過去の日常

ゲイ・バイとして過去のまとめ。30代の悩み。考え。日記。30代のカップルです。

  2011/11/08    考え(自分関連)

31歳です。十分にオジサンになってきました。見た目もそうですし、肉体的にも。そして年齢も。

僕はオジサンと言われることについて覚悟しなければならない年齢というのは、おそらくそれは30歳は一つの節目だと思う。実際には28歳ぐらいから徐々にオジサン化しているようにも思うけど。

そしてオジサンというのは昔の僕にとても重要なキーワードであった。

確か僕が17歳ぐらいだったときの話。僕が今となっては尊敬している友人と知り合ったのもこのときであった。この友人からは、深爪の影響も受けた。あまり長い期間のつきあいではないが、1-2年ぐらいだったと思う。そんな短い時間を一緒に過ごしただけだけど、僕としては爪に代表されるように、とても偉大な人で、僕の人生を大きく変えてくれた人だと思っている。(ちなみに後にも先にも「かお。君って男性がすきでしょ?」って聞かれたのは唯一この人だけだった。なおこのときは比率が男性30%-40%ぐらいだったと思う)

この友人は確か僕より少し年上で、僕が17歳ぐらいの時に、23歳ぐらいだったと思う。そして当時の僕や僕の同年代の友人からすれば、その人は十分にオジサンだった。だからよく話しかけたりするときにはオッサンとかオッチャンと声をかけたり、相手もまたそれに反応してくれたのである。

この人は僕が今まで知り合った人の中でも、桁違いの人でもあった。人に好かれることについて、天才的なのである。そしておもしろそうな本を見つけるのも天才的であった。彼の何が魅力的なのかは分からない。だけど凡庸な言葉で表現するなら、会話が天才的におもしろかったし、行動がおもしろかった。会話の押すところと引くところが絶妙であった。感情を上手に表面に出し、喜怒哀楽を共有できる人だった。

顔はごく普通で、特にかっこよくも無い。だけどすごくモテていた。(ノーマルの人です)。前にも書いたかもしれないけど、この人は必ず恋人を見つける時職業やステータスから探していた。23歳という年齢を考えるとそのような出会いも別に悪くはないのだと思うが、とにかくそんなことは普通は相当難しい。当時は「スッチーとはつきあったから次は女医さんかなー。」みたいな感じ。「女子高生がいいから紹介してって友達に言ったら、おまえの歳だったらお金払わなきゃ無理だ」って言われたらしい。

そして当時オッサンと言われても、あまり気にしていなかったようであった。確かに時々「お前らも俺の歳になったらオッサンて言われるようになるぞ」なんて言ってたけど、そうやって親しげに仲間に加われるのはその人の才能だったように思う。
むしろそういう周りとの年齢のギャップや精神的な距離感を、あえてそういうことを受け入れることで近づいていたのかもしれない。し、そういうことができる人っていうことで、魅力的に感じたのかもしれない。

だから僕は、肉体的にオッサンになることには相当抵抗があるしなんとか反抗しようと思っている。しかし他の人から、肉体的以外の部分でオッサン・オジサンと呼ばれることがあれば、それはむしろうれしさを感じる。当時僕が友人に対して使っていたその言葉は、僕は親しみや近しい距離感の表れであった。
もちろん僕に対して使われる言葉は事実の表明か侮蔑の可能性もある。だけど気にせずオッサンと呼んでもらえることは、僕はうれしいことだと思っている。

僕の人生において、数少ない尊敬できる人が言っていた言葉。「オッサンって言われるようになるぞ」という年齢になりました。
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  2011/11/07    ブログ

本当はコンテンツとはどういうことか。という定義をはっきりさせたいのだが、とりあえずここでは、コンテンツ=興味の対象として考える。

ブログを書き始めて1年ちょっとが経過した。そして僕の書いているゲイブログというのは、比較的ブログを書いている人物に焦点が当てられることが多いように思う。僕はそれが非常に怖い事だと考えている。

僕は別に自分のキャラを作るまでもなく、おそらくこの文章から読み取れるとおりだと思ってもらえればおおむね誤解が生じない。ちょっと誤解があるとすれば、普段の僕は文章から得られる印象なほど高圧的じゃないし、偉そうでもない(と思う)。

