし少し多めにお酒を飲み始めて、徐々に性格の変化があった。最初のころは、上記の通り、静かで控えめであった。
しかしお酒が進むにつれて、徐々ににぎやかになってきたのである。非常に楽しそうでもあった。
積極的に話しかけてくるし、くだらないことでもいちいち話に食い込んでくる。
普段のおとなしい状態を知っている僕としてはとても驚きであった。
しかし、その状態も魅力的だと感じた。酔ったときにおとなしくなるよりも、酔って一緒に騒いだ方が絶対楽しいと思う。もちろん飲めなくて、そうならない人もいると思うが、それはそれで別にいい。ただし、やっぱりネガティブになるのだけは、せっかくの楽しさが半減してしまうように感じる。
ちなみに、酔ったときの性格は抑圧された自分が解放された状態になると言われる。だからおとなしい人の場合、普段はもっと騒ぎたいのに・・・ということだろうか。しかしどうにも納得いかないのは、僕は普段のままだと思う点である。普段から、そういう意味では攻撃的だし、あまり怒らないのも変わらない。だから酔ったときの僕の楽しそうな姿を見て、ああ、かお。さんは普段よっぽどストレスで、つまらない毎日を過ごしてるんだなぁって思われたらちょっとどうなのだろうか。
さて、話は変わって。
僕自身は、そういう楽しくなる酔い方である。”だからお酒が好きなんだろう” そのように思われるかもしれない。しかしそれは正確ではない。僕の場合、お酒は単純に味が(も)好き。だからビールなどは苦いと言われているし、僕自身もそう思うが、その味が大好きなのである。しかしビールテイスト飲料は苦手なので、アルコールの存在も大切なのかもしれない。
お酒は大好きなのに、あまり量を飲めないのはちょっと残念でもある。お酒がつよい人と飲むと、中途半端につきあえるので、その途中でギブアップになってしまう。もう僕も30歳という、いい大人どころかおじさんになりつつあるので、「大人の飲み方」をこれからは追求していきたいと考えている。
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2011/09/02 考え(自分関連)

僕のことを書こう。先日のゲイタンを通して、このブログの読者に多少の変化があったかもしれない。今まで、書き手としての僕は読者を具体的に意識することはなく、僕自身の気持ちを全面に押し出していた。
もちろんこれからも、顔が思い浮かぶ読者とともに、顔の思い浮かばない大多数も今まで通り楽しんでもらえるようにがんばっていきたい。
今回、Times Online Sociology: Entry 015 G-noveau2011 in Osaka(後編)というブログの記事を受けて。
たくさん色々なことが書いてあるが、僕はその中で「人見知り」という部分を取り上げたいと思う。
僕も人見知り。と書くと、僕のことを知っている人は、また大げさに書いていると言われてしまう。そう。僕自身は誰かとある程度の時間をコミュニケーションを取りながら過ごすことは全く問題がないし、それは他人から見たときに、非常に楽しそうに見えるし、楽しんでいるように見えるハズ。
若干、もしくはそれ以上に僕の会話の方法は強引なこともあるので、そういうスタイルのコミュニケーションを苦手とする人は多いと思う。
僕自身は、こういうことを書くと理解いただけない可能性もあるが、非常に会話が苦痛である。きらいである。苦手である。多少それができるからまた問題でもある。もし見知らぬ人たちと会話をして、その場で仲良くなったとする。確かに最初の緊張とは違い、後半ではだいぶリラックスできるようになる。
しかし自宅に帰ってから、どっと疲れが出てくるのである。ひどいときには、またこういったコミュニケーションが続いた場合、ひどいときには熱が出て頭痛がするときもある。
これはもう僕の性格だと考えている。
その理由は、単純に怖いというのがある。色々な人からの意見を聞けるとき、それはとても有意義である。もちろん僕自身とはまったく意見が違う場合もある。そして考え方が違うことは僕の場合は非常に多い。
諭すようにしゃべる人もいれば、意見を述べるだけにとどまる人もいる。経験から述べる人もいれば、理想を述べる人も。厳しい意見もあるだろうし、賛同してもらえる場合もある。そのどのような手法・内容だったとしても、非常におもしろいことだと思う。
僕自身も同様に、様々な意見を述べる。それはもうこのブログに書いている通りでもある。
このとき、お互いの認識が一緒であれば問題無いし、ほとんどの場合がそうである。意見という意味では、何を述べてもいいし問題は無いはずである。しかしそのようにしていると、意見と人格が同一としてとらえられてしまうことも多くあります。もちろんそのほとんどが、同一なのは事実ですが、必ずしも持っている意見と、それに伴う行動が一致していることはないだろうし、意見は誇張されている可能性だってある。
もちろん誤解を与えないような、静かな意見を自身が述べればいいのだろうが、やっぱりそんなことはできない。それは性格の部分だと思う。
すると、僕が会話を始めるそばから誤解が生じる可能性がある。そしてそれは、もうずっと前からそうであった。いまだにそうである。
でも僕は自分のそれでもいいと考えている。だって今までだったらそんな「性格だからいつまでも一人なんだよ」なんて言われたら本当にその通りだった。でもいまはこんな性格でも恋人がいるんだからいーじゃん。っていうよりも、この性格のおかげで見つけられたんだと考えるようにしている。そう考えたら、こんな性格でもいいじゃないかと。
ちなみに参考で挙げたタツヤさん。その数日後の記事で、頻繁に訪問者がいたという記事が書いてあった。ううんどこが人見知りなんでしょうか。不思議です。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/09/01 ブログ

色々な人との交流を通じて、いくつかの質問をすることがある。もちろんそれは、私生活に関することもあれば、性に関することとかでもあるし恋人のことなどもある。興味があることを、基本的には質問している。
その中でブログを書いていますか?という質問をすることがある。そしてこの質問を投げたとき、書いている人・書いていない人双方とも、大変興味深い意見を聞けることが多い。
書いていない人は、続かない・ネタが無いということを理由とする場合が多い。
書いている人は、それこそ様々で、なんでもいろいろな事が書きたいという人がいれば、気になったことだけをたまに更新している人もいるし、その人なりの更新方法でブログを続けている。
昔書いてたけどやめちゃったって言う人もいる。
僕は基本的に、みんなブログ書けばいーじゃんっていうスタンスである。とはいっても、ネタが無いことも書き続けることが大変なのも感じているから、それが大変だからという理由で書かない事は非常に理解できる。だけど、書くことによって広がることもあるし、新しく気づかされることも多い。
ブログを書いている人や、これから書こうとしている人で、非常にアクセスを気にしている人がいる。もちろん自己満足の記事を書くことについては、色々考え方があると思う。だから読者を意識し、記事を書くことはすばらしいと思うし、また僕の登録しているランキングなどでは、上位になっている方々は非常に、魅せる文章を書いているように思う。
僕の場合、もちろんアクセス数などが気にならないといえばウソになる。だけどほとんど気にしていない。他の記事でも書いたけど、ブログ村への登録ぐらいが、他から読んでもらえる可能性だった。
幸いなことに、現在は読者数やアクセス数がおおむね一定の範囲に収まっており、安定している。
もし僕のブログが誰にも読まれてなかったとしたらそれはどうなったのかと考えるときがある。
そもそもアメブロがSNSとの混合だと言うことを知らなかったから、今まで他のサイトで書いていたように、おそらく静かに更新し、静かに楽しんでいたと思う。個人的にはそのスタイルも嫌いじゃない。
もちろん今のように、色々な人に読まれて、場合によっては声をかけてもらえて、ブログの記事をかいているかお。さんということで、僕自身に興味を持ってもらえるとか、すごくうれしいし、楽しい。
もしこれから書く人、書こうと思っている人がいるなら、ぜひブログを始めて欲しいと思う。もちろん誰も読まない可能性だってあるし、書きたいことがすぐに書けない、伝える事が難しくて頭を抱えることも多いかもしれない。だけど、そうして投稿されたブログは必ず誰かの目にとまり、その人に何らかの影響を与える可能性は大いにある。