しかしほとんどのブログには、人間性がにじみ出ており、それがまたそのブログの色を作っているように思う。
人気のあるブログというのは、文章の質も当然のことながら、本人の人間としての魅力にもある程度関係してくるように思うのである。

しかしこのときに僕は問題、、というよりも読者と書き手の意識の乖離(距離感)がおこるように思う。ほんわかした雰囲気のブログを読んでいると、その書き手はさも聖人君子のような印象を持ってしまう。だから浮気だったりとか、ケンカだったりとか。そういったトラブルを読者が望まないし、書き手は読者が望んでいないことを察知する。

しかし書き手としては、意図的にそういったことを記事にすることによって、読者との距離を縮めようとするかもしれない。僕は感情が変化したときには記事を書くネタができやすいので、怒りとか喜び理不尽なことは比較的多く記事になる。

だからブログの書き手は、完全に幸せな状態よりも幸せをつかもうとしている方がいいように思う。恋人がいるよりもいなくて探している状態とか。
恋人がいる状態なら、なるべく日々は安定しており、二人の中で生じた些細なことを書く方が望まれるように思う。

僕はこのような状態には不満は全く無いし、読者の意識と書き手の意識がバランスするのであれば、それはとてもすばらしいことである。バランスすれば、ランキングやアクセス数が上がるだろうし、それはモチベーションにつながる。
しかし常に自分自身がコンテンツ=興味の対象になっていることを忘れてはならない。往々にして読者のかたは文章に魅力を感じるよりも、書き手に魅力を感じているパターンが多い。

僕は自分自身がコンテンツにはおそらくなり得ない。なったとしても、ごく少数の(悪い言い方をすれば趣味の悪い?)人にだと思う。
もし僕に興味を持っていただいて、何かの機会で会うようなことになったとき。僕の性格については、十分すぎるほど覚悟をしておいてもらいたいと切に願う。
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  2011/11/06    考え(ゲイ関連)

僕がこうしてブログに書いていることというのは、主に20代前半から中盤に書けて考えたことをまとめて書いている。ここのブログに書いてあることは、少なくとも僕がその時代・年齢の時を生きたときに、大多数の人が同じように経験していることであったと考えている。

しかしそれは今になって振り返ると、必ずしも今の事実とは重ならない部分も多い。それは出会いの方法だったり2丁目と聞いて連想するイメージかもしれない。昔とだいたい同じ、ということがある一方で、昔とはだいぶ違うと思うことも多くなった。

特に僕は、同年代から年下との交流が多く、どうしてもそれを感じる場面は多いのかもしれない。

その中でも、いい方向に進んでいるだろうと思っていることが少なくとも一つある。恋愛の方法である。かつてを語れるほど何も詳しくは無いが、男女の恋愛のように男性同士の恋愛が成立しつつあるように思う。

例えば僕の友人で、先日1年ぐらいの片思いが実って、付き合うようになった人がいる。ちなみに同い年同士の男女の恋愛。
男性と僕は友人で、その男性がおとなしい性格だということを知っている僕としては、その恋愛は、派手なことは無いかもしれないが、無難な恋愛というか、彼ららしい恋愛というのをしていくのだろうと思っていた。それは細く長くというようなイメージ。

普通の恋愛のプロセスをいちいち確認しながら進むような恋愛。例えば初めて手をつなぐとか、初めてキスをするとか。泊まりに来るとか、車で迎えにいったほうがいいのか、とか。もちろんそこには性的な行為も含まれる。

たまにしか話は聞かないが、それでも順調にステップを踏み進んでいる話をしてくれた。

そして。性的なことが終わったとたんに、悪く言えば飽きがきたような。今までの我慢が一つの大きな目標を達成することで虚無になったのかもしれない。とにかくそういう経緯があって、結局その恋愛は終わってしまった。

これがもしゲイの世界でおきたとすれば。(というよりもこれは日常的な光景でもある)、必ずどちらかに味方がつき、あーでもないこーでもない。見る目が無かった。やっぱり身体が目的だ。こっちの世界は尻が軽すぎる。などなどの非難が噴出し、そして僕のような卑屈な意見を持つに至るのである。

もちろんそういう、身体を中心としたつきあいでは無かったと思う。結果的には性的な関係を結ぶことによって、その後が続かなかった事実を見ると、身体が目的だったということも十分に考えられる。しかし友人の話では少なくとも誠意を持って終始付き合っていたのは、他人から見た事実でもある。

ゲイの世界でも、以前に比べるとまだまだ性的な関係が中心になりがちだとは思う。しかしそれは、ひょっとしたら昔に比べると性的なことがオープンになっており、僕の考える身体が中心の世界と若い人が考える身体が中心の世界というのは、異なっている可能性もある。
男女の恋愛において、今の若い人が昔よりもずっと簡単に付き合ったりだとか、別れたりだとかを繰り返している。(ちょっと前からだと幼稚園から彼氏とか彼女って言う存在がいたりするらしいですしね)
すると、当然性に対する考え方は違ってくる。そして僕は若い人からの色々な意見や話を聞くと、少なくとも恋愛に対する考え方や行動の仕方というのは、今までのゲイの世界とはだいぶ異なってきていると、そしてそれは男女の恋愛方法に非常に似てきているのではないかと考えている。
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  2011/11/05    日常

更新ができないなぁ。と。いつも頭の中にはブログがあります。
書きたいと思っていることも幾つかありますが、書かずに時間ばかりが過ぎていくという・・。

先日歯医者に行って来ました。
もう毎回のことですが、「いつもきれいで素晴らしいと思います。この調子で頑張ってください」と。
歯のことをほめられるのは、とてもうれしい。

今月はとりあえずあともう一度大阪?に行くかもしれません。
また東北方面への出張もありそう。
すでに年末の忙しさが出てきました。
最近は、打ち合わせに行くと「かおさん。年末はどこまで空いていますでしょうか。空いてないようなら年始はいかがでしょうか」そのように言われる。
サーバーの仕事が今年からいきなり増えました。だから年末年始はサーバーを止めることができるのでどうしても忙しくなってしまうようです。

そういうことで、今月は写真もあまりいいのが撮れていません。
ということで、しばらくはおとなしい毎日となりそうです。
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  2011/11/04    日常

僕はカミングアウトに対する考え方をその1からその3に分けて記事を書きました。 2011-07-02 ごろの記事です。
今回該当するのは、この中でもその3の部分。友人に対するカミングアウトです。

以前書いた記事では、友人に対しては「伝える・伝えない」という考え方ではなくて、「伝えてもいい」と考えているということを書いた。
事実今でもそれは変わらず、友人たちに対しては相変わらず伝えてもいいというスタンスである。しかし何人かの友人に対しては、「伝える」とか、「伝えたい」と考えている。今回カミングアウトしたのはその友人。

僕は伝えなければならないと考えている友人が3人いる。一人は大学の頃からの男性の友人。僕と同い年である。
もう一人が、新卒で就職した会社の同期の女性。これも同い年である。そしてもう一人が、今回カミングアウトした、取引先で知り合って親しくなった女性の友人である。こちらもたぶん同い年。

順番としては、同期・今回の友人・学生時代の友人の順番を考えていた。特に大きな理由は無いけど、ちょっと色々思うところがあるんです。

あまり頻度は多くないかもしれないが、定期的にお酒を飲んでいる。僕はビールが好きで日本酒も好き。彼女は、日本酒が大好き。そしてただ好きじゃなくて、かなり極めているようでもある。だから日本酒を飲みましょうということで、今回一緒に飲みに行った。

カミングアウトとは関係無い話だけど、彼女は非常にお酒がつよい。僕は日本酒を小さいコップで4杯ぐらい飲んだら結構酔っぱらった。おそらく2合ぐらいの量だと思うが・・。彼女は8杯ぐらいは飲んでたのではないだろうか。そしてケロリとしていた。

言おうと決意してから最初の飲みだったので、どのようなタイミングで切り出すのか迷う。妹の時もそうだったけど、話をどうやって切り出していいのかすごく迷ってしまう。
結局1件目のお店はそんな雰囲気でも無かったので、2件目のお店に。