だって、自分勝手に好き放題書いているこの記事でも、おもしろいって読んでくれる(変わった?)人がいるんだから。
2011/08/31 日常

先日の土曜日にゲイタンヌーボーが行われました。
僕は当日の朝に新幹線に乗って、東京から大阪に向かいました。
ゲイタンの趣旨や内容については、すでに1回目の東京のこともありますし、よく知っていました。参加者については、今回の場合三分の一ぐらいが会ったことのある人だったと思います。
またTwitterで交流があるけどもまだ会ったことが無い人が数人いました。全員で50人近くの方が参加される会であったため、全員の方を把握するのはとても大変でしたし、少ししか話すことができない人もいたと思います。(まったくしゃべれなかった人もいますし)
今回のゲイタンでは、BBQをやって、水鉄砲を使って遊んで、スイカ割りをやって。。。という予定でした。
夜はスーパー銭湯に行って、大部屋でみんなで泊まりです。

翌日の日曜日は、大阪の観光をしました。このとき、初めて天王寺・通天閣に行きました。
BBQ では、途中で雨が降ってきてしまいました。
降水確率は30%程度で、まずまず降らないと思っていたのです。しかし結果的には非常に強い雨が降ってしまいました。後数時間でも遅ければなぁというところでしょうか。もちろん天気のそれは残念ではありましたが、結果的にはとても強い印象として記憶に残りましたし、スイカ割りなどを楽しむことができました。
みんなでわいわいやっていると、BBQはきっかけの場であり、雨が降ったとしてもコミュニケーションにはまったく支障はありませんでした。むしろみんなが雨宿りをするために一カ所に集まるので、むしろ会話がしやすくなったかもしれません。
夜になると、スーパー銭湯に行きました。しかしゲイ同士でスーパー銭湯というのは緊張しますねw
その後は宿坊というところに宿泊。修学旅行のように、大部屋に泊まるのはずっと楽しかったです。時間を使ってワイワイしゃべる環境はなかなかありません。だいたいそういうときはお酒に酔ってしまうので、長時間しゃべることはできないものです。
大部屋では、修学旅行の時には恋愛のトークだったように、今でもその手の話は尽きない者です。しかし僕はやっぱり夜は眠いのです。早々に布団に入ってしまいました。
翌日はリバティ大阪と天王寺。
僕は今まで天王寺に行ったことがありませんでした。僕には新世界はお勧めだと、友人からよく言われたのですが、その意味がなんとなく分かった気がしました。
リバティ大阪では、人権や差別に関する展示を見ました。(マイノリティがどうのこうの、、、という意味で見に行ったのではなく、とさつに関する展示があったことや、なかなか通常の観光では行かないという理由でここになりました)

と、二日間で大変に濃い日を過ごしました。ほんとに知恵熱出そうになるぐらいでした。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/08/30 考え(自分関連)

ゲイタンヌーボーが行われました。
BBQを行い、記録的なゲリラ豪雨に見舞われ、水鉄砲を使いスイカ割りを行って、楽しい1日を過ごしました。
その中でとても驚くことがありました。
一つは、僕に直接話しかけてきてくれた人がいること。僕はブログをこうして書いていますが、その話題の数々は、決していろいろな人に受け入れられるような話を書いていません。どちらかと言えば、自身がこれからの30代を迎えるに当たって、なるべく有意義となるように、より思慮深くなれるようにという気持ちから20代の経験をまとめるように書いてきました。(このことは他の記事でも書いていますので重複していましますが・・)
だから今まで特にゲイタンを通してもそうですし、ブログを通じて知り合った方でも、ブログの文章から得られる印象と、僕自身の印象は大きく異なり、そしてそのギャップを、(良くも悪くも)乗り越えていただくことが最初のステップとなっています。
読者の方も、ブログを通じて知り合っていることが非常に多く、会ったときには、改めて読んでいることをアピールするのも、僕自身がブログを書いていることを主張するのも変な話です。