そこで、色々な雑談をしている中で「実は言っておきたいことがあるんです」と言って切り出した。
なんでしょうか。と、相手の顔には?マークが浮かんでいる。

そこで昨日の記事で少し触れた感じで伝えたのである。
「彼女はいませんが恋人がいます。ようするに彼氏・・・恋人は男なんです。」と言ったのである。友人はそうなんだー。とあっさりとそれを受け入れてくれた。

そして、やっぱりというか、友人は僕に言う。「どんな彼氏なんですか。」と。そして僕は、まったく同じことを友人に言うときに、説明はいいからまず画像!そう言うのである。しかし僕は見せるための彼の写真を持っていないのであった。

妹は同じ状況になったときに、ゲイタンバーに来てくれたので問題は無かった。その友人も、何かそういうイベントの時に会えればいいんだけど、おそらくなかなかそうもいかないだろう。何かのタイミングで彼を連れ出さねばならない。
一応今まで何人かの人に伝えたが、特に問題は起きていないし、今まで通りである。これならカミングアウトには万人にお勧めしていいのかもしれないとちょっと考え始めている。
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  2011/11/03    日常

カミングアウトについては、今まで何回か記事にしている。
正直なところ、このブログを通じて大きく考え方が変わったことの一つにカミングアウトがある。

カミングアウトはとても難しいことで、積極的に伝えるべきだと考える人がいる一方で、積極的に伝えないと考える人がいる。
どちらが正解ということではないが、それぞれの考え方があり、またそれぞれが、信念に従って行動している。

僕はオープンであることがとても重要だと考えている。しかしそのオープンというのは、隠さないということを意味するのであり、積極的にアピールするという意味ではない。

いくつかの、カミングアウトの成功事例と失敗事例を聞いた。うまくいった例でいえば、今まで通りの友人関係が維持でき、また積極的に包み隠さず現状を話せる、心の軽さというのが手に入るような感じである。
一方で、友人関係が決定的に崩壊している場合もある。また意図せざる形で伝わってしまい、差別というほど大げさじゃなくても、後ろ指をさされるような。そういう事例もあるようだ。

また一つの意見として、誰かにカミングアウトをした場合に、その人からうわさ話として色々な人に広まってしまう懸念点というのも聞いた。

当たり前だけど、決して簡単なことではないというのが、周りの意見を聞いて思ったこと。
一方で僕は、他人、、、友人をかなり信じている。だからそういったリスクや懸念点をさんざん言われても、正直なところ、「大丈夫じゃん?」って思っているのも事実である。唯一心配、、、というかおそらく難しいだろう、、、と思っているのは、親に対するカミングアウトだけである。

今のところ、妹2人に言ったし、今回は仕事でもプライベートでもつきあいのある人に伝えた。

そしてなんの問題も無かった。

カミングアウトの経緯としては、妹の時とそんなに変わらない。
「彼女はいませんが恋人がいます。ようするに彼氏・・・恋人は男なんです。」と言ったのである。
そして女性の友人は、なんの表情も変えずに、「へーそうなんだ。」そのように言っていた。そして「もっと早く言えばよかったのに」とも。

この反応を僕は意外だとは全く思ってない。非常に当たり前の反応だと思っている。結果的には全体的にカミングアウトはもっと早くしてもよかったのかもしれないと感じている。

ということで、詳細な内容については、明日に。
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  2011/11/02    考え(ゲイ関連)

恋人の悪い部分を、どのように考えるのか。そのことについての話。
当然完璧な人は存在しない。もしある時点で完璧だったとしても、その次の瞬間には、勝手にさらなる大きな理想というのが壁として立ちはだかる場合だってある。だから結局完璧にはならないのである。

しかしそうじゃなくても、誰にだって治して欲しいとか、イヤだと思う部分というのはあると思う。それはTVばっかり見ていることかもしれないし、料理が作れないことかもしれない。お金使いが荒いことかもしれないし、飲食店での態度が悪いことかもしれない。お酒のことかもしれないし、浮気かもしれない。