もちろんブログが中心ではない、何かの会で知り合った方の場合、その方が僕のブログを知っている可能性というのは非常に低いのが現実ですし、事実です。
そんな中で「かおさん。いつもブログ読んでます」といって話しかけてくれる人がおり、そしていくかの記事についての感想を言ってくれました。僕にはこれが大変驚きました。もちろん同様のことは今までにも何度か合ったと思いますし、都度そのたびに驚いていました。
しかし最近は、ブログを書き始めた頃とは違い、やや記事の濃度が薄くなっているような気もしていて、その中でのことだったので、驚いたというのが一つ。
さらに、今回のゲイタンヌーボの参加者で読んでくれる人がいるんだー。。。っていう不思議な感覚でもありました。
またとてもうれしいことに、僕のブログの記事をとても丁寧に読まれていて、尊敬やあこがれという表現が適切ではないかもしれませんが、なんというかそういう姿勢で話しかけてきていただいたというのは、とても驚きで、うれしいことでもありました。
他の方との会話の中でもびっくりしました。
僕はゲイタンの終わった日、ゲイタンで手配していただいた宿にみんなで泊まりました。このときもちろんまだ酔っていたのもあるのですが、Twitterの記事を書きました。(支離滅裂であるという指摘を受けました<もちろん自覚もありますが・・>ので、近日中に書き直します) を書いていたとき、「ブログやっているんですか?」という質問を受けたのです。この記事の最初にも述べたようにぼくは「かお。」ということで自己紹介はしていましたが、ブログのことは特に何も言っていませんでした。その中で「なんて言うタイトルですか?」という質問で「過去の日常です」と答えたところ「マジですか!知ってる!」という流れだったのです。
読んでもらっているというのを直接自覚できるというのは、とてもうれしいことだというのに気づきました。
書き始めた頃から僕は一貫して、「自分勝手」を重視してきました。コメントはあってもいいしなくてもいい。読んでくれる方はいてもいいし、いなくてもいい。もちろんいてくれればうれしい。そのようなスタンスだったのです。もちろんそれは今でも継続して考えていることは事実です。が、そうやって直接自覚できるのは、ただうれしいだけでなく、とてもうれしいということに改めて気づきました。
だからもし、皆さんが僕以外でもブログを書いている方とお会いするときは、ぜひ積極的にブログのことを話題に出してあげるといいかもしれません。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/08/29 考え(ゲイ関連)

好きという気持ちを伝える方法には様々ある。一般的とは言わないけど、ゲイの世界にはその伝え方に男女の場合とは違う方法があるように思う。
一般的に男女の場合、好きとか付き合うっていうことは、数回のデートの後に伝える事になる。そしてもちろん、プロセスの中でのデートというのは、付き合うことの合否を決めるのにとても重要な役割を果たすし、重要なステップであると考えるべきである。
会話が楽しいかどうか。というのはもちろんのこと、エスコートや誘導の方法、プランの内容まで色々と精査されるのである。もちろんすべてが成功である必要は無く、価値観をそこですりあわせることが重要だと考えている。
しかし男性の恋愛の場合、もう少し直接的でゴールまでの道のりは近い。また特にゲイコミュニティの中でのコミュニケーションの場合、オールなどで一晩を健全・不健全に過ごす機会も多く、それもまたゲイの恋愛を象徴しているように思う。
自分が相手のことを好きだとアピールする場合、それを表現する方法は様々である。男女の場合はトーク力が重要かもしれないし、男性の場合には容姿も棄てがたい部分である。そして自分が好意を寄せる相手に、常に隣にいるという方法を取ることもあれば、逆に好意を寄せている人とのコミュニケーションを遠慮がちになってしまう場合もある。
ゲイの場合には遠慮がちの場合は、非常に厳しい結果が待っている。コミュニケーションを取ることができなければお互いに脈なしと判断されてしまう場合がほとんどである。人にもよるが、いわゆる「待ち」の状態になってしまう。だから永遠に仲良くなることなどできない。
積極的にコミュニケーションを取る場合。これもまた難しい。タイプというのはそれぞれである。たとえば僕がすごく好きな人に積極的に話しかけたとしても、相手が僕のことをタイプじゃない場合。そのときはどうすればいいのだろうか。逆に相手が積極的に話しかけてきてくれても、僕がその人をタイプじゃない場合もありえる。
いちいち気にしていたら会話などできない。だけどいちいち気になるのも事実である。
僕自身の場合はスイッチが切り替わるときがある。好きとか嫌いが関係なく、好き勝手話せる場合や人。逆にどうしても、、、そして絶対意識してしまってうまく話せない場合がある。もちろんうまく話せないというのは、気の利いたことやおもしろい会話ができないか、場合によってはまったく会話ができないという意味で。
相手が僕のことを、普通に話をすることも嫌悪している場合、さすがにそれはすぐに分かる。このときには会話がほとんど成立しない。
だけど、好いてくれている場合と、嫌っている場合の態度はすごく共通しているように思う。よそよそしいことと、話が続かないこと。このときに、僕はもっとがんばってアピールをするべきなのか、それとも早々に見切りをつけるべきなのか。
逆もそう。話しかけてきてくれるのに、うれしさとは裏腹に会話が続かないことがある。あんまりベラベラしゃべって印象を悪くしたくないし、緊張しちゃって何を話ししていいのか分からない。どうでもいい人の場合には、適当にあしらえばいいだけだし。
と、僕自身の場合には考えてしまう。
逆にそういう場面を目撃したとき。もっと押せばいいのにとか、それ以上積極的に押しても無意味だよって、当事者じゃ無いから必要以上のことまで読み取ってしまう。
男女の場合に、強い押しはたまに報われることがあるのに対して、男性のそれはほぼ報われないのが非常に残酷に思う。
そうなんだけど、やっぱり自分の好きって言う気持ちと相手の好きっていう気持ちがすごくぴったりの時にうまく行くのが一番幸せだよねっていう話。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
2011/08/28 考え(自分関連)

Twitterでつぶやくことがないという話を聞いたことがある。それは非常によくわかる話でもある。日々変化など無いし、いわゆるくだらないことをつぶやくことに、あまり積極的になれないというのも非常によくわかる。
じゃあ。
くだらなくない日々・・・楽しいイベントに参加しているときにはつぶやく量は多くなるのだろうか。もしくは楽しいイベントに参加したあと、たとえば翌日とか、みんなと別れてからとか。に、つぶやく量は増えるのだろうか。
確かにTwitterを見ているといくつかのパターンがあるように思う。
今日は○○の日!とつぶやくことから始まって。電車に乗ったとか、合流したとか、これからどこに行くとか、○○さんが○○してるとか。そういういわゆる現在をつぶやくことはある。
ここで思うことがある。何もない日々につぶやくつぶやきが、くだらないことならば、何かがあった日につぶやくのは結局何かが合った日につぶやくくだらないことなのではないかと。
結局くだらないことを、常につぶやいているのだとしたら、僕は何もない日のくだらないつぶやきを見ていたい。
僕自身の話。
僕は確かに毎日くだらないことをつぶやいている。しんどいとかっているネガティブなこともあれば、これから外出とか、今日もがんばったから帰る!とか。もう誰かに指摘されるまでもなくくだらないことをつぶやいている。
そして何かのイベントの日。僕はまったくつぶやかないのである。楽しいからつぶやかないとかって言うと、色々と誤解を生みそうなのでそうは言わない。
だけど、何かをしている時はあまりつぶやこうとは思わない。
特に僕の場合、これから○○してきます的なつぶやきはどうにも抵抗意識を持ってしまうぐらい。
みんなでくだらないことをつぶやいて、一緒に楽しみませんか。
※驚くことにTwitterのアカウントを持っていない人がいる。そんなもったいない。ぜひアカウントを作って僕のことをフォローしてね!