恋人の直して欲しい部分についてどのように考えるのが適切なのだろうか。と、その話について、まず僕はあまり彼に対して直して欲しいと思う部分が無いに等しいので正直理想型というのが分からない。そもそも直して欲しい=直してもらうだから。

しかし彼が僕を見て、きっと直して欲しい部分や悪いと考えている部分というのはあると思う。例えばつきあい始めた直後は、太り始めたことがあったし。相変わらずお酒はよく飲んで失敗もしているし。

恋愛の究極の形になれば、悪い部分も含めて愛すことができるのかもしれない。しかしそれはなかなか難しいと思う。唯一それができるのは、長年一緒にいるときぐらいではないだろうか。
また、悪い部分を悪いまま愛するというのは、お互いにとって残酷な部分だとも思う。細かく指摘していれば、ひょっとしたらそれを直してもらえる可能性もある。もちろん背が低いとかは直しようが無い。だけど、例えば太っているとかそういうのは、がんばって努力すれば克服が可能である。
だけど、ホントはイヤなのに、太っている部分も好き。といってしまえば、それは理想型というよりは妥協型のような気がする。

本人にとってもそう。悪い部分を常に指摘され続けるのは、決して気分のいいものではない。だからあまりしつこいのは問題がある。だけど多少の意見表明はいいだろうし、そのおかげで努力を促すきっかけになるかもしれない。
例えば僕のお酒であれば、飲むことを控えて欲しいということを言われ続ければ、それはきっと、お酒の失敗を防ぐだけではなくて、それに付随する色々なことを防げる可能性もある。例えばお金使いだったり、太ることだったりとか。もちろんすぐに、行動が変わる訳ではないけど、長期的な視野で考えればお互いに真剣に取り組まなければならないことの一つかもしれない。

悪い部分も含めて好きになることが大切だというような発言がある。しかし僕はあくまでそれは、我慢とともに受け入れなければならないだけで、けっしてそこを好きになる必要は無いと思っている。たった一つのダメなところがあるだけで、その恋愛は破局したりしないだろう。だからダメはダメと認識しつつ、そこはお互いの話し合いによって、一緒に取り組んでいけばいいのではないだろうか。

もちろん取り組めることとそうじゃないことがあるので、そこはしっかり区別する必要がある。だけど、ほとんどのそういうことは解決可能な気がする。だから悪いところを含めて愛するのではなくて、一緒に立ち向かいたいと思っている。もちろん立ち向かうことが重要であって、別に結果は出なくてもいい。
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  2011/11/01    考え(ゲイ関連)

確かブログを書き始めた頃、かっこいい人はかっこいい人と恋人同士になる可能性が高いというような話を書いたように思う。(書いてないかな??)

Aランクの人はAランクとくっつくし、BランクはBランクと。あまり直接的なランク分けはご意見をいただくことになるかもしれないが、あくまで主観的なものなので。

ごくまれに、というよりもやはり姿勢としては、Cランクの人はBやAランクと付き合うべく努力するべきだし、Bランクの人もそう。ただし男女の恋愛においては美女と野獣という表現があるが、男性の場合にはそれがホントに少ない。Cランクの人がBやAランクの人と恋愛をするのはなかなか難しいのである。ちなみに容姿だけでのランク分けだとそうなるので、だからCランクの人は、肉体を鍛えたりして容姿以外のアピールポイントを作る。しかしBランクもAランクも人によっては容姿にプラスして肉体を鍛えている場合もあるからすごいことだと思う。

しかし千差万別なこの世界。必ずしもそうじゃない場合もある。ブサイクな人がランクを落として恋人を作ろうとするのはよく分かるが、決してランクを落とす必要も無いような人。そういう人が、なぜかあまり容姿がぱっとしない人を恋人とすることがある。

それは例えば、僕の目から見てあまりぱっとしないということではなくて、どのような見方をしても、ちょっと控えめすぎないか?と思うような人。もちろん性格を含めて好きになるのだから、見た目がすべてでは無い。だけどこの業界では例外なのも事実だと思う。

そしてさらにすごいと思うのは、だいたいの人が、自分の相手があまりかっこよくないことを知っていることが多い。だから当然ブサイクだと認識しながら付き合っていることになる。その状態で「だから僕は性格重視なの」という話を聞くことがあるが、正直それは眉唾である。

僕は今の恋人について、もちろん性格はとても大切なことだと考えている。しかし見た目も少なくとも知り合ったときや、若い年齢の間はとても重要だと思う。そして将来お互いが年を取ったときに、「昔はかわいかったのに」と笑って話せるぐらいがいいのではないだろうか。少なくとも、もちろん性格もとても重要だと言うことをいちいち主張するまでもなく、性格は大切。しかし見た目だって決してないがしろにしてはならないことだと思う。

そしてブサイクだという認識がありながら、その人と付き合うというのもまたとても不思議なことだと思う。何が彼をそうさせるのか。
幸いなことに、その例というのは少ない。だから僕はこれからも、このことについては地道な調査と考察を続けていかなければならないと考えている。
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  2011/10/31    考え(ゲイ関連)

若い子が好きだという時に、その理由を問われることがある。やれ若い子はわがままだとか、トークがおもしろくないとか、考え方が荒っぽいとか。

これらについて、確かにその通りだと僕も思っている。どの年齢でも悪い部分はある。僕のようにオジサンになれば、肉体的なことや硬直的な考え方などが挙げられると思うし。だから僕としては、嫌いな部分と魅力に感じる部分を考えたときに、より重要な要素をたくさん持っている人に惹かれる。

そしてその中で一番重要だとおもっているのは、考え方の柔軟性、発想力のすごさ。である。もちろんさんざん書いているように、肉体の魅力も否定はしない。だけど一番の魅力はこの考え方の柔軟性になると思っている。

何か新しいことを始めようとするとき、反対するのは必ずおじさんである。しかしそれは仕方のないことでもある。そのおじさんは、今まで自分が築き上げてきたものがあるだろうし、少なくとも今まではそれでうまくやってきた。だから今さら新しいことを始めようとすれば、それはもう不安でしかない。
もしくは不完全な状態のままおじさんになったとしても、そこからの脱却はおそらく今までさんざんチャレンジした上での今だろうから、あきらめもあるだろうし。

一方で若い子の場合、ある意味では無茶かもしれないような選択をすることがある。そしてそこから、たとえわかりきったことだとしても、しっかりと学ぶのである。僕にはこのまずやってみて、そこから学ぶという姿勢は大いに参考にしたい。
もちろん僕だって、今までの経験から行動を判断することがある。少なくとも大人になってからの軽率な行動は、悪い意味で稚拙と表現されてしまうし、巻き込む人が多くなれば、無責任ということにもなる。

どちらがいいと言うことではないが、僕としてはたとえ無茶に思えても積極的にリスクを負うような姿勢はとてもすごいことだと考えているという話。

肉体的な魅力についても少し書いておく。
よく勘違いしている人がいるが、30代ぐらいであれば息切れするようなタイミングは20代とほとんど変わらない。少なくともアスリートでなければ、階段を上がってイキが切れるようなのは、20代も30代も変わらない。どちらかと言えば日々の運動の量がそれを左右する。スポーツ選手ほどの能力を求められるのでなければ、20代と30代の直接的な肉体的な違いというのは、わずかであるし、ある程度までは努力でそれを補うことができる。

だから僕の考える肉体的な魅力というのは、30代になって明らかに落ちてくるもの。その部分である。ひょっとしたら、僕自身もまだ数年前のことだったので、未練があるのかもしれない。

例えば食事。かつては脂・脂・脂。であった。料理において脂は非常に重要であり、うまみのほとんどであったように考えていた。だから脂の多い料理というのは、僕個人の好みとしても失敗はなかった。天ぷら、焼き肉、唐揚げ、、、僕の好きな料理は脂の料理であった。
しかし今になってみると、脂はほどほどでいい。天ぷらだって昔はたくさん食べたかったけど、今は少量で満足。というよりも食べている途中で胃もたれしてくる。焼き肉もそう。
食べる量も減った。若い子がバシバシ食べている姿をみるとうらやましく思う。