2011/08/27 日常
2011/08/26 考え(ゲイ関連)

この世界では長期的な恋愛を実現することが難しいことは確かずいぶん前に書いたと思う。しかし最近は、比較的長い恋愛をしている人が多いのではないかと思うこともある。
ただし若い頃というのは、次から次へと恋人ができるし、場合によっては付き合っている最中にも候補として、次が待っている場合もある。
そういう恋愛なので、Aさんと付き合っているのかという認識だったらいつのまにかBさんに変わっていたということはあり得る話である。そして僕はその事実を知らずに、Bさんに変わっているにも関わらず、まだAさんと付き合っているのか。ずいぶん長いな。と。
また付き合っているかどうかを知る手段が昔に比べて増えた。昔はそれを知る手段はほとんど無かった。結局は本人の自己申告である。しかし最近はTwitterやmixiそのほかで申告すれば、それは当事者だけでなく、そのページを閲覧できる人が、その事実を知ることができる。
その辺が昔と違うところである。だからAさんもBさんもCくんもみんな恋人いるのかー。っていう印象を持つ可能性もある。
しかしそれでもやっぱり、様々な年齢の人たちが、それぞれ恋人と楽しそうにしているところを見ると、すごいなぁとかつての自分と重ねて、考えてしまうのである。
長期的な恋愛が難しいのはいろいろな理由がある。もちろんそれは制度としてのこともあるかもしれない。だけど、やっぱり肉体的なそれと、お互いの主張も大きな原因ではないかと思う。
いろいろな人がいる。たとえば毎日連絡が欲しいという人。たとえば常に一緒にいたいと言う人。インドアで常に室内がいいという人。外で遊びたいと言う人。お酒が好きだったり旅行がスキだったり。音楽だったり、映画だったり。
趣味については、長期的な関係を築くことにおいて重要なのだろうか。知り合うきっかけにはなるかもしれない。でも長い関係を築く場合にはどうなのだろうか。
ちなみに僕と彼の場合は、趣味はまったく一致しないし、好きなもの・こともほとんど一致しない。
長く続く人たちのパターンというのを知りたいが、まったく分からないというのが本当に正直なところ。ただし、いくつか当てはまりそうなことがあって、それが20代後半ぐらいから、長期的に付き合う可能性が出てくるというものである。
たとえば僕の何人かの友人で、もちろん当時もあまり続かなくて、今もあまり続かないという人はもちろんいる。
だけど何人かの友人は20代半ば~後半ぐらいになって、恋人を見つけ、少なくとも数年間の恋愛をしている人がいる。こういうのはとても気になる事例である。そしてこれは僕にも当てはまっている。
たとえば僕のことを言えば、年齢があがるにつれて、遊びにくくなったというのは事実である。昔は頻繁に(肉体的なことは別としても)お酒を飲んだり、ご飯を食べたりしていた。その結果として恋人をないがしろにしているような印象を与えてしまったかもしれないし、付き合っている人の存在は遊ぶという意味では重荷だったかもしれない。そういう考えが態度にでて・・・というスパイラルを生んでいた可能性はある。
また、それを実現できるだけの時間もあった。今は仕事も忙しいし、新しい刺激よりも既存の関係を深めることが重要だと考える自分もいる。でも当時は違った。
あとは何よりも、落ち着きたいと自分自身が考えるようになったというのもある。
友人たちがすべてそのパターンなのかは分からない。ただ、落ち着きたいという気持ちは個人差があるにせよ、やはり年齢とともに強くなっていく傾向があるように思う。そして肉体的にも精神的にもそのバランスがよくなるのがその年齢ということではないか。
ただし難しいのは性格に関する部分。僕がそうであるように、落ち着きたい。長期的な恋人が欲しいと思っても、性格はなかなか変わらない。だから性格に関する理由で独り身の場合、それを解決するのは非常に難しいのではないかと思ってしまうのである。
友人で、完全に自立している人がいる。仕事もそうだし、いろいろなものすべてに。たとえばすでに家を買って持っているし、ごはんも自分で作っているし、ペットも飼っているし。
こういう場合、男女の恋愛でもありがちな、自立しすぎている故に恋人が見つからないという可能性はあるのだろうか。とても興味深い。
そしてこの友人は最近になって恋人ができたみたい。僕が上記に挙げたようなパターンに当てはまるのか大変興味があるのです。
ご意見等は kaokao.hihi [at] gmail.com までお願いします。
※上記で挙げた友人は1ヶ月もしないうちに破局になってしまいました・・・。