性欲もそう。だけど、あまり積極的に若いこと性欲直接の話をしないのであんまりよくわかりませんが。

筋肉の具合もそう。年齢は腰・腹にでる。だから若い子がそうやってたくさん食べているのに、無駄な脂肪が全くない体つきであったり、腹筋が割れているような姿を見ると、非常にうらやましいし魅力を感じる。ただし僕の場合、そういう肉体的には、あまり直接的な性欲を感じないので、それはちょっと残念に思いますが・・。

ということで、考え方と肉体的な部分に魅力を感じます。という話でした。
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  2011/10/30    考え(ゲイ関連)

僕はかねてより若い子が好きだという、かわいい子が好きだということを強く主張してきた。若ければ誰だっていいという境地にはまだ至っていないが、いずれそこを目指したいと考えている。

よく混同されて言われることがある、若いと幼いということである。ここで両者が混同しがちなのは、性が絡むこともあるからだろうと、僕は思っている。

僕の中でこれは厳密に区別されている。しかしこの厳密という言葉を使うとさらなる誤解を生むことになる。「じゃあ何歳まで、若い子は大丈夫なの?」と。
いちいちこのような愚かで滑稽にさえ思える質問にも、しっかりと僕は答えねばならないし、その責任も感じている。

しかしこれに対する明確な回答というのを、実は持ち合わせていなかったのである。
半年もしくは1年近くに渡って、この問いについて、理にかなう説明を考えていたが、どうにも説明がしずらく、自分の気持ちと態度と、それを他人に説明することができない、非常にもどかしい状態が続いた。

今ではそれもだいぶはっきりしてきている。ということで僕の考える若い子の「若い」と「幼い「と「性」のことを絡めて少し書きたい。

まずは極端な単純な例を考える。赤ちゃんはかわいいということについておおむね異論は無いと思う。もし人間の赤ちゃんでかわいいと思うことに不安があったら、動物でもなんでもいい。
とにかく、出生直後や小さい時はかわいいと思う本能があるのだろう。赤ちゃんというのはそういうもの。
そしてその次に子供の時期がくる。しかし赤ちゃんと子供を明確に区別する方法が無いように、成長の個人差というのは大きい。
赤ちゃんは万人に受けるかもしれないが、子供は必ずしも全員が好きと言えるのかは別だと思う。うるさいとか手間がかかるとかありますからね。

このあたりまでの話は、僕にとって幼いかわいさ。当然のことながら性的な欲求などはゼロ。絶対にゼロ。別に犯罪だからとかじゃなくて、本能としてそう思う。

しかし小学生の幼い子供の時期が終わって、中学生ぐらいまで成長すると、もしくはもう少しいって高校生とか。
このとき、やっぱり小学生とか中学生を区別するのは、年齢だけで、成長の個人差というのは依然として存在している。

この年齢からが、僕にとって幼いと若いが混在している時期だと思っている。

この時期の人で、幼いというの印象を持つような子は子供として好きだから全く性的な欲求は生まれない。しかし若いという印象を持つような子の場合、これはあきらかに子供として好きというよりは、性としての欲求も出てくるような、好きでありかわいいである。

もちろん場合によっては、高校生でも子供としてかわいいというパターンだってある。ひょっとしたら大学生ぐらいまでもあるかもしれない。しかしその混在している濃淡は、黒→グレー→白ということで、徐々に混ざりながらも、大人の雰囲気になってくる。
単純に中学生を10人並べたときに、9人が子供としてかわいいと思っても、それが高校生だったら、5人が子供として、残りの5人が性的な。大学生だったら9人が性的に。っていうだけのことである。

そして、じゃあ何歳からという質問に戻る。ここで濃淡の出てくる年齢は中学生からだと思っている。もちろん1割程度しか存在しないのであれば、高校生からということにしてもいいし、確実性は増す。
しかし小学生の中で若さを感じる事は、まずまずゼロであることを考えても、濃淡ができはじめる節目の時期というのは重要ではないかと思っている。

そういうことで、僕の言う若い子が好きだというのは、あくまでも幼い子が好きという、性的なアブナイ方向性ということではないと、改めて主張したい。
